5 遠き果ての村
「あの村は今どうなっているのだろうか」
ゼノンがそう言いだしたのは焚火で語り合った次の日のことだった。
「あの村?」
「私がまだ生きている時に各地を巡っていた時の話なのだが、とある小さな村に立ち寄ったことがある。そこは決して裕福ではなかったが、人々はみな優しく、助けあって暮らしていた。私は修行の途中で深手を負ってしまい、その村で数日間、世話になっていたのだ」
彼の瞳は遠い過去を見つめているようだった。
その村での出来事が鮮明に脳裏に蘇ってきているのかもしれない。
「村長は頑固だったが、人情に厚い老人だった。子供たちは私の鎧に興味津々で、毎日飽きもせずに私の周りをうろついていた。村の女性たちが作ってくれた素朴だが心のこもったスープの味は今でも忘れられない」
そう語るゼノンの表情は穏やかそうに見えた。
人間らしい温かみを感じる。
その村はただ世話になっただけではなく、もっとずっと深い想いれのある大切な場所なのだろう。
「この荒廃した世界において、あの村がどうなっているのか気がかりでな」
彼のつぶやきには不安の色が混じっているように感じた。
カゲナシが支配するこの世界で、あの心優しかった村人たちがはたして無事でいられるのか、と。
無理もない。
おそらく彼がその村で世話になったのはカゲナシが出現する前のことなのだろう。
平和で心優しい人日が暮らしていた村。
世界の秩序が乱れる時、力や暴力が時に優先される。
カゲナシによる世界の崩壊とその後の魔族達の圧政の中で果たして無事でいられるだろうか?
(カゲナシ……。あるいはその配下の魔物たちが……)
最悪の光景が脳裏をよぎっているのかもしれない。
心優しかった村人たちが無慈悲な暴力によって蹂躙され、平和だった村が炎に包まれる。
そんな想像するだけでも身の毛がよだつような光景が。
彼の握りしめられた拳が微かに震えているのが見えた。
その瞳の奥にはどうしようもない不安と、もしものことがあった場合のやり場のない怒りのようなものが渦巻き始めているようにも感じた。
「ゼノンさん……」
私は心配になってそっと声をかけたけれど、彼はそれに気がつかないようにただ一点を凝視したまま動かない。
その横顔はまるで石像のように硬く、そして痛々しいほどに強張っていた。
私もそんな村を見てきた。
忍者として任務が最優先だったけれど、自分で救える命も、救えない命も色々と見てきた。
それが忍者として正しい在り方だったからだ。
己を道具として機能させる忍者。
そこに人としての感情は要らない。
だがその忍者という姿の下に人間としての私がいる。
だからこそ彼の気持ちもよく理解できる。
楽しかった思い出が鮮明であるほどよりそれが失われたときの喪失感というものは大きくなるのだ。
それは私にしても同じことだったが。
重苦しい沈黙が私達の間に再び訪れた。
やがて彼はゆっくりと顔を上げた。
その瞳にはもう迷いの色はなかった。
代わりにそこには何か大きな決意を秘めた静かで力強い光が宿っている。
「ミコト」
「はい」
彼が言いたがっている言葉は分かっていた。
だがあえて知らないふりをした。
彼が彼自身の言葉で彼の意志を私に伝えることが大事だと思ったからだ。
「私は行かねばらならない」
「その村にですか?」
「ああ。先程話した村だ。ここからはあまり遠くないはずだ。今どうなっているのかこの目で確かめなければ気が済まぬ」
やはり彼はあの村のことを深く案じていた。
その表情はかつて彼が聖騎士として守るべき人々のために戦っていたころと同じような色を帯びているのかもしれない。
「もし万が一、あの村がカゲナシの軍勢によって、もしくは魔物たちの手によって破壊されていた時には彼らの魂を弔ってやりたいのだ。安らかに眠れるように。私にできる唯一の償いとして」
ゆるぎない決意が感じられた。
たとえ体が朽ち果て、全盛期の力が出せなくても、彼の魂に刻まれた高潔な誓いは決して消え去ることはないのだろう。
答えは私が何を言っても決まっているはずだ。
「分かりました、ゼノンさん」
彼のその言葉を聞いて私はもう何も迷うことはなかった。
彼が行くというのなら私も行く。
今の私にできる彼への一番の支えとなる行動だからだ。
私は彼の真剣な眼差しをしっかりと見つめ返してはっきりと言った。
「私もいっしょに行きます。その村がどんな場所なのかこの目で見ておきたいですし」
「いいのか? 危険な旅になるかもしれないんだぞ?」
本当は怖かった。
これから向かう先がもしかしたら悲劇の舞台になっているのかもしれないのだから。
でもそれ以上にゼノンを一人で行かせるわけにはいかない。
彼はまだ本調子じゃない。
それにもしそこで彼がまた深い絶望に囚われてしまったら……。
それに私もこの世界のことをもっと知りたいと思っていた。
カゲナシの存在が実際人々にどんな影響を与えているのか。
それを知ることはきっと私達がこれからどうするべきかを考えるうえできっと大切なものになるはずだから。
「もちろんです! 私達は運命共同体なんですよ? それに私だって忍者のはしくれ。ゼノンさんの足手まといにだけはならないようにします!」
私は精一杯の笑顔で答えた。
この言葉が彼の心を少しでも軽くするものであればいいな、と思って。
こうして私達の新たな目的地が決まったのであった。
旅を進めていく。
どのくらいの距離があるのか、どんな道のりなのか、私には見当がつかない。
ゼノンも数十年前の記憶を頼りにしているだけだから正確な場所は分からないようだった。
ただ彼の話だとそう遠くない場所に村はありそうだった。
彼の記憶によると森を抜けて南へ数日歩いた場所にあるそうだ。
私達はそれを信じて進むことにした。
旅の道中私達は色々な話をした。
私が元の世界のことを話せば、ゼノンは珍しそうに耳を傾けてくれる。
そして彼もまた、ポツリポツリと例の村での思い出を語ってくれるようになった。
「あの村の子供たちは本当にわんぱくでな。私が鍛錬をしているといつも面白がって真似をしてきたもんだ。木の枝を剣に見立てて、私に打ちかかってきてはあっけなく返り討ちにされて泣きべそをかいていた。だが次の日にはまた元気に挑んでくるのだ。あの子たちの屈託のない笑顔は本当に眩しかった」
そう言うとゼノンの口元には本当に優しい慈愛に満ちた笑みが浮かんだ。
彼にとってその村での日々は鍛錬の中で得たかけがえのない安らぎのようなものだったのかもしれない。
