第2話 — 俺は何で家を出たんだっけ?
「いくつかの扉は冒険へと誘う。しかし、他の扉はただ通行料を請求するだけだ。」
街の門がそびえ立つ──文明か、それとも単なる官僚主義の塊か。
カエルは肩のボロボロのマントを直し、深く息を吸い込んだ。 「問題なし。入る、登録する、まともな飯を食う。」
「まともって…まさか光ってない食べ物のこと?」 タロンが嫌味ったらしく呟く。
「一回だけだったろ!」 「昨日の話だが?」
近くから衛兵が二人を認識し、ため息をついた。そのため息はまるで顔なじみの厄介者を見るときのそれだった。
「おいおい…またこいつらか…」 衛兵は顎を掻きながら呟く。
「ギルドの証明書を出せ。」
カエルはポケット、腰のベルト、バッグの中を探り回る。 「えーっと…ここにあったはず…」
「ほぅ、あったらしいぜ?」 タロンが芝居がかった口調で言う。
「脳みそと一緒に忘れたんじゃないか?」
ようやくカエルは鉄の板のような何かを取り出した。曲がっているどころか、ほぼ錆びかけており、ギルドの紋章もほぼ消滅していた。
「ほら、これだ。」
「まっすぐなはずだが?」
「まっすぐだった。」
「どうやったら金属の証明書を曲げられるんだ!?」
「まぁ…事故ってやつだ。」
「お前、また寝てる間に潰しただろ?」 タロンが鋭く指摘する。
衛兵は深いため息をつきすぎて、もう自分の忍耐すら吸い込んでしまいそうだった。
「…さっさと入れ。俺の気が変わらないうちにな。」
「任せろ、今回は違う!」
「前回もそう言ったよな?」
「だって、あの火事は俺のせいじゃない!」
「お前のせいだろ、カエル!!」 タロンが叫んだ瞬間、
「とっとと入れぇぇ!!」
──門を通過し、二人は肩を落とす。
「門番に恥をさらすのが俺の運命か。」
「お前、あの口調聞いたか?完全に俺に個人的な恨みあるだろ?」
「華々しい入場…いや、ただの公開処刑か。」 タロンはぼそっと呟きながら、混沌とした街を歩く。
カエルは無意識にマントを直した。 何かがおかしい。 叫びの合間にある妙な静けさ、わずかに重い空気。
そして──突如現れたボロボロのゴブリン。 怪しい笑みを浮かべ、手には何か奇妙な物を握っていた。
「この石…逆転月食の夜に空から落ちてきたんだぜ。 それは…お前の心の奥で輝く…」
その「輝き」とやらは、ただの割れたタイルだった。 汚れまみれで、ヒビだらけ。
「輝いてるのはお前の腫れた肝臓だろ、オッサン。」 タロンが容赦なく突っ込む。
「で、その石は何に使えるんだ?」 カエルが疑いの目を向ける。
「使えるさ…お前が信じればな。」
その瞬間、ゴブリンは足をもつれさせ、 キャベツ満載の荷車に突っ込んで消えた。
残されたのは、ただの割れたタイル。
カエルはそれを拾い、じっと見つめる。 美しくもない。価値があるようにも見えない。 だが…何かが引っかかる。 まるで、起こったことのない記憶の残響のように。
「これ…本当に何かの遺物なのか?」 思わず呟く。
タロンは即座に切り返す。 「ゴブリンが詐欺師だって気づいてないのか?それともバカのフリしてる?」
カエルはタイルを握りしめる。 しかし、違和感は消えない。
そして、さらに混乱が増す。
市場の喧騒の中、 ガラガラ声の商人が叫ぶ。
「昨日のパン!3つ買えば2つ分の値段! よく噛めば、昨日の味なんて気にならない!」
すると、向かい側の巨大なオークが、 自信満々(だが無計画)な顔でさらに大声を張り上げる。
「明日のパン!焼きたて! まだ存在してないけど、もう最高だぜ!」
「俺のパンは現実にある!」 商人が必死に反論。
オークは高らかに笑い飛ばす。 「現実なんて簡単だろ?難しいのは、まだ存在しないものを売ることだ!」
男は空っぽの板を掲げ、まるで芸術品のように誇らしげに指差した。 「これが未来のパンだ!分かる奴は買う!」
その間、ネズミが二人の間を走り抜けた。 誰も気づかない。
混乱の中、カエルがぼそっと呟く。 「俺はただ…チーズが欲しいだけなんだ。」 まるで間違った神に祈るかのように。
タロンは目を細め、呆れたようにため息をつく。 「チーズ?それは便秘した貴族の贅沢品だぞ。 俺たちは賞味期限切れの希望すら買えないのに、チーズだと?」
