月毛

@kutibiru_Obake

第1章:風のなかの灯

白嶺郷(しらねごう)の朝は、霧が深い。

春先だというのに、山間(やまあい)の空気はまだ凍(い)てついて、蓮(れん)は小さな肩をすくめた。


彼の髪は黒に見えながら、月光の下では銀や紫が差す——

“月毛(つきげ)”と呼ばれる、薄民(すすきみん)の血を引く者に稀(まれ)に現れる特異な色だった。

琥珀(こはく)色の瞳は、夜になるほど深みを帯び、どこか遠くを見透かすような光を宿す。

その肌は透きとおるように白く、冬の朝霧に紛れて溶けてしまいそうだった。


町の者たちは蓮を遠巻きに見て、時に目を逸らした。

「祟(たた)りを見る瞳」「禍(まが)つ毛」と囁かれ、彼は生まれてからずっと“異物”だった。


ただ、ひとり——

ほたる婆(ばあ)だけは、あたたかかった。



「いいかい、蓮。木はな、風にまかせてしなう。けど、折れはせん。おまえも、そういう風に在(あ)ればええ」


婆がよく言っていた。くしゃくしゃの手で蓮の髪を梳(と)かしながら、山の昔話をしてくれた。


「月毛(つきげ)を持つ子はな、風の声を聞くって言うんじゃ。

聞こえたら教えとくれ。婆ぁの耳はもう、ほとんど聞こえんからなぁ」


あれが、最後の夜だった。



ほたる婆が倒れていたのは、翌朝のことだった。

囲炉裏(いろり)の灰が冷めきっていた。蓮は何も言えず、ただ膝をついて婆の手を握った。


冷たい。

もう、この手があたたかくなることはないと分かっていても、蓮は指先を擦り合わせた。

声が出なかった。泣けなかった。ただ、沈黙のなかに埋もれた。


ひと月が経った。


蓮は今、誰の子でもない。

山守(やまもり)衆が世話を申し出たが、「忌(い)み子は祟りを招く」と言い出す者が現れ、彼は郷のはずれの庵(いおり)に一人、置き去りにされた。



その日、村のはずれに異変が起こった。


人集(ひとだか)り。

「おい、誰か倒れてるぞ!」

「城下(じょうか)の者か? いや、見たことねぇ顔だな」


蓮はただ遠巻きに眺めていた。

倒れていたのは、15、6歳くらいの少年。

濡れた外套(がいとう)を脱がされ、顔があらわになると、ざわつきが広がった。


「…役人(やくにん)の小者(こもの)か?」

「いや、あれは…」


とつぜん、その少年——遼馬(りょうま)が目を開けた。

まっすぐな目だった。怯えてもいない、威嚇もしていない。

ただ、眼(め)は静かにまっすぐ、蓮の方を向いた。


なぜか蓮は、ぞくりとした。

この人は、なぜか違う——

誰の顔もまともに見られなかったはずの蓮が、その目を、逸らせなかった。



遼馬は、郷にしばらく留め置かれることになった。

手当のためという建前だったが、皆は警戒していた。

彼が発見された近くに、破かれた御触書(おふれがき)が落ちていたからだ。


夜。

蓮はこっそり、婆の遺品のひとつ——小さな桐箱(きりばこ)を開けた。


中には、色褪(あ)せた木札(きふだ)がひとつ。


《祝印(ほうりいん) 櫂(かい)》と彫られていた。

裏には見覚えのない文様。どこか鳥の羽のようでも、葉のようでもある。

意味は分からなかった。けれど、蓮はそれを手に取った瞬間、手のひらが少しだけあたたかくなった気がした。


——婆ぁ、これだけは渡すなって言ってた。

誰にも。

とくに、“都の人間には”。


遼馬の瞳が、ふいに脳裏に浮かんだ。

あれほど静かで、真っすぐな目を、蓮は知らなかった。


「……お前は、何者なんだ?」


木札を胸に抱き、蓮は夜風に目を閉じた。


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