第3話 太陽の風

 人がまばらになった会社の中は、少し肌寒い。まだ口の開かないクーラーを見つめると、このまま夏なんて来ないでほしいと、凪は願った。

 半袖の季節は苦手だ。

 女の子達の細い腕を見つめながら、暑くないと強がりを言っている自分がいた。


「渡会!」

 お昼を過ぎた頃。

 渡会直が凪を訪ねて会社までやってきた。何年も会っていないのに、自分の目の前にいる渡会は、昔と同じ目をしてこっちを見つめている。

 茶色のキレイな髪は、中学生の時よりも少し短くなったもの、相変わらず光りにあたるとキラキラと輝く。

 渡会は手に持っていたバトミントンのラケットを凪に渡す。鼓動はこれでもかってくらい、強く速く打ち始める。

 ラケットを受け取った凪は、さっきから課長がこっちを見ているのを気にして、渡会を連れてロビーへむかった。

「待ってて。ラケットはロッカーにあるから、今取ってくる。」

 凪は渡会をロビーで待たせ、女子更衣室の一番奥にある自分のロッカーへ足早にむかった。長細いロッカーの扉を開け、さっき届いた細長い箱を抱えると、凪はロビーへ走っていった。

「これ。」

 凪は渡会に箱を渡した。

「見ていいか?」

「どうぞ。」

 渡会は段ボールを蓋を止めてあるガムテープを丁寧に剥がすと、中から凪の同じラケットカバーが入っていて、カバーを外すと、同じ柄のラケットが出てきた。

「グリップテープもまったく同じだったんだな。」

 渡会が少し笑った。

「よく、自分のじゃないってわかったね。」

 凪は渡会が手に持っているラケットを見つめた。カバーから取り出されたラケットも、同じメーカーのもので、デサインも同じだった。あとからつけたグリップテープも、同じ素材で同じ色のものだった。

「自分のだってわかるだろう。持った感じがぜんぜん違うから。」

 渡会はラケットのむきを変えたり、握りを確かめる様に、何度もグリップを触っている。

「そうかなぁ?」

 凪は不思議そうな顔をした。

「渡会はけっこう汗っかきだよな。」

 渡会は握っているグリップの面を凪に見せた。

「そういうの、わかるんだ。」

「わかるよ。」

 確かに自分は汗っかき。夏服になると、真っ白なセーラー服やYシャツに、汗の染みがついていないか、いつも気になっていた。すれ違いざまに漂う汗の匂いが、周りの誰かを不快にさせ、影でヒソヒソ言われているかもしれないと思うと、いま少しでも流れる汗を隠すように、薄着になる事を避け、今でも汗が目立たない濃い色の服を選んで着ている。

