第16話
俺とイザベラ様が晴れて恋人同士になってから、数日が過ぎた。
あの夜会での激動、俺の逃亡劇、そして観閲式での逆転劇。まるで嵐のような日々だったが、今は嘘のように穏やかな時間が流れている。
俺は、ヴァインベルク公爵邸の一室を与えられ、引き続きイザベラ様の護衛という名目で、その傍にいることを許されていた。
いや、名目だけではない。フレイア姫の背後にいた黒幕「X」の正体は未だ不明。いつ、どんな形で新たな脅威が訪れるか分からない。俺の護衛騎士としての役目は、まだ終わっていないのだ。
だが、以前と決定的に違うことが一つある。
それは、俺たちの関係だ。主従であり、そして今は、恋人同士。その甘く、そして少しだけくすぐったい響きに、俺はまだ慣れずにいた。
「レオン、何をぼんやりしているの?」
ふと、可愛らしい声が聞こえ、俺は我に返った。
見ると、美しい深紅のドレスを身にまとったイザベラ様が、不思議そうな顔で俺の顔を覗き込んでいる。
「あ、いえ……申し訳ありません、イザベラ様」
俺は慌てて姿勢を正す。ここは、彼女の私室に続くバルコニー。今日も今日とて、俺は彼女の護衛任務についている。
「もう、二人きりの時は『イザベラ』と呼んでほしいと、あれほど言っているでしょう?」
イザベラ様――いや、イザベラは、少し頬を膨らませて俺を見つめてくる。
その仕草が可愛らしくて、俺は思わず顔が緩みそうになるのを必死に堪えた。
「……善処します、イザベラ」
俺がそう言うと、彼女は満足そうに微笑んだ。その笑顔は、太陽のように眩しくて、俺の心臓を容赦なく撃ち抜く。
恋人になってからというもの、彼女は以前にも増して、俺に対して素直な感情を見せてくれるようになった。それは、俺にとって何よりの喜びだった。
「それで? 何を考えていたの? もしかして、私のことかしら?」
イザベラは、悪戯っぽく笑いながら俺に尋ねてくる。
その言葉は、半分冗談で、半分本気なのだろう。
「……はい。あなたのことを考えていました」
俺が素直に認めると、今度は彼女の方が驚いたように目を見開いた。そして、みるみるうちにその白い頬を赤く染めていく。
「そ、そう……。わ、私も……あなたのことを、考えていたわ」
しどろもどろになりながらそう言う彼女が、愛おしくてたまらない。
俺は、そっと彼女の手に自分の手を重ねた。
「イザベラ……」
「レオン……」
俺たちの間に、甘い空気が流れる。
このまま、彼女を引き寄せて、唇を奪ってしまいたい。そんな衝動に駆られるが、ぐっと堪える。ここは王宮の、しかも公爵家の屋敷だ。誰が見ているか分からない。
俺がそんな葛藤と戦っていると、不意に、部屋の扉がノックされた。
「イザベラ様、アンナです。入ってもよろしいでしょうか?」
俺たちは、はっとしたように慌てて手を離した。
アンナか……。相変わらず、タイミングの悪いやつだ。
「ええ、どうぞ」
イザベラは、何事もなかったかのように平静を装って答える。さすがは元悪役令嬢、切り替えが早い。
扉が開き、騎士服に身を包んだアンナが入ってきた。彼女は、俺とイザベラを交互に見ると、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。
「おや、お二人さん。お楽しみのところ、お邪魔だったかな?」
「ち、違うわよ、アンナ! 私たちは、ただ話をしていただけで……!」
イザベラが、顔を真っ赤にして否定する。その慌てぶりが、逆に怪しいのだが。
「はいはい、分かってるって。で、レオン。あんた、いつまでイザベラ様のことを『イザベラ様』って呼んでるんだい? 恋人になったんだから、そろそろ呼び捨てにしたらどうなんだ?」
アンナの的確なツッコミに、俺はぐうの音も出ない。
確かに、その通りなのだが……。長年の癖というか、どうしても気恥ずかしさが勝ってしまうのだ。
「う、うるさいな。俺の勝手だろ」
俺は、そっぽを向いてそう言うしかない。
「まあ、あんたたちのそういう初々しいところも、見ていて面白いからいいんだけどさ。それより、イザベラ様。そろそろ、旦那様……ヴァインベルク公爵閣下がお呼びですよ」
アンナの言葉に、俺は少しだけ緊張した。
ヴァインベルク公爵閣下。イザベラの父親であり、この国の宰相も務める傑物だ。
今回の事件では、俺の無実を信じ、擁護してくれた恩人でもある。だが、それはあくまで、公人としての判断。娘の恋人として、俺が彼にどう見られているのか……それは、まだ分からない。
「お父様が……? 分かったわ、すぐに行くわね。レオン、あなたも一緒に来てちょうだい」
イザベラは、そう言って俺の手をぎゅっと握った。その手は、少しだけ震えている。彼女もまた、父親に俺たちの関係をどう話すか、緊張しているのだろう。