だがそんな楽しい思い出ばかりではない。
時折彼の表情はふっと曇り、その声には深い悔恨の色がにじむこともあった。
「もっとあの村にとどまっていれば……。いや、せめて魔王の進行が始まる前に彼らに危険を知らせることができていれば……。そうすれば最悪の事態を避けることができたかもしれない」
その言葉の奥には彼がその村を守れなかったことへの、もしかしたらその村が既に悲劇に見舞われているかもしれないという痛切なまでの後悔と不安が隠されているのが私にもひしひしと伝わってきた。
「まだ行ってみないと分からないですよ!」
私はゼノンを励ました。
だがそれが気休めであることは私も分かっている。
もしかしたらその村がすでに悲劇に見舞われているかもしれない。
そうなれば彼は落胆するだろう。
そうした時に私はどんな言葉をかけてあげればいいのか。
その答えが見つからないでいた。
思い出の村を目指す旅は決して楽なものではなかった。
相変わらず食料は乏しく、夜は冷え込み、そしていつ魔物に襲われるか分からないという恐怖と緊張感が常に付きまとっていた。
だけど今は一人じゃない。
食料調達の場面でも私の知識はあまり役に立つことは少なかったけれど、それでも動物の足跡を見つけたり、食べられそうな木の実や草の根っこを見つけ出す嗅覚だけはそこそこ鋭いつもりだった。
「ゼノンさん、あっちの方に水の流れる音がします! 水場があれば動物も寄ってくるはずです!」
「分かった。だがあまり先走らない方が良い。罠があるかもしれない」
私が先頭を切ろうとすると、ゼノンが冷静に制してくれる。
彼のその慎重さと騎士としての経験からくる危機察知能力は私の猪突猛進なところを何度も助けてもらった。
そしていざという時はその不完全ながらも人間離れした力で助けてくれた。
一度私達の食料を狙って襲い掛かってきたイノシシみたいな魔物を一振りでいとも簡単に撃退してしまったこともある。
その時の彼の力強さといったら!
やっぱり元聖騎士の力は伊達じゃない。
野営の準備も二人でやるせいかずっと効率が良かった。
私が枯れ枝を集めて火を起こし、簡単な寝床の準備をしている間にゼノンは周囲の警戒や重い岩を動かして風よけを作ってくれていたりする。
彼のその力はこういう時本当に頼りになる。
「ミコト、火の番は私が代わろう。君は少し休むといい」
「ありがとうございます、ゼノンさん。じゃあお言葉に甘えて……」
もちろん私が相変わらずドジを踏んで彼に深いため息をつかせることも日常茶飯事だったけれど、それでも私達はお互いのできることをして、できないことを補いながら、少しずつでも確実に目的地に近づいていった。
そんなたしかな手ごたえがそこにはあった。
それから数日後。
私達は森を抜け、荒れ地を越え、比較的開けた道を歩いていた。
もちろん整備された道なんて言うものはなく、ただ獣道が少しだけ広くなったような、そんな心許ない道だったけれど。
それでも久しぶりに人の手が加わったかもしれない痕跡を見つけて、ほんの少しだけほっとしていた矢先の出来事だった。
「ん? あれは?」
道の向こうからゆっくりとこちらに近づいてくる人影を見つけた。
それは大きな荷物を背負い、手には杖のようなものを持った旅慣れた風の老人だった。
服装は私が今まで見たことのないような、くすんだ色の継ぎはぎだらけのローブのようなものをまとっている。
魔物ではなく、人間のようだった。
この世界に来てからまともに人と呼べる存在に遭遇するのはこれが初めてだった。
いや、ゼノンも人ではあるが、現状はゾンビ化している。
私は緊張とほんの少しの期待を胸にその老人に近づいていった。
ゼノンも私の少し後ろから警戒しながらもその様子を見守っている。
「こ、こんにちは!」
私はできるだけ友好的に笑顔で挨拶をしてみた。
だが老人は私の言葉が分からないのか、ただ怪訝そうに私を見つめ返すだけだった。
その目は長年の苦労を物語るように深く窪み、鋭い光を宿している。
「ええと、私達は旅の者でありまして……」
私は身振り手振りを交えながらなんとかコミュニケーションを取ろうと試みる。
でもやっぱり言葉が通じない。
老人は何かをつぶやいているけれど、それは私の知らない全く未知の言葉だった。
まるで鳥の音き声か、もしくは風の音のように私の耳を通り過ぎていくだけだった。
(うーん、困った。この世界の言葉ってどうなっているのだろう)
ゼノンの方を見る。
「ゼノンさんは言葉は分かりますか?」
だが彼は首を振った。
「この老人がこの世界の住人であることは分かるのだが、どうも俺もこの老人の言葉が分からない。この世界にはいくつかの言語があるから俺が知っている言語ではないようだ」
頼りの綱のゼノンも話が通じないとなるとどうしたものか。
私が途方に暮れていると、その老人は私達を見て値踏みするように見た。
そして何かを納得したように頷くと、背中の荷物からいくつかの品物を取り出して私達に見せてきた。
それは干し肉のようなものだったり、奇妙な形をした木の実だったり、あるいは何の変哲もないような石ころだったり。
どうやらこの老人は行商人らしい。
そして私達に何かを買わないか、と暗にそう言いたいようだった。
言葉は通じなくても商売をしようという意気込みだけはなぜか伝わってくるから不思議なものだ。
「ええと、ごめんなさい。私達は今お金を持っていなくて……」
私は申し訳なさそうに首を横に振ると、老人は少しだけがっかりしたような顔をした。
だが老人は気を取り直したようで、身振り手振りで私達がどこに行こうとしているのか知りたそうにしていた。
(これはチャンスかもしれない)
私は隣にいたゼノンの顔を見た。
そして彼も同じことを考えていたらしい。
私達は互いに頷きあうと、今度はゼノンが老人の前に歩み出た。
ゼノンは村の家々が建ち並んでいるようなジェスチャーや子供たちが遊んでいるような身振りを一生懸命繰り返した。
老人は初め怪訝そうな顔でゼノンの奇妙なジェスチャーを見つめていたが、やがて何かを察したようにポン、と手を打った。
そして南の方角を指さした。
どうやらゼノンが探していた村の方向が分かったらしい。
だが私達が喜んだのもつかの間、老人は急に険しい表情になり、その指さした方向に向かって何かにおびえて逃げ惑うようなそぶりを見せる。
そのジェスチャーの意味はさすがの私でも理解できた。
(あっちの方向は魔物がたくさんいてすごく危険。だからいかない方がいいってこと?)