「ほんの一欠片だけ。 鼻を刺すほど臭いやつがいい。 それくらい腐ってる方が、価値がある気がする。」
二人は市場の屋台を歩きながら、 叫び声、錆びた缶、そして太陽に発酵するキャベツの匂いを避ける。
「良いチーズは臭う。 人生と同じだ。」 カエルは酔っ払いの哲学者のように呟く。
「それか、お前が熱でもあるんだろ。」 タロンがぼやく。
カエルは空の瓶を蹴飛ばし、 それが地面で寝ていたドワーフに跳ね返る。
乾燥肉の屋台を通り過ぎる。 小柄なノームが「空飛ぶ豚のハム」を売っていたが、 それはどう見てもブーツの底にしか見えなかった。
カエルは一瞥もせず、ぼそっと呟く。 「母さん、昔チーズ作ってたんだよな…」 それは独り言のようだった。
「ヤギのミルクと忍耐でな。 どっちもすぐ腐るんだ。」
タロンは鼻で笑うが、すぐには返事をしない。 3秒間の沈黙──彼にしては記録的な長さだった。
そして、肩を軽く叩く。 「お前、ノスタルジックになってるな。 それは危険だ。 思い出に浸る奴は、借金か墓場行きだ。 時には両方だ。」
カエルは荒れ果てた花壇の前で立ち止まる。 そこでは枯れかけたハーブが、 水と希望を求めていた。
彼は手の中の割れたタイルを見つめる。 光らない。 一度も光ったことはない。
本来は軽いはずなのに、 今はまるで鉛の塊のように重い。
「それに祭壇でも作る気か?」 タロンが苛立ち気味に言う。
カエルは何も答えず、 タイルを花壇に投げ捨てた。
乾いた音が響く。
何も起こらない。 魔法も、輝きもない。
ただ、ゴミがゴミとして受け入れられた音だけが残った。
「よし。俺の供物は終わりだ。」 カエルは淡々と言い放つ。
「無能の女神が、お前の貢献に感謝するぞ。」 タロンは皮肉げな笑みを浮かべる。
少し先に、ギルドの建物が見えてきた。 歪んだ鉄骨、石の階段、そして絶望すら閉じ込める重い扉。
その前に立つと、世界が静かになった。 痛みの前触れか、最悪な契約の予兆か。
カエルは冷たい金属を見つめる。 それは、彼を残された僅かな希望から隔てる壁だった。
タロンは、いつもの皮肉を忘れずに囁く。 「さあ、入るぞ、負け犬。 ショーは続けなきゃな。」
カエルはギルドの扉の前で立ち止まる。 冷たい金属の感触が、妙に重く感じる。
深く息を吸い込み、押し開けた。
──黄金の光が、天井に吊るされた魔法灯から溢れ出す。
そこには、冒険者、受付係、破産した傭兵、そして現実逃避中の酔っ払いがひしめいていた。
ざわめきが、一瞬止まる。 視線が集まる。
「…あいつだ…」 誰かが、酒杯を口に運びかけたまま呟く。
「火事のやつか?」 「いや、粉砕した水車の方じゃないか?」 「違う、馬小屋を爆破したやつだろ?」 「いやいや、ただの落ちこぼれヒーローだ。」
その言葉は、十分に痛かった。
タロンは、カエルの背後で満足げに剣を鳴らす。
彼女の声は、いつものように鋭く冷たい。 「ほら、どんどん有名になってるぞ。 我らが英雄…火事の英雄。」
「…」
「いや、もっと正確に言うなら…」 タロンは言葉を楽しむように続ける。
「火事を起こした英雄だな。」
カエルは何も言わない。 言いたくないわけじゃない。 ただ、彼の尊厳が今、床に穴を掘って逃げようとしていただけだ。
タロンは容赦しない。 「さあ、笑え。 名誉があるフリをしろ。 奴らはそれが大好きだからな。」
酒場の奥から、誰かが叫ぶ。
「おい、放火魔! また街を燃やしに来たのか? それとも、ただの依頼か?」
笑い声が響く。 ジョッキが飛ぶ。 誰かが拍手する。
カエルは深く息を吸い込む。 あの事件で死んでいればよかった。 いや、その前の事件で。 いや、タロンと出会う前に。
剣がまたチリンと鳴った。 「ほら、シャキッと歩け。主人公っぽくな。」
カエルはギルドのカウンターへ向かって歩き出した。 その足取りは、人生の選択ミス全履歴を引きずっているかのように重かった。
彼は乾いたため息をつき、すでに会話が面倒になることを悟っていた。 「依頼の報告だ。」 そう言って、巻物をカウンターに投げ出した。 「カルセン村の防衛。ゴブリン、四体。」
「ゴブリン四体……それとも村が四つ?」 受付嬢は帳簿から目を離さずに言った。
カエルは一瞬沈黙し、片目がピクッと痙攣した。 「ゴブリン四体。村は一つ。書いてあるだろ。」
