第28話
ギルベルトとの最初の接触は互いに牽制し合うだけで終わった。彼はそれ以上俺たちに深入りすることなく、他の貴族たちへの挨拶回りへと移っていった。その背中を見送りながら俺は隣に立つイザベラに小声で囁いた。
「食えない男だな、あれは」
「ええ。蛇のように執念深く狐のように狡猾。そして心の奥底には氷のような冷酷さを隠している。私、ああいうタイプの男は一番嫌いだわ」
イザベラは心底不快そうに、しかしその表情は完璧な笑みを保ったままそう言い放った。彼女の人間観察眼はやはり大したものだ。
やがて会場に優雅なワルツの調べが流れ始めダンスタイムが始まった。貴族たちが次々とパートナーを伴ってダンスフロアへと繰り出していく。もちろん俺もイザベラの手を取りフロアへと向かうつもりだった。俺たちの記念すべき夜会での初ダンスだ。練習の成果を存分に発揮させてもらおう。
そう思った矢先、俺たちの間に一つの影が割って入った。ギルベルト将軍だった。
「イザベラ様。もしよろしければこの私と一曲お相手願えませんかな?」
彼は片膝をつきイザベラの手を取ろうとする。その行動は紳士的で非の打ち所がない。だがその瞳の奥には俺に対する明確な挑発の色が浮かんでいた。
俺は思わず眉を顰め彼の手を払い除けようとした。だがそれをイザベラがそっと制した。
「ええ喜んで。ギルベルト将軍」
彼女はにこやかな笑みを浮かべ、あっさりと彼の申し出を受け入れたのだ。
「イザベラ!?」
俺が驚いて彼女の顔を見ると、彼女は俺にしか分からないように小さくウィンクをして見せた。その瞳が「大丈夫、任せておいて」と語っている。どうやら彼女にも何か考えがあるようだ。ここは彼女を信じて任せるしかない。
俺は不本意ながらも一歩下がり、二人がダンスフロアへと向かうのを見送るしかなかった。だがその心の中は嫉妬と不安で穏やかではなかった。愛する女性が他の男と、しかも得体の知れない敵と手を取り合って踊る姿を見るのは想像以上に精神にくるものがある。
「落ち着けレオン。今は任務中だ」
そんな俺の肩をポンと叩く者がいた。アルフレッド王子だった。
「姉様のことを信じてやれ。彼女は君が思うよりもずっと強くそして賢い女性だ。それに君にはやるべきことがあるだろう?」
王子の言葉に俺ははっと我に返った。そうだ、俺はこんなところで嫉妬に狂っている場合ではない。イザベラが敵のボスと直接対峙してくれている間に俺はその外堀を埋めなければならないのだ。
「……ありがとうございます殿下。少し頭が冷えました」
「よろしい。さあ行くぞ。獲物はあちらにいる」
王子が顎で示した先にはギルベルトの側近と思われる数人の帝国騎士たちが、他の貴族たちと談笑している姿があった。彼らから少しでも情報を引き出す。それが俺に与えられた役目だ。俺とアルフレッド王子は何食わぬ顔でその輪の中へと入っていった。
一方その頃。ダンスフロアの中央でイザベラはギルベルトと優雅なワルツを踊っていた。その動きは完璧で、周囲の貴族たちも思わず見惚れるほどだった。だがその水面下では激しい言葉の応酬が繰り広げられていた。
「それにしても美しい。まるで夜空に咲く一輪の薔薇のようだ。これほどの女性がなぜあのような一介の騎士などに……。実に嘆かわしい」
ギルベルトが甘い言葉でイザベラを揺さぶろうとする。
「まあお上手ですこと。あなた様ほどの方にそう言っていただけると光栄ですわ。ですが私にとって彼はただの騎士ではありません。私の全てを懸けて愛する唯一の男性ですの」
イザベラはその言葉をにこやかな笑みで、しかしきっぱりと跳ね返した。
「ほう愛、ですか。くだらないものですな。愛などという不確かなものより、確かな地位と揺るぎない栄光の方がよほど貴女を輝かせると思いませんかな?」
ギルベルトはさらに踏み込んでくる。
「もし貴女が望むなら我がゼノン帝国に貴女の場所を用意して差し上げてもよろしい。皇帝陛下に次ぐ皇后の座を、ね。あのような騎士に傅くよりよほど貴女にふさわしいと思いませんか?」