老人は私達にそう警告してくれているようだった。
彼のその真剣な表情からはけっして大げさでもなく、本当に危険な場所なのだということがひしひしと伝わってくる。
せっかく見つけた手がかりだというのにその先には大きな危険が待ち受けている。
私の心には再び重たい不安の影が差し込むのを感じた。
同時にゼノンの表情がみるみると険しいものへと変わっていく。
眉間にはしわが刻まれ、その唇は固く結ばれている。
先程まで村の方向が分かったというほんのわずかな希望に湧いていた瞳も再び重く、暗い影が差し込んでいた。
(やっぱりゼノンさんの思い出の村も無事ではないのかもしれない)
老人の必死な様子を見れば誰だってそう思うだろう。
もしかしたら村はすでに魔物の巣窟と化しているか、もっと悲惨な運命を辿っているのかもしれない。
その可能性をゼノンは痛いほど感じ取っているのだろう。
それでも、
「行かねばならぬ」
と絞り出すように、しかしはっきりと意志のこもった言葉が漏れた。
それはどんな危険が待ち受けていようとも、自分の目で確かめずにはいられないという彼のゆるぎない決意の表れだった。
老人はそんなゼノンの覚悟を察したのか、それ以上は何も言わずにただ静かに首を横に振ると、私達に一礼して自分の荷物を背負いなおし、元来た道を引き返し始めた。
その背中はどこか物悲しげで、そして私達に気をつけていけ、と警告しているように見えた。
ゼノンはそんな老人の後ろ姿をただじっと見送っている。
その横顔は不安に揺れながらも、一度固めた決意は決して覆さないという鋼のような意志の強さを感じさせた。
私もそんな彼の隣でただ黙って頷くことしかできなかった。
これから私達が進む道がどれほど危険なものであろうとも私は彼と共に運命を共にすると決めていたからだ。
そうして私達は小高い丘の上にたどり着いた。
その丘の向こう側に目的の村があるらしい。
私ははやる気持ちを抑えながら小走りで丘の頂上へと駆け上がった。
ゼノンさんもつられるようにいつもよりも少しだけ早い足取りで私の後を追ってくる。
「着きましたよ、ゼノンさん――」
村を見渡せるであろう場所までたどり着き、私が彼に声をかけようとしたその瞬間。
言葉が凍り付いた。
目の前に広がっていたのは平和な村の光景などではなかった。
楽しい思い出に彩られていたはずのその場所は、まるで空を黒く塗りつぶすかのように、何本もの不吉な黒煙が立ち込めていた。
今はただ黒い煙と死の匂いに包まれた地獄のような場所に成り果てていた。
(うそ……でしょ……?)
その残酷な現実が、今私達の目の前に容赦なく突き付けられていた。
私の全身からサーッと血の気が引いていくのを感じる。
これがゼノンの思い出の村の今の姿だというのか。
重い足取りで丘をくだり、私達はかつて村の入り口であったであろう場所にたどり着いた。
もはやそこは入口とは呼べないほど荒廃していた。
「……ひどい……」
思わずそんな言葉が私から漏れた。
目の前に広がっていたのは徹底きてなまでの破壊と略奪の痕跡。
村を守っていたであろう粗末な木の防壁は無残にもへし折られ、あちこちに散乱している。
かつては家々が建ち並んでいたであろう場所には焼け焦げた柱や崩れ落ちた壁の残骸だけがまるで墓標のように転がっていた。
地面には何かを引きずった跡や得体のしれない黒い染みが点々と残っていて、ここでどれほどの凄惨な出来事が起きたのかを雄弁に物語っている。
風に乗って運ばれてくる腐臭は丘の上で感じた時よりもさらに強烈で、思わず鼻と口と手を覆ってしまっていた。
ゼノンが語ってくれた心優しき村人たちの笑顔、わんぱくだった子供たちの歓声はどこにも見当たらない。
そこにあったのはただただ暴力と悪意によって蹂躙されつくした死の静寂だけだった。
隣に立っているゼノンは何も言わずただ拳を固く握りしめていた。
その肩はかすかに震え、その瞳の奥には言葉にならないほどの悲しみと、燃え盛るような怒りの炎が宿っているのが私にもはっきりと分かった。
彼の大切な思い出の場所は魔物たちの手によっていとも簡単に無残な姿へと変えられていた。
その事実が私達の目の前にあまりにも残酷な形で広がっていた。
「……っ」
ゼノンの唇から漏れる獣のような呻き声。
その痛みが私にも伝わってくる。
こんな時私はどんな言葉をかければいいのか。
いや、どんな言葉も今の彼には届かないかもしれない。
私は何も言わずにそっと彼の隣に寄り添った。
そして震える彼の肩におそるおそる自分の手を伸ばす。
最初はほんの少しだけ触れるように。
そして彼がそれを拒絶しないことを確かめると、私は彼のその大きな肩をしっかりと抱き寄せた。
私の小さな体では彼の計り知れないほどの悲しみや怒りを全て受け止めてあげることはできないかもしれない。
それでも彼の心の重荷をほんの少し軽くしてあげたかったのだ。
貴方は一人ではないのだと。
ゼノンは私の突然の行動に一瞬だけ驚いたように肩をこわばらせた。
でも私の手を振り払うことはしなかった。
言葉はいらなかった。
ただ黙ってこの残酷な現実を前に寄り添っていた。
彼の震えが私の体にも伝わってくる。
この震えと共に彼の奥底にある言葉にならない感情の塊が私の中にも流れ込んでくるような気がした。
それでいい。
この沈黙の慰めが彼の荒れ狂う心をほんのわずかでも鎮めることができるのならば。
ゼノンの肩の震えが少しだけ収まったのを見計らってわたしはそっと彼から体を離した。