「もちろんです」
俺は、彼女の不安を和らげるように、その手を強く握り返した。
たとえ相手が公爵閣下であろうと、俺の覚悟は変わらない。イザベラを、必ず幸せにしてみせる。その想いを胸に、俺は彼女と共に、公爵閣下の待つ執務室へと向かった。
重厚なマホガニーの扉をノックすると、中から威厳のある声が聞こえた。
「入れ」
俺とイザベラは、顔を見合わせ、一つ頷くと、ゆっくりと扉を開けた。
執務室の中は、壁一面に本棚が並び、重厚な調度品が置かれている。その中央にある大きな執務机の向こうに、ヴァインベルク公爵、ダリウス・フォン・ヴァインベルクが座っていた。
銀色の髪をきっちりと撫でつけ、鋭い鷲のような瞳でこちらを見据えている。その姿は、一国の宰相としての威厳に満ち溢れていた。
「お呼びでしょうか、お父様」
イザベラが、淑女の礼をとりながら尋ねた。
「うむ。そこに座りなさい。レオン・バーンズ君もだ」
公爵閣下は、そう言って机の前の椅子を顎で示した。
俺たちは、おとなしくその椅子に腰掛ける。重苦しい沈黙が、部屋を支配する。まるで、罪人が判決を待っているかのような気分だ。
やがて、公爵閣下がゆっくりと口を開いた。
「イザベラ。そして、レオン君。君たちの関係については、すでに聞いている」
その言葉に、俺とイザベラの肩がびくりと震えた。
やはり、ご存知だったか……。
「単刀直入に言おう。私は、君たちの交際を……認めるわけにはいかない」
その言葉は、冷たく、そして絶対的な響きを持っていた。
俺の心臓が、どきりと大きく脈打つ。やはり、そうか……。公爵令嬢と、一介の騎士。身分の差は、そう簡単に埋められるものではない。
「お父様! どうしてですの!? 私たちは、お互いに……!」
イザベラが、思わず立ち上がって抗議しようとする。だが、俺はそっと彼女の手を制した。ここで感情的になっては、事態が悪化するだけだ。
「閣下。お言葉ですが、俺は……イザベラさんを、命に代えてもお守りし、必ず幸せにすると誓います」
俺は、椅子から立ち上がり、公爵閣下の目を真っ直ぐに見つめて言った。ここで引き下がるわけにはいかない。
俺の言葉を聞いた公爵閣下は、しかし、表情一つ変えなかった。
彼は、冷徹な目で俺を見据え、静かに言った。
「誓い、か。言葉だけなら、何とでも言える。君に、その資格があるのかどうか……私に見せてみてもらおうか」
「資格……ですか?」
「うむ。近々、我がヴァインベルク領で、大規模な騎士団の合同演習が行われる。そこで、君がどれほどの男か、この目で見極めさせてもらう」
合同演習……。それは、各地の騎士団から精鋭が集まり、その実力を競い合う、数年に一度の大規模な軍事演習だ。そこで、俺の価値を試すというのか。
「もし、君がその演習で、誰の目にも明らかな功績を挙げてみせたなら……その時、改めて君たちのことを考えてやろう。だが、もしそれができなければ……イザベラからは、きっぱりと手を引いてもらう」
それは、あまりにも厳しい条件だった。だが、俺に否やはない。
これは、チャンスだ。俺が、イザベラにふさわしい男であることを、力で証明できる絶好の機会。
「……分かりました、閣下。そのお話、お受けいたします」
俺は、迷うことなくそう答えた。
その言葉に、公爵閣下の瞳の奥に、ほんのかすかな光が宿ったように見えた。それは、期待の色だったのかもしれない。
「よろしい。ならば、せいぜい励むことだな」
公爵閣下は、そう言うと、再び書類に視線を落とした。
俺たちの話は、もう終わりだということだろう。
俺とイザベラは、静かに執務室を後にした。
扉を閉めた瞬間、イザベラが心配そうな顔で俺に駆け寄ってきた。
「レオン、大丈夫なの……? 合同演習なんて……無茶よ!」
「大丈夫だよ、イザベラ。俺を信じてくれ。必ず、最高の功績を挙げて、お義父上……いや、公爵閣下に認めさせてみせる」
俺がそう言って力強く微笑むと、イザベラは少しだけ不安そうな顔をしたが、やがてこくりと頷いた。
「……分かったわ。あなたを、信じるわ。でも、絶対に無茶はしないでね。あなたが無事でいてくれることが、私にとって一番の幸せなのだから」
彼女は、そう言って俺の胸にそっと顔をうずめた。
その温もりと、健気な言葉に、俺の闘志はますます燃え上がる。
見ていてください、閣下。俺が、あなたの娘さんを幸せにできる唯一の男だということを、必ず証明してみせますから。
そう心に誓い、俺は来るべき合同演習に向けて、静かに準備を始めるのだった。それは、俺たちの未来を賭けた、新たな戦いの幕開けでもあった。
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