「書いてある……でも、完了してるとは書いてない。」
サーロンが金属音を立てて震えた。怒りの共鳴だ。 「今言っただろうが、この文字読めるモグラ女!」
受付嬢はゆっくりと目を上げた。完璧な冷静さ。 鼻にずれたメガネを直す。唯一、彼女の完璧な姿勢に乱れがあるとすれば、それだけだった。
「でも、愚か者って誰なの?喋る剣?それとも剣と喋る人間?」 受付嬢はそう言って、まるでソクラテスを引用したかのようにパチリと瞬きをした。
「バカ女!」とサーロンが唸った。
「バカって…質問する方?それとも答える方?」
カエルは顔を手で覆い、疲れ切った声で言った。 「もう…いいから。依頼完了のハンコ押してくれ。」
「物理的なハンコ?それとも…存在論的なハンコ?」
サーロンは鞘の中でギシギシと軋んだ。 「一回だけでいい。斬らせろ。片足だけ。どうせまた生える。」
受付嬢は肩をすくめ、巻物に魔法の印を押した。青い煙がふわっと立ち上がる。
「完了。…でも、本当に“完了”なんて存在するのかしら?」
「お前の魂、耳から引きずり出してやるぞ!!」
「落ち着け、サーロン…」カエルがぼそっと呟いた。
「肺がねぇんだよ、ボケ!」
受付嬢は巻物を見つめたまま、目を上げずに言った。 「ゴブリン四体で銀貨二枚…それと、満足感は?」
カエルは銀貨を受け取り、疲れた声で答えた。 「金は金だ。次は何だ?」
受付嬢はまた肩をすくめ、さらっと言った。 「唾吐き草、七本。…でも、なぜ“唾吐き”って呼ばれてると思う?」
サーロンが震えた。怒りの共鳴。 「また哲学始めたら、その舌を斬るぞ。」
カエルはため息をつく。 「行こう。説教が始まる前にな。」
彼が扉を押し開けようとした瞬間、 甲高い声がどこからともなく響いた。
背後では笑い声と倒れる酒杯の音。 二人は足を止める。
色褪せたローブの男が現れた。 異様に大きな目が、異常さを際立たせる。
「時計から逃げたネズミの話を聞いたことは?」
「…ないな。」
沈黙。 カエルが瞬きをする。 タロンは金属的な不満を漏らす。
「そうか。 あいつは前にも後ろにも走ったが、 どこにも進まなかったんだ。」
男は二歩進み、天井を見上げる。 まるで、ネズミがそこから落ちてくるのを待っているかのように。
「奴は明日のパンを食うらしい。 だが、そのパンは叫ぶ沈黙でできているんだ。」
カエルは口を開く。 閉じる。 黙ることを選ぶ。
「それと、持ち主のない影には気をつけろ。」 男は今度は囁くように言う。
「そいつは、誰も失っていない記憶を盗んでいく。」
タロンがぼそっと呟く。 「こいつよりまともな武器を見たことあるぞ。」
「影とネズミは、時間が存在を忘れるたびに出会うらしい。」 男は腕を組み、締めくくる。
「…あるいは、夜中にチーズをなくした奴の言い訳かもしれんがな。」
男は二度瞬きし、 闇の中へと消えた。 まるで、最初から存在していなかったかのように。
カエルはタロンを見つめる。
「…これ、無視するか?」
「全力でな。」
夜が訪れる。
ギルドを出ると、 通りは静まり返っていた。
遠くの酒場から、 笑い声がかすかに響く。
焼き肉の香りがカエルの腹を刺激する。 だが、彼はそれを無視する。
「さて、宿は借りられるか?」 タロンが尋ねる。
カエルは銀貨を数える。 もう一度数える。 ため息をつく。
「明日のパンすら買えねぇな。」
二人は諦めの視線を交わし、歩き出す。
馬小屋は暗い。 だが、静かだった。
それだけで、 空腹を忘れるには十分だった。
干し草の匂い、糞の臭い、そして敗北感が、 二人を温かく迎え入れる。
カエルは二つの樽の間に横たわり、 マントを顎まで引き上げる。
腹が鳴る。空っぽだ。
タロンが微かに剣を鳴らす。
「寝ろ、英雄。 夢の中なら、宴が待ってるかもな。」
カエルは目を閉じる。
干し草の匂いが、空腹を誤魔化す。 …ほんの少しだけ。
「どうせ、明日のパンの夢だろうけどな。」
静寂が降りる。重く。
「干し草と沈黙の中、英雄は眠りについた。
パンもなく、約束もなく。
ただ、夢のあるべき場所で、空腹が鳴り響くのみ。」
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