彼の瞳にはまだ深い悲しみと怒りの色が宿っていたような気がしたけれど、さっきまでの激情はほんの少しだけ和らいだように見えた。
「行きましょう、ゼノンさん。この村が本当にどうなってしまったのか私達の目で確かめないと」
「そうだな。いつまでもこうしているわけにはいかない。行こう」
私の言葉に彼は頷いた。
そして私達はまるで戦場跡に足を踏み入れる兵士のように固い決意を胸に変わり果てた村の中へゆっくりと歩みを進めた。
一歩足を踏み入れるたびに足元で焼け焦げた木片やくだけた陶器の欠片がジャリジャリと乾いた音を立てる。
かつて家々が軒を連ね、人々の笑い声が響いていたであろう場所は今はもう見る影もない。
家という家はそのほとんどが焼け落ち、黒く炭化した柱だけがまるで墓標のように空に向かって突き出ている。
壁は崩れ落ち、屋根は抜け落ち、家の中からは無残に破壊された家財道具の残骸が覗いていた。
そしてなによりも人の気配が全くしない。
生きている人はもちろん亡くなった人の亡骸すらどこにも見当たらない。
まるで村人全員が神隠しにでもあったかのように忽然と姿を消していた。
カァ、カァ、と不気味な鳥の声が聞こえる。
やけに大きく、そして虚しく、この詩の静寂に包まれた村の中に響き渡っていた。
まるでこの惨状をあざ笑うかのように。
その声は私の心をざわざわとかき乱した。
強烈な腐臭と焼け焦げた匂い。
それと圧倒的なまでの死の気配。
これこそがカゲナシが支配する世界の、そして現実の一部なのだ。
そのあまりにも残酷な光景を目にして、わたしはただ言葉を失うしかなかった。
やがて私達は村の中心だったと思われる少し開けた広場のような場所にたどり着いた。
そこはかつて村人たちが集い、語らい、笑いあった場所だったのかもしれない。
だが今のその広場は地獄のような様相を呈していた。
「あ……あ……」
思わず私の口から声にならない叫びが漏れた。
目の前に広がる光景はあまりにもおぞましくて、直視するのがためらわれるほどだった。
地面にはおびただしい数の黒く変色した血痕がまるで悪趣味な模様のようにこびりついている。
それはここでどれほど多くの血が流されたのかを雄弁に語っていた。
そしてその血痕の周りには無残にへし折られた鍬や鎌といった農具がいくつも転がっている。
間違いない。
彼らはきっとこの粗末な武器で最後まで村を守り抜こうと抵抗し、敗れ、そしてここに集められて処刑された。
彼らの勇気とその絶望的なまでの無力さを想うと胸が張り裂けそうだった。
あちこちに引き裂かれ、泥に汚れた衣服の断片が散らばっている。
それはかつて誰かが身に着けていたものであり、その持ち主がどれほど悲惨な最期を遂げたのかを想像させるには十分すぎた。
ゼノンはその地獄絵図のような光景をまるで目に焼き付けるかのように一点一点凝視している。
その肩はさっきよりも激しく震え、握りしめられた拳からギリギリと音が聞こえそうなほどだった。
悲しみというよりも怒り。
やがて彼の唇がゆっくりと開かれた。
そしてそこから漏れだしたのは地獄の底から響いてくるような低く、そして恐ろしいほどの怒気に満ちた声だった。
「許さん!」
その声はあまりにも静かだったけれど、その静けさの中に抑えきれないほどの激情が込められているのが私にも痛いほど伝わる。
「許さんぞ、カゲナシめ!」
彼の瞳がまるで血の色のように赤く染まった。
かつて彼が力を暴走させた時とはまた違う、もっとずっと個人的で深い憎悪の色だった。
「必ず、必ずこの手で貴様らに報いを受けさせてやる! このゼノンの名において!」
それは純粋な復讐の誓いであった。
かつて高潔な騎士であったであろうゼノンではなく、無念に死んでいった村人たちの魂に寄り添うかのような叫びだった。
彼の心の中で何かが決定的に変わろうとしていた。
その張り詰めた空気が不意に揺らいだ。
いや、違う。
揺らいだのは空気じゃない。
私の忍者としての本能がもっと強大で、おぞましいものの存在を検知したのだった。
(この気配は!)
それは今まで感じていた死の匂いや血の痕跡とは明らかに質の違う、もっと直接的で圧倒的な悪意の塊。
まるで濃密な瘴気が霧のように立ち込めてくるようなそんな肌を刺すような邪悪な気配だった。
私ははっと息を飲み、そしてその気配の源を探る。
それは村の中でもひときわ大きく、そして焼け残った建物――おそらく教会だったか領主の館だったかもしれないもの――だった。
私は確信した。
(間違いない。あそこにいるのはこの村をこんなひどい状態にした元凶!)
同時にゼノンも気配に気がついたようだった。
「あそこか!」
彼の唇から地を這うような低い声が漏れた。
その声にはさっきまでの悲しみや絶望の色はもうない。
代わりにそこにあったのは燃え盛る溶岩のような抑えきれないほどの激しい怒りだった。
「あの建物の中に、この村を、私の大切な場所を蹂躙したクソ忌々しい魔物がいる!」
彼の瞳が再び血の色に染まった。
復讐を誓った彼にとってその元凶らしき存在の出現はもはや怒りの導火線に火をつける以外の何物でもなかったのだろう。
次の瞬間。
「おおおおおおおおおおお!!」
ゼノンは理性のタガが外れたように獣のような雄たけびを上げた。
そして一直線にその建物へと突進し始めた。
それは怒りに任せたただただ力任せの行進だった。
このままでは彼は無謀にも強大な敵に一人で戦いを挑むことになる。
それはあまりにも危険すぎる。
何とかして彼を止めなくては!
