アナタに殺された理由を知って、恋を知った。

第1話

　目の前の女性が包丁を私の胸に突き立てた。

　鈍く重い衝撃（しょうげき）と共に、肺の奥が焼けつくような痛みが広がる。

　顔をしかめはしたが、それでも感情は――「ああ、刺された」――その程度にしか動かなかった。どこか他人事で自分を考える。

「……うぐっ」

　自分の生（せい）ですら、その程度にしか思えなかった。

　そして、目の前で震（ふる）える彼女に対しては、もっと希薄（きはく）な感情しか湧（わ）かなかっただろう。

　まぁ、どうでもいいことだ。

「あ……あなた……ごめん、なさい……ごめんな、さい……」

　なぜ自（みずか）ら刺しておきながら、今さら涙を流し謝っているのか。

　胸の傷は疼（うず）き、痛みが脳まで届いた気がしたのもほんの束（つか）の間（ま）。

　身体が冷え、まぶたが重くなっていく。

　これが、死……。

　もしも、次の人生があるのなら――

　せめて、二人……

　視界は白んでいき、彼女の姿も、遠く霞（かす）んでいった。

………………

　――咳（せ）き込むように目を覚ます。

　何とも言えない寝苦しさが胸に残っていた。

　ここは、ベッドの上。

　体を起こし、シャツの前を開く。

　……傷もなければ、痛みもない。

「……夢、でも見ていたのか？」

　この私が、夢？

　子どもの頃の事件以来、一度も夢など見ていなかったというのに。

　しかも、あれだけ現実的な痛みを伴（ともな）う夢なんて――珍（めずら）しいにもほどがある。

　そう思いながら、クローゼットから服を取り出し、身支度を始める。

　さっきまでの夢の内容は、すでに少しずつ霧のように薄れていっていた。

「今日は……確か、ルミナス商会との会合があったな」

　小さくつぶやき、部屋を出る。

　淡々（たんたん）と、それでもどこか胸に引っかかりを残しながら。

　――かつては、名を馳（は）せた我が家。

　ラング伯爵家（はくしゃくけ）と呼ばれていたあの時代。

　父と母は、私が幼い頃に事故で死んだ。

　ただ、私だけは両親に抱（かか）えられていた事で、生き延（の）びることができた。

　だがその後、他の貴族たちから「統治能力の見直しを」という進言（しんげん）が王家へと入り、

　家格は伯爵から男爵へと降格された。

　領地は分割され、力も影響力も奪（うば）われた。

　今では、男爵家の中でも下位の存在だ。

　食堂に向かい、いつも通りの時間に用意された食事を取る。

　食堂では私だけ。周りには誰も居ない。

　一人の方が、好きだからだ。

　何も、誰にも邪魔されない。

　心の中には過去の懐かしい両親の姿が思い浮かび、その中で楽しそうに食事をする自分。

　この思いも、いずれ消えるのだろう。

　何も残らず、何も感じず、ただ空っぽに――

　それこそ、夢の様に――

「ふっ……ふふ、何を考えているんだろうな、私は」

　思わず笑ってしまう。

　おかしな事だ、断片的な夢の記憶に振り回されるなんて。

　食事を終えると、執事とメイドに声をかけ、身だしなみを整える。

　服装の乱れ、髪、そして応接室の最終確認。

　これから来るであろう客人――ルミナス商会の者との会合のために。

　しばらく、そのように過ごすと屋敷の者が声をかけてきた。

「旦那様、ルミナス商会の方がお見えになられました。応接室にご案内してもよろしいでしょうか？」

　……時間ちょうどか。流石、商会。時は金なりか。

「頼む。私もすぐに伺（うかが）うと伝えてくれ」

　一礼して去る執事を見やり、深呼吸をする。

　ルミナス商会とは古くから付き合いがあり、男爵になった今でも何かと用立てしてくれていた。

　今回は隣接貴族への貢（みつ）ぎ物として、磨かれた翡翠（ひすい）を手に入れようとしていた。

　そろそろ応接室に向かおう。

　私はあくまでも貴族位。慌ててすぐに入ってはいけないが、遅くなりすぎても男爵位でする事ではない。

　執事は扉の横に控（ひか）えていた。

　私が頷（うなず）くと静かに扉を開く。

「お待たせいたしました。ルミナス商会さ、ま」

　応接室のソファ横には既に立ち上がり、こちらを見つめる者が二人。

　一人はルミナス商会のグレン・ルミナス会長。

　その横には――

「ラング男爵、こちらは私の娘フィオナです。勉学も一通り終え、今後は実際の交渉にも立ち会わせていくつもりでしてな。今日はその初日。どうかご指導のほど、よろしくお願い致します」

　ルミナスの娘、フィオナ。

　彼女は、陽光に輝く金髪を短めに整えた女性だった。

　前髪は控えめに額を覆（おお）い、後ろ髪は首筋で揃（そろ）えられている。豪奢（ごうしゃ）な装飾（そうしょく）はなく、商会の場にふさわしい実直（じっちょく）な装（よそお）い。

　白く整（ととの）った肌は病的なものではなく、日々の節度ある生活を物語っていた。

　すらりと伸びた手足に、無駄な贅肉（ぜいにく）のない身体つき。

　決して豊満（ほうまん）とは言えないが、程よく引き締まった体のラインが、かえってその端正（たんせい）な印象を際立たせる。

　そして、姿勢。まっすぐに立つ背筋と、こちらをまっすぐ見つめる視線には、緊張と強い意志が映されていた。

　彼女の視線の奥に、微かに震えるものを見た気がした。

　……いや、気のせいか。

　あの夢の記憶が、まだ尾を引いているだけだ。

　彼女は今――この場の状況に緊張しているだけだろう。

「……ラング男爵家当主、リッド・ラングです。よろしく頼む、フィオナ殿」

　その名を呟くと、心に染（し）みわたるような、言葉の響きを感じた。