第6話 声

誰かの名前を呼ぶ声が、遠くで反響していた。

 だがそれが現実の音なのか、それともまた幻聴なのか、もう分からなかった。


 真田零士は、暗い階段を一人で下りていた。


 気づけば、雪菜も、他の生徒たちも、誰一人として見当たらなかった。


 どうやってここに来たのか――記憶が、曖昧だった。


 階段の壁には、手形がびっしりと押されていた。

 ドス黒く染み込んだ無数の掌。それがすべて、自分に向かって伸びているように見えた。


 「……ここは、どこだ?」


 誰にも聞かれていない問いを、零士は低く呟いた。


 周囲の空気が、明らかに違っていた。

 廊下の床はぬかるみ、窓の外には夜のはずなのに何も見えなかった。黒、ではない。

 色そのものが存在しない何かに、空間が呑まれていた。


 零士は旧棟の渡り廊下に立ちすくんでいた。

 ここはもう、ふだん誰も立ち入らない封鎖区域のはずだった。だが今、渡り廊下の先に、灯りがひとつ――ぽつんと、点っている。


 彼は無言のまま、ゆっくりと歩いた。皮靴の音が、湿った床に吸われていく。


 やがてその灯りの下に辿り着くと、そこには一枚の扉があった。


 「資料準備室」


 聞いたことのない部屋名だった。そんな教室、校内にあっただろうか?だが扉は、零士が触れるより先に、勝手に開いた。


 部屋の中は、旧い資料棚とロッカーが並び、大量の段ボールが積み上がっていた。


 そして、部屋の中央に置かれた長机の上には、一冊のファイルがあった。


 零士は、それに導かれるように歩み寄った。

 開いた中には、黄ばんだ生徒たちの写真、プロフィール、日誌のような記録が残されていた。


 だがすべて、数十年以上前の日付。


 不気味なのは、その中に見覚えのある顔があったことだった。


 岸本隼人。北川陸。結城夏帆。みな今のクラスメイト。

 しかし、このファイルには全員が「死亡」と書かれていた。


 「……俺たちは……一体?」


 そのとき、背後で扉が バタン! と閉じた。


 「ッ!?」


 次の瞬間、四方の資料棚が勝手に動き出した。

 カタカタと震えながら、棚の間から人の手が、首が、そして――


 顔が、這い出てくる。


 それは、雪菜だった。だが顔が異常に歪み、目のない仮面のような何かだった。

 歯だけが異様に白く、真っ黒な口の中でぎらぎらと光っていた。


 「……れいじ……ずっと、ずっとここにいたじゃない……」


 「……お前は、誰だ?」


 零士は、じりじりと後ずさった。だけどもう出口はなかった。


 鏡も、窓も、ドアもないこの部屋。すべての壁が、窓が、いつの間にか手形で埋め尽くされていた。


 そのとき、零士の耳元に、もう一つの声が囁いた。


 ――「ここから先は、“あの生徒”が案内する」


 そして彼の足元から、古い革靴を履いた、見知らぬ学生が這い出てきた。


 男のように見えた。

 しかし顔は、どこかあいまいで、笑っているのに表情が読めなかった。


 その学生は、旧い学生帽を被り、今では使われていないデザインの制服を着ていた。


 「……ついておいで、サナダくん」


 学生は静かに、廊下の奥へと消えていった。


 そして零士は――その後を、黙って歩き出した。

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