「ゼノンさん! 待ってください!」
私は慌てて彼の後を追いかけた。
信じられないスピードで突き進む彼の背中に必死に声を張り上げる。
「ゼノンさん、落ち着いてください! あの中に何がいるのかまだ分からないんですよ!? そんな無策で飛び込むなんて危険すぎます!」
だが私の言葉は彼に届いていないようだった。
足を止めようとしない。
その背中からは手が付けられないほどの怒りを感じる。
怒りで全身が呑み込まれているようだった。
私はその迫力に気押されそうだった。
でも負けない!
私はほとんど彼の背中にしがみつくような勢いでなんとか彼の腕を掴もうとする。
だが怒りに燃える彼の力はあまりにも強くて、私の細腕ではビクともしない。
「離せ、ミコト! 私の邪魔をするな! あの中にいる奴は、奴らだけでも私はこの手で……!!」
彼は私を振り払おうと荒々しく腕を振るう。
その瞳はもはや私を私と認識していない。
目の前の敵を滅ぼすことしか頭にないのかもしれない。
それでも私は諦めなかった。
たとえ彼に振り払われようと、蹴飛ばされようとも、この無謀な突進だけは絶対に止めなければいけない。
「ダメです! 絶対に行かせません!」
私は彼の腰にしがみつくような形で全体重をかけて彼の前進を阻止しようと試みた。
この小さな抵抗が彼の怒りの炎をほんの少しでも鎮めてくれることをただひたすらに願っていた。
私がゼノンさんの腰に必死にしがみつき、その無謀な突進を食い止めようと抵抗していた時だった。
グギャアアアア!!
耳をつんざくような不快な絶叫が聞こえた。
それは邪悪な気配が漂う村の中でもっとも大きそうな建物の方角から聞こえてきた。
それと同時に断末魔のような悲痛な鳴き声も。
「……!?」
私と、私にしがみつかれて動きを封じ込められていたゼノンも思わず動きを止めてそちらに視線が向く。
私達は顔を見合わせてお互い気配を消しながら静かに音の方向に近づいていく。
そして私達は見てしまった。
焼け残った建物の壁の向こう側。
そこには数匹の今まで見たこともないような異形の魔物たちがいた。
それはぬめりのある深緑色の鱗に覆われた二足歩行のトカゲのような姿――そう、私がこの世界に来て初めて戦ったあの動物と同種、あるいはそれに近い存在だった。
そのトカゲ型の魔物が取り囲んでいたのはかろうじて生き残っていたらしい数羽のニワトリと一頭の瘦せこけたヤギだった。
魔物たちはその哀れな家畜たちをまるで弄ぶかのように追い回し、鋭い爪で引き裂き、その肉を貪り喰らっている。
家畜達の断末魔の悲鳴。
魔物たちの満足げな咆哮。
血飛沫が舞い、肉が引きちぎられるおぞましい音。
それら全てが私達の目の前であまりにも無慈悲に繰り広げられていた。
それはこの村を襲った悲劇がまだ終わっていなかったことを、そしてその元凶たる魔物たちが今まさにさらなる暴虐の限りを尽くしているという事実を私達に容赦なく突き付ける光景だった。
(なんて、なんて、酷い!)
私はあまりの惨状に言葉を失った。
怒りと、恐怖と、そしてどうしようもない無力感で体が震える。
隣のゼノンからはゴリッと奥歯を嚙みしめる音が聞こえてきた。
彼の瞳はもはや怒りを通り越して、なにか……もっと冷たくて、底知れない決意のようなものを宿し始めているように感じた。
それまで私の制止もあってか、かろうじて理性を保っていた彼だったが、このあまりにも無慈悲で、冒涜的とも言える光景を目の当たりにして、彼の心の奥底で決定的な何かが切れたのが私にも分かった。
彼の前進から先程までの怒りとはまた違う、もっとずっと冷たくて、そして研ぎ澄まされたような凄まじい闘気が立ちあがり始める。
その瞳はもはや目の前の魔物たちだけではなく、その向こうにいるであろう全ての悪意の根源――カゲナシを見据えているようだった。
「……許さん……」
地を這うような低い声と共にゼノンが動いた。
それはあまりにも速く、そして唐突な動きだった。
私があっ、という声を上げる間もなく、彼は一番近く――建物の陰に隠れるようにして周囲を警戒していた見張り役らしき一体のトカゲ型の魔物に向かって一直線に駆けだした。
その手には白銀に輝く光の剣が握りしめられていた。
蘇ってから彼の力が暴走することはあっても、こんな風に明確な意思を持って武器としてその力を具現化させたのは初めてのことだった。
そしてゼノンの振るった光の剣は見張り役の魔物が反応するよりも早く、その胴体をまるでいとも簡単に一刀両断にした。
ズバァ!!
魔物は悲鳴を上げる間もなく真っ二つになって地面に崩れ落ち、そして塵となって消えていく。
それはあまりにも鮮やかで圧倒的な一撃だった。
それはこの呪われた村での私達の反撃の狼煙となった。
「グギャアアアア!!!」
建物の中から仲間がやられたことに気がついたであろう他の魔物たちの怒りに満ちた絶叫がいくつも響き渡ってきた。
ドドドドドドッ!
まるで蜂の巣を突いたみたいに焼け落ちた大きな建物の入り口や窓という窓からわらわらとおびただしい数のトカゲ型の魔物たちが姿を現した。
その数はざっと見ただけでも十匹は下らない。
しかもその中にはさっきゼノンが一撃で倒した下級の魔物だけでなく、一回りも二回りも体が大きい見るからに強そうな個体も混じっている。
(うそ……こんなにたくさん……!?)