「ごめん、仕事に戻る。」

 凪は渡会に、鼓動が速くなっている事を気づかれないように、少しだけ視線を合わせてすぐに反らした。

「良かったら連絡先教えてよ。今度一緒に練習しようか。」

 渡会は笑顔でそう言った。

 凪はさっきから、息が出来ないほどに胸が苦しい。震える手で、やっとスマホを渡会の前に差し出しすと、渡会はあっという間に凪のQRコードを読み取った。

「後で連絡する。」

 そう言って凪に小さく手を振り、会社を出ていった。突然吹いた夏の風は、凪の心のガラクタを吹き飛ばした。

 凪は席に戻る途中、渡会からラインに気がついた。

 “よろしく”とだけ書かれたメッセージに、同じ様に“よろしく”とだけ返信した。

 自席に座ると、

「仕事、終わるのか?」

 課長が嫌味を言うように、凪の席後ろを通り、コーヒーの匂いを漂わせた。


「昼にここに来たやつは誰だよ。」

 夕方、平岡が凪の近くにやってきた。

「高校の同級生です。」

 凪がそう言って資料をめくっていると、平岡は空いている隣りの席に座り、

「そいつは元彼か?」

 凪に聞いた。

「違います。」

 凪は資料から数字を見つけ、パソコンに打ち込む。

「効率悪い仕事してんな。その数字、どっかのファイルに入ってんだろ。」

 平岡に凪のパソコンを覗いた。

「探したんですけど、見当たらないんです。」

 凪はパソコンを覗いている平岡の横顔を見た。

「ちょっと、貸せよ。」

 平岡は凪のパソコンのマウスを動かし、いくつかのファイルを開いて、必要な数字を見つけた。

「これ、写せよ。」

「すごい、平岡さんありがとうございます。」

「課長、ここに入ってるって事は知ってるはずだけど。」 

「そうなんですね。」

 凪は話しをはぐらかした。自分が課長に好かれていないという事は、なんとなく感じている。

「もしかして、お前、目つけられたのかもな。」

 図星の平岡の言葉を認めたくはない。自分は集団の中で目立たず、誰とでも上手くやっていきたいのに。

「なんでですか?」

 凪はわかり合えない事が悔しくて、平岡にそう言った。

「ただ、気に入らないだけだろう。自分に媚を売ってこない、つまらない女だしさ。」  

 凪は平岡にも課長にも腹が立った。

「最低ですね。そういうの。」

 気持ちが沸騰しているのを悟られないように、ボソッと本音を呟く様に言い捨てる。

「泣けばいいんだよ。泣けば男は慰めてくれるからさ。女の強がりっていうか、勝ち気なところが、課長はムカつくんだろう。お前にとっては上司なんだし、少しはカッコつけさせてやれよ。」  

 それを上手にできない自分は、ここには居場所がないんだ。

「勝手にしてください。」

 凪は打ち込んだ資料を印刷すると、平岡の前に持っていった。

「お願いします。これ、平岡さんの目で確認してください。間違ってなかったら、課長にメールしますから。」

 平岡は凪から手渡された紙を眺めた。

「よし、これでいい。一応、紙でも課長に提出しておけ。」

「はい、ありがとうございます。」

 凪はその紙を課長の机に置くと、席に戻り課長のパソコンにメールを送った。そして、パソコンを閉じる。

「帰るか。明日から出張だろう。」  

 平岡が言った。

「はい。」

 凪は時計を見た。

「渡会、俺を送っていけよ。」

「またですか?」

「なんか、奢ってやるからさ。」 

「食事はけっこうです。帰って急いで出張の支度しないと。」

「出張は公用車だろう?」

「そうです。」

「誰と一緒だ?」

「ナツさんです。」

 ナツこと広川奈津子は、課長と同期のベテラン職員で、今は別の課で仕事をしている。

 ナツが入社した当時は、女性を出世させるなんて風潮は社会にはなく、ほとんどの女性達は、結婚して会社を退職していった。

 そんな仲間をさんざん見送ってきたナツは、今、男性職員に負けないだけの仕事をこなしている。自身も結婚して出産して離婚をしているらしいが、仕事も子育てにも手を抜かないナツと、肩書きがついて、少し態度が変わった課長とは、お互いに男のくせに、女のくせにと罵りあっている。

「あぁ、あのおばちゃんか。課長、だからお前に行けって言ったんだな。」

「私はナツさんで良かったです。」

「まぁ、お前はなぜかあのおばちゃんに可愛がってもらってるよな。若手なんて木っ端微塵に怒られる事もあるらしいけど。」

「そうですか?」

「いいから、早く帰るぞ。」

「あっ、はい。」

 平岡は課内の電気を消した。

「ロッカーに寄ってから、玄関に行きます。」

 凪はそう言って、地下へと続く薄暗い階段を降りていく。

「俺も行くよ。」

 平岡が後をつけてくる。

 女子更衣室の前で止まると、

「玄関で待っててください。」

 凪は平岡の足を止めると、ロッカーにラケットを取りにむかった。

 ラケットを手に取ると、玄関で待っていた平岡の前に行った。

「ガット張り替えたのか?」

「はい。」

 さっき会った渡会の事を思い出し、凪はまた鼓動が速くなった。

「これ、昼間のやつが持ってきたのか。」

「そうです。間違って配達されたみたいで。」

「へぇ~、そういう事もあるんだな。」

「同じラケットだったし、それに、」

「それに?」

「同じ渡会だったから。」

「珍しい名前だけど、被りってあるんだな。」

「あるんですよ。」

「もしかして、ドラマや映画みたいに、運命感じてたりすんのか?俺の同級生にも、同じ誕生日同士で結婚したやついたもんな。思ってもない事が起きると、人って勘違いすんだよな、」

