第一八話
文佳はベッドで目を閉じながら考えた。あの頃、自分の知らないところで何が起きていたのだろう。きっと林が深く関わっている。それだけは漠然と、しかし確かな予感がした。だが、福衣たちが何を研究していたのか、文佳には皆目見当がつかない。文佳は文系の学生で、研究棟に足を踏み入れたことすら一度もない。林との関係が露見することを恐れ、彼が使っていた研究室に近づくこともできなかったのだ。
林の視線の先には常に福衣がいた。福衣は林にとって、特別な存在だったのだろう。研究分野が異なるとはいえ、学者としての扱いは天と地ほどの差があった。林には離婚歴があり、長年勤めていた大学の研究施設からも追われた経緯がある。福衣もまた似たような経緯で学園に来た身だったが、任される授業には歴然とした格差があった。林が教えるのは文系の生徒のための受験化学基礎。対する福衣は、理系の専門性の高い化学を教えていた。生徒からの信頼度も、学園内での扱いも全く違っていた。しかし、それだけが林が福衣を敵視する理由ではなかったはずだ。
一番気がかりなのは、あの事件の日、林が見慣れない生徒を教員室に連れてきたことだ。おそらく文系の生徒だったと思うが、部屋に文佳がいることを知りながら、わざとらしく連れてきた。あれはきっと、その場から文佳を追い払うためだったと、今となってはそう思う。だとしたら、林は文佳を追い払って一体何をしようとしたのか。そう考えた時、文佳の頭に一つの仮説が浮かんだ。もしかしたら、片森たちが探していた宝は、あそこに隠されているのかもしれない。その考えに至った瞬間、文佳はいてもたってもいられなくなった。ネグリジェの上に上着を羽織り、玄関に置いてあった懐中電灯を手に取る。そして靴を履き、玲奈に気づかれないよう、音もなく外へ出た。外はすでに深い闇に包まれている。焚き火の火は消え、皆が寝床についたようだった。今が好機だと判断し、扉が音を立てないよう慎重に閉め、ヒールを草の上にサクサクと響かせながら、早足である場所へと向かった。
そこは林の教員室だった。中は暗く、何も見えない。文佳は懐中電灯で足元を照らしながら、扉をゆっくりと開け、部屋の奥にあるスイッチを探した。電気が通じていないかもしれないという不安を抱きながらも、玲奈たちの言葉を信じ、スイッチを押してみた。すると、幸運にも明かりがついた。この部屋は駐車場側からは見えない位置にあり、明かりがついてもまず気づかれることはないだろう。しかし、それでも文佳は気を緩めることなく、ヒールの音を立てないよう、つま先立ちで静かに中へと入った。
他の部屋と同様、そこにはすでに備え付けの家具しかなく、文佳が慣れ親しんだあのソファも見当たらなかった。複雑な心境を抱えながらも、部屋の奥へと進む。そして、備え付け家具の一つである机の前に立った。一番下の引き出し。そこは、林が文佳との関係が露見しないよう、あらゆる秘密事を隠していた場所だった。彼が何かを隠すとしたら、きっとここだろうと、文佳は確信に近い推測を抱いた。
林がどうやってあの事故に気づいたのか、文佳は知らない。けれど、文佳の予想では、あの事件に林が関与していないなどとは到底思えなかったのだ。福衣の研究に最も注目していたのは林だ。彼がその研究内容を知らないはずがない。そして、その研究内容が本当に「世紀の大発見」と呼ぶに値するなら、それを見過ごすわけがない。そう考えると、一つの可能性が浮かび上がる。林は何らかの方法で、福衣と朝川が事故で死んだことを知り、誰にも気づかれないようにその資料を奪い、そして他の資料にすり替えた。そう考える方が自然だ。そうなれば、その