私の背筋を冷たい汗が伝った。
さっきまでの家畜を弄んでいた数匹の魔物だけではなかったのだ。
私達は彼らの拠点のど真ん中で不用意にも戦いを始めてしまったらしい。
「ミコト! 油断するな! 奴ら、来るぞ!」
ゼノンの鋭い声が飛んでくる。
彼のその声には迷いや絶望の色はない。
あるのは目の前の敵を全て薙ぎ払うという聖騎士としての、あるいは復讐者としてのゆるぎない決意だけだった。
魔物達は私達を完全に包囲するような形でじりじりと距離を詰めてくる。
その濁った赤い瞳は仲間をやられた怒りと、私達という新たな獲物に対する植えたような光を宿している。
もう逃げ場はない。
こうなったらやるしかない!
私は腰のポーチからくないを数本抜き放ち、ゼノンと背中合わせになるような形で迫りくる魔物の群れを睨みつけた。
私達の本格的な戦いが今始まろうとしていた。
「グギャアアアア!!!」
「ゼノンさん、右です! そっちにもう一匹!」
「うおおおおっ!」
トカゲ型の魔族の波状攻撃は想像以上に激しかった。
一体一体の力はさっきゼノンが一撃で倒した見張り役と大差ないのかもしれないけれど、数がとにかく多かった。
しかも意外なほど連携が取れており、私達をじわじわと追いつめてくる。
ゼノンはその手に握る光の剣で次々と襲い掛かってくる魔物達を薙ぎ払っていった。
その動きは蘇ったばかりの頃とは比べ物にならないくらい力強く、そして洗練されていた。
かつての聖騎士としての戦い方をその体が思い出しているかのようだった。
私もくないや手裏剣を駆使し、煙玉で敵の視界を奪ったり、時には体術で直接攻撃を仕掛けたりと必死に応戦する。
だが敵の数が多すぎる。
倒しても、倒しても、次から次へと新しい魔物が建物の奥から湧いて出てくるのだ。
(キリがない! このままじゃジリ貧だ!)
焦りがじわじわと私の心を蝕み始める。
体力も、集中力も、そう長くは持たないかもしれない。
そんな私達の絶望的な状況を嘲笑うかのように大きな咆哮と共にあの焼け残った建物の入り口から今までとは明らかに違う一際大きな影が姿を現した。
「なっ……!?」
思わず息を呑んだ。
それは今まで戦ってきたトカゲ型の魔物とは明らかに格の違う存在だった。
身長はゼノンよりも頭一つ分大きく、筋骨隆々としたまるで獣と人間を混ぜ合わせたような獣人型の魔物。
その手には人間では到底扱えなそうな巨大な両刃の斧が握りしめられている。
濁った黄色の瞳は明らかに高い知性とサディスティックなまでの残虐性を宿していた。
間違いない。
あいつが魔物達を指揮している。
その圧倒的な存在感と、全身から発せられる邪悪なオーラに私はごくりとつばを飲み込んだ。
その獣人型の魔物は私達――いや、正確にはゼノンの方をじっと見据え、まるで人間のようにその醜悪な口元を歪めてニヤリと笑った。
「ククク……。これはこれは……。ずいぶんと懐かしい顔だな」
その声は低く、それでいてどこか粘りつくような不快な響きをしていた。
しかも人間の言葉を話している!
「まさかとは思うが、貴様以前カゲナシ様に逆らい、無様に敗れ去った聖騎士だろう?」
その言葉にゼノンの肩がピクリと震えた。
奴はどうやらゼノンのことを知っているらしい。
「クカカカカカッ! 見る影もないな! かつての威光はどこへいった? 今の貴様はまるで抜け殻ではないか! そのような不完全な魂と腐りかけの肉体で、いったい何ができるというのか! 再び我らがカゲナシ様に挑むとでもいうのか? 笑わせるな!」
獣人型の魔物は下卑た笑い声を上げながらゼノンを嘲笑し、挑発する。
その言葉の一つ一つがゼノンの心の傷を容赦なくえぐり取り、彼の誇りを踏みにじっていくようだった。
「貴様……!!!」
ゼノンの歯ぎしりの音が私の耳にも聞こえてくる。
彼の瞳には先程までの怒りに加えて屈辱とそしてどうしようもない無力感が浮かんでいる。
敵はかれのもっとも触れられたくない部分を的確に、そして執拗に攻撃してきているのだ。
(挑発に乗ったらだめだ、ゼノンさん!)
私は心の中で叫んだけれど、その声が彼に届くかどうかは分からなかった。
獣人型の魔物はそんなゼノンの苦悶の表情を心底楽しんでいるようにさらに嘲りの言葉を重ねようとしていた。
「ゼノンさん! 落ち着いて! あいつの思うツボですよ! 私達がやるべきことはこんなところで無駄死にすることじゃないはずです!」
私は必死に叫んだ。
「お前、名前は何という?」
「名前? ああ、お前ら人間共が好きな識別名のことか。そんなものは俺にはない。カゲナシ様が生み出した魔族の中で優秀な兵士は知性を与えられ、行動することを許されている。私にはそれだけで十分だ。まぁ、指揮官、とでも名乗っておこうか」
指揮官。
それは無機質な軍隊における役職名。
目の前の獣人型の魔物は自分という個よりもカゲナシに従属することに喜びを感じているらしい。
「そうか。なら残念だな」
ゼノンは言った。
「何がだ」
指揮官は問い返す。
「お前を倒した後に墓に刻む言葉が無いんだからな!」
「ふざけたことを! かかってこい!!」
「……うおおおおおおおおっ!!」
彼は怒りの咆哮と共に指揮官に向かって毅然と斬りかかっていった。
でもその動きはさっきまでの無謀な突進とは違う。
怒りを力に変えながらもその剣筋にはかつての聖騎士としての冷静さと技がたしかに宿っているような気がした。
しかし敵は指揮官一体ではない。
その周囲を囲む多数のトカゲ型の魔物がまるで分厚い壁のようにゼノンの前に立ちはだかる。
「グギャアアアア」
「キシャアアア」
次々と襲い掛かってくる魔物達をゼノンは光の剣で薙ぎ払い、時には殺陣のようにして受け止めている。
その戦いぶりはまさに獅子奮迅だった。
だが敵の数はあまりにも多く、そして何よりも指揮官はただ見ているだけではなかった。
「ククク……。小賢しい真似を……。だが無駄だ!」
指揮官はその巨大な斧を軽々と振り回し、ゼノンの攻撃の隙を的確に突いてくる。
その一撃はあまりにも重く、ゼノンの光の剣とぶつかり合うたびに火花と共に衝撃波が周囲に散った。
(強い! あの指揮官とやら本当に強い!)