「そんな事、思ってません。よく間違えられて、困ったなぁって、それだけです。」

「本当か、それ?」

「本当です。」

「まっ、恋愛なんか遠い国の事みたいに思ってる渡会には、ドキドキする事なんてないんだろうな。少し前にあっただろう、名前をモチーフにした話しがさ。」

「そんな話し、ありました?」

 歩いて駐車場まで着いた凪は、車の鍵をカバンから探した。

「お前の探し物、また始まったか。」

「ちゃんとありますって。」

 凪はカバンの内ポケットから、車の鍵をみつけた。

「そんなにでっかいキーホルダーつけてて、邪魔じゃないのか?」

「こうしないと失くすんです。」

 2人は車に乗り込んだ。

「やっぱり、飯食って行こうぜ。」

「ダメです。」

「渡会はガードが堅いよな。」

「私、誰かと話しながら食事をするのが苦手なんです。」

「だって、家族とは普通にご飯食べるだろう。」

「そうですけど、最近は別に話す事もないですし、誰かと一緒に食事をするのって、待たせたり、待ったり、そういうのに気を使えないっていうか、なんていうか。」

「別に自分のペースで食べればいいだろう?そんな事よりも、腹を満たす方を優先すればいいんだし。」 

「それができたらね~。」

「渡会が今まで付き合ってきた男って、圧倒的にモラハラ系か?」

「私、付き合った人なんていませんよ。」

「マジかよ。お前、いくつだ?」

「今年で26になります。」

「彼氏ほしいとか、寂しいとかって思わないのか?」

「そういう人、いませんから。」

「お前さぁ、今はいいろいろあんだろう。出会い系とかそういうの。どんなきっかけでも、出会いって運命だと思うけどな。」

「じゃあ、平岡さんがそうすればいいじゃないですか。」

「俺はそういうのに頼らなくても、ちゃんと好きな人がいるからさ。」

「そうですか、それは良かったですね。」

「なぁ、渡会。お前、俺の事、どう思ってる?」

「先輩です。」

「他には?」

「それだけです。」

「そっか。それだけか。」

「平岡さんは、真姫ちゃんの事、どう思ってるんですか?」

「あぁ、羽田の事か。」

「真姫ちゃん、本気ですよ。健気だし。」

「ふ~ん。」

 凪は平岡が羽田に気がない事をなんとなく感じていたが、平岡がはっきりとした返事をしないのは、羽田への優しさなのか、冷たさなのかわからなかった。

 こうして2人で話すのは、羽田に嘘をついているようで気が引ける。

 少し沈黙が続き、平岡の家の前についた。

「おやすみなさい。」

 凪はそう言って、平岡の顔を見た。

 なかなか車から降りない平岡に、

「平岡さん、今日はありがとうございました。」

 凪はモヤモヤした空気を破る様に平岡に声を掛ける。

「渡会、少し寄って行かないか?」

 平岡が言った。

「寄っていきません。おやすみなさい。」 

「そっか。お前、明日早いんだよな。気をつけて行ってこいよ。」

 平岡は車を降りていった。


 一人になった車の中で、凪はCDを掛けた。

 実家から持ってきた10年前の曲は、今の時代のリズムとは合わない。

 懐かしい女性の歌声に、昔の自分を思い浮かべた。

 思い出の中には、笑っている自分よりも、窓を見ている自分が多く存在している。 

 教室の窓から入ってくる風は、これから溶け込んでいかなければならない世の中の御使いの様で、閉ざされた教室の中を、笑うように駆け回っていた。


 午前0時。

 凪はベッドに入り、ラケットを握った。

 きっと、渡会もこのグリップを握ってくれたんだ。

 あの頃と同じ髪の色の渡会は、身長が伸びて、少しガッチリした身体になっていた。

 凪の鼓動は少し速くなっているのに、なぜか気持ちはこんなにも穏やかだ。

 凪はラケットを丁寧にしまうと、そのまま目を閉じた。

 神様は少しだけご褒美をくれたんだ。

 もう、それでいい。

 欲しいものを手に入れようとしたら、きりがない。

 変化のない毎日を送るだけで、自分は十分だから。

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