それはあまりにも大胆でそして侮辱的な誘いだった。だがイザベラは少しも動じなかった。彼女はくすりと楽しそうに笑ってみせた。
「ふふ、面白いことを仰いますのね将軍。ですが生憎と私は誰かに与えられる地位などには全く興味がありませんの。私の価値は私自身が決めるものですから」
彼女はそう言うと踊りのステップに合わせてくるりとターンをした。そしてギルベルトの耳元でこう囁いた。
「それにあなた様こそいかがですの? 遠い異国の地で必死に成果を上げようとなさっているようですが、本国でのあなたの立場はあまり安泰ではないと伺っておりますわ。今回の任務に失敗すればあなたのその首も少しばかり涼しくなるのではなくて?」
その言葉はリリアがもたらした極秘情報に基づいたものだった。ギルベルトが帝国内の権力争いでかなり追い詰められているという情報。イザベラのその一言は彼の心の最も痛い部分を的確に抉っていた。
ギルベルトの表情が一瞬凍りついた。その瞳からいつもの余裕の色がすっと消える。だが彼はすぐに何事もなかったかのように冷たい笑みを浮かべた。
「……面白い。実に面白い女性だ、貴女は。ますます手に入れたくなった」
その言葉はもはやただの社交辞令ではなかった。彼の瞳の奥にどす黒い独占欲の炎が揺らめいているのをイザベラは見逃さなかった。
一方、俺はアルフレッド王子と共に帝国騎士たちとの「情報交換」に勤しんでいた。最初は警戒心の塊だった彼らも王子という身分と、俺が振る舞うこの国で最高級の酒に少しずつ心を許し始めていた。
「いやあバーンズ殿はお強いですな! さすがはドラゴン殺しの英雄様だ!」
「それに王子殿下自らが我々のような者にこうして酒を注いでくださるとは! 感激の至りです!」
すっかり上機嫌になった騎士たちは饒舌になっていく。俺は彼らの話に相槌を打ちながら巧みに会話を誘導していく。前世で培ったサラリーマンとしての接待スキルがこんなところで役に立つとは皮肉なものだ。
「そういえばシュヴァルツ将軍は本当にすごい方ですな。我々のような平民出身者でも実力さえあればのし上がれることを証明してくださった」
「そうだそうだ! だがその分、敵も多いらしい。特に古くからの門閥貴族たちは将軍のことを快く思っていないとか……」
「おっといかんいかん。これはあまり大きな声では言えん話だったな。はっはっは」
騎士たちは酒の勢いもあってか、ぽろりぽろりと重要な情報を漏らし始めた。ギルベルトが帝国内で孤立していること。彼の出世を妬む政敵が多く存在すること。そして今回の使節団も表向きは親善のためだが、裏では彼の失脚を狙う者たちによって仕組まれたものである可能性があること。
(なるほどな……。つまり彼はここで何としても成果を上げなければ後がない、ということか)
全てのピースが繋がり始めた。彼がなぜこれほど大胆に、そして性急に動こうとしているのか。その理由が見えてきた。
俺とアルフレッド王子は顔を見合わせ静かに頷き合った。これだけの情報があれば十分だ。
その時ちょうどダンスを終えたイザベラが俺たちの元へと戻ってきた。その表情は涼しげな笑みを浮かべているが、その瞳の奥には確かな闘志が燃えている。
「お待たせレオン。少し面倒な虫がついてしまって」
彼女はそう言って俺の腕に再びそっと寄り添った。その言葉と行動が周囲の、特に帝国騎士たちに俺たちの揺るぎない関係性を見せつける。
「どうだった?」
俺が小声で尋ねると彼女はにっこりと微笑んだ。
「ええ、上々の手応えよ。あの男、思ったよりもずっと分かりやすい小物でしたわ。少しつついただけで面白いように動揺してくれてよ」
その言葉に俺は思わず笑みがこぼれる。本当に頼もしい俺の恋人だ。
「こちらも面白い話が聞けたところだ。どうやら彼には焦らなければならない、それなりの理由があるらしい」
「まあそうなの? ぜひ後で詳しく聞かせてちょうだい」
俺たちはそう言って意味深に視線を交わした。もはやギルベルトは俺たちの掌の上で踊っているようなものだ。
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