ゼノンが怒りを力に変えて奮闘しているけれど、敵の数の多さと、指揮官の圧倒的な実力の前に私達は徐々に、しかし確実に追い詰められていくのを感じていた。
「ゼノンさん、後ろ!」
「ミコト、伏せろ!」
怒りを力に変えたゼノンの奮闘も、そして私の必死の援護も、目の前の圧倒的な戦力差の前には焼け石に水だったかもしれない。
トカゲ型の魔物達は一体一体はそれほどでもないけれど、その数がとにかく厄介だった。
まるで無限に湧いてくるように次から次へと襲い掛かってくる。
一体を倒しても、すぐに二体、三体と新しい敵がその穴を埋めに来るのだった。
そしてなによりもあの指揮官。
奴の存在がこの戦いを絶望的なものにしていた。
「クハハハ! どうした、聖騎士達よ! その程度か!」
指揮官は斧を振り回し、ゼノンの攻撃を的確にさばきながら時折致命的な一撃を加えてくる。
その一撃はあまりにも重く、ゼノンの光の剣ですら完全に受け止めることはできず、何度も体勢を崩されている。
しかもただ強いだけじゃない。
周囲のトカゲ型の魔物達をまるで手足のように巧みに操り、私達を追いつめてくるのだ。
私達がトカゲ型の魔物の群れを相手にしていると、その死角から指揮官の斧が飛んでくる。
かと思えば指揮官との戦いに集中しようとすると今度はトカゲ型の魔物達が一斉に襲い掛かってきて、連携を分断しようとしてくる。
(強い! 連携も、個々の力も、格が違う!)
息が上がる。
くないも手裏剣も残り少なくなってきた。
ゼノンの額にも脂汗が浮かび、呼吸も荒くなってきている。
私達は明らかに苦戦を強いられている。
このままでは本当に絶望的な状況だ。
だが諦めるわけにはいかない。
私は最後の力を振り絞るようにして、新たなくないを握り締め、再び敵の群れに向かっていくゼノンの背中を追った。
「クソ!」
ゼノンの苦悶の声が魔物達の咆哮に交じって私の耳に届く。
彼の光の剣は相変わらず力強く振るわれているけれど、その勢いは明らかに衰え始めていた。
おびただしい数のトカゲ型の魔物と指揮官の重い一撃が彼の体力を容赦なく削っていた。
私も体術で何とか攻撃を凌いでいるけれど、それも時間の問題だった。
敵の数が多すぎてさばききれない。
じりじりと確実に追い詰められていく。
(何か、何か、この状況を打開できる手はないだろうか……!)
必死に活路を見出そうとしていた時だった。
「おおおおおおおおおおっ!!」
ゼノンが天を仰ぐようにして雄たけびを上げた。
そして彼の全身から再びあの白く清浄で、同時に恐ろしいほどの強力な光が奔流となって溢れ出し始めた。
(ゼノンさん! まさか、また!?)
洞窟での悪夢がよみがえる。
あの時と同じ制御を失った力の奔流。
だが今の彼はあの時と違って自分の意志でその力を解放しようとしていた。
個の絶望的な状況を打破するには最後の切り札を使うしかないと思っているのかもしれない。
しかしその聖なる力はあまりにも強大過ぎた。
そして今の彼の体ではまだそれを完全に制御しきることはできなかった。
「ぐ……うう……あああああっ!」
彼の体から迸る光は周囲の魔物達を薙ぎ払うほどの凄まじい威力を見せるけれど、それと同時にその力の余波がまるで意思を持っているかのように私のすぐ傍へと牙を剥いた。
「きゃああっ!」
灼熱の光の波が私を飲み込もうと迫ってくる。
それは魔物だけでなく、私もろとも全てを焼き尽くさんばかりの勢いだった。
私はとっさに地面に身を伏せ、なんとかその直撃を避ける。
でも肌を焼くような熱と、目のくらやむような光は容赦なく私を襲ってきた。
(ダメだ! ゼノンさんの力、また暴走しかけている!)
彼が力を解放しようとしたのはなんとか私を助けるためだったのかもしれない。
でもその制御しきれない強大な力は今私自身にも危険を及ぼそうとしていた。
(このままじゃ二人とも!)
私は地面を転がるようにしてなんとかその力の奔流を避けながら、必死に叫んだ。
「ゼノンさん! もう無理です! いったん退きましょう! このままじゃ勝ち目がありません!」
私の声が暴走しかけた力の渦中にいる彼に届いたかどうかは分からなかった。
だが一瞬だけ彼の動きが止まったように思えた。
そして彼から迸る聖なる光の勢いがほんの少しだけ弱まった。
その隙を私は見逃さなかった。
「ゼノンさん、こっちです! 今のうちに!」
私は煙玉を叩きつけ、白い煙で周囲の魔物達の視界を遮る。
そしてまだ力の余波でふらついているゼノンの腕をつかみ、全力でその場から離脱しようと試みた。
「くっ……しかし……!」
ゼノンはまだ何か言いたそうにしていたけれど、今のこの状況で反論している時間はない。
私はほとんど彼を引きずるようにして、建物の残骸や散乱した瓦礫を盾にしながら村の外へと続く道を目指した。
背後からは指揮官の勝ち誇ったような甲高い哄笑と、トカゲ型の魔物の威嚇するような咆哮が聞こえてくる。
奴らは深追いしてくる様子はなかった。
まるで私達という獲物をいつでも好きな時に枯れるとでも言いたげに、あるいは私達のこの無様な撤退を心底楽しんでいるかのように、ただ勝ち誇った姿で見つめている。
その屈辱が私の胸をキリキリと締め付けた。
悔しい。
本当に悔しい。
でも今は耐えるしかない。
このまま戦い続けても犬死するだけだ。
いったん体勢を立て直して、そのあと必ず借りは返す!
私はそんな決意を胸にゼノンの手を強く引きながら、今はただこの絶望的な戦場から離れることだけを考えて必死に足を動かし続けた。
無我夢中で走り続けた。
背後から聞こえてきていた魔物達の嘲笑うような声はとっくに聞こえなくなっていた。
私達は村からかなり離れたうっそうとした森の奥深くにある小さな岩陰までなんとか逃げおおせることができた。
「はぁ……はぁ……ぜぇ……っ……」
私はその場でへたり込み、肩で大きく息を繰り返す。
全身は汗でびっしょりで、喉はカラカラだ。
足は鉛みたいに重くてもう動けそうにない。
さっきの戦闘とその後の必死の闘争で気力も体力も使い果たしていた。
隣ではゼノンも同じように岩壁にぐったりと背中を預け、荒い息を繰り返している。
彼の顔色は相変わらず土色のままだ。
そしてその瞳にはさっきまでの燃えるような怒りは消え失せ、代わりに深い自己嫌悪の色が浮かんでいた。
「まただ……」
彼の唇から絞り出すようなか細い声が聞こえた。
「また私は自分のふがいなさを思い知らされることとなった。そしてまたしても君を危険な目に……」
その声はあまりにも弱弱しく、そして痛々しかった。
彼は自分の力が暴走しかけて、私を危険にさらしてしまったことを、そして結局何もできずに撤退するしかなかった自分の無力さを心の底から責めているようだった。
せっかくほんの少しだけ前を向きかけていたのいうのに。
この敗北と、自分の力の制御不能という現実は彼の心を再び絶望の淵へと引き戻してしまったのかもしれない。
彼のそのあまりにも辛そうな姿を見ていると、なんだか私まで胸が締め付けられるようだった。
なんと声をかけてあげればいいのか。
今の私にはやっぱり何も思いつかなかった。
ただこの重苦しい沈黙の中で、彼の深い自己嫌悪を静かに受け止めることしかできない。
それが今の私にできる精一杯のことだった。
彼の自分自身を責める言葉からどれほど彼自身が傷ついているのかが手に取るように分かる。
でもここで彼が完全に心を折られてしまったら、それこそ私達の旅は終わってしまう。
(しっかりしなきゃ! 彼が私を支えないと!)
私は荒い息を繰り返しながらも無理やり笑顔を作って、彼に声をかけた。
「ゼノンさん! そんなに自分を責めないでください!」
私の突然の大きな声に彼は少しだけ驚いたように顔を上げる。
その瞳にはまだ深い絶望の色が宿っているが。
「たしかにさっきの戦いは私達の負けでした。すごく悔しいですけど……。でも負けたからってなんなんです? まだ生きてるじゃないですか! これで終わりなはずはないんです!」
私は必死に言葉を続ける。
「諦めないことが一番大事だって私の師匠も言ってました! 一度や二度の失敗でくよくよしてたら忍者なんてやってられません! 大事なのはその失敗から何を学ぶのか、そして次にどう活かすのか、ということじゃないですか?」
私の言葉は楽観的であまりにも単純だったかもしれない。
でもこれが私が今まで生きてきた中で学んだ数少ない教訓の一つだ。
諦めたらそこですべてが終わってしまう。
でも諦めない限りどんな絶望的な状況だって道は切り開けるのだ。
「ゼノンさんの力をコントロールできないのはまだ体に馴染んでないだけかもしれません! コントロールする方法だってこれからいくらでも見つけられるじゃないですか! 今回は撤退したけど、次はもっと上手くやれるように作戦を練るだけですよ!」
私は彼の目を見つめて力強く言った。
「だから諦めないでください、ゼノンさん。私達はまだ何も失ったわけじゃないんですから」
私のこの暑苦しいくらいの励ましが今の彼の心にどのくらい響くのかは分からない。
だけどほんの少しでも彼の心にくすぶっている希望の火種を再び大きくできたのならそれでいいい。
私はそう願いながら返事を待っていた。
彼は黙って私の言葉を聞いた後、ゆっくりと、そして深く息を吐いた。
その表情にはまだ疲労と苦悩の色は残っていたけれど、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ前を向こうという意志のようなものが戻ってきたように見えた。
「……君の言う通りだ、ミコト。諦めてしまえばそこですべてが終わる。それはかつての私自身が一番よく知っていることだ」
そう言って彼はおもむろに立ち上がった。
その足取りはまだ少しおぼつかないけれど、さっきまでの絶望とは違う静かな闘志のようなものが宿り始めていた。
「まずは反省だ。さっきの戦い、あまりにも無謀過ぎた」
ゼノンさんのその言葉を皮切りに私達の即席の作戦会議が始まった。
「そうですね。まずあのトカゲ型の魔物が思った以上に多かったです。それにあの指揮官……。斧の一撃がとても重そうでした」
「そうだな。奴はただ力が強いだけじゃなくて周囲の魔物を巧みに指揮し、我々の連携を分断しようとしていた。おそらく我々が考えている以上に高い知性を持っていると考えるのが妥当だろう」
「建物の構造ももっと把握しておく必要がありますね。敵があんなに潜んでいるのは予想外でしたから」
私達はさっきの戦闘での失敗店を一つ一つ洗い出し、そしてどうすればもっと上手く立ち回れるのかを分析していく。
魔物の数、能力、そしてあの建物の構造。
それら全てを考慮に入れたうえで、私達は次なる戦いのための作戦を練り直し始めた。
もちろんすぐに完璧な作戦が立てられるわけじゃない。
私達にはまだ情報が足りなすぎる。
でもこうして二人で知恵を出し合い、同じ目的に向かって考えを巡らせるのが次の一歩を踏み出すための大きな力になると私は思っていた。
絶望的な敗北の後だったけれど、諦めない限り道は必ず開けるのだ、という小さな希望の灯が再び光始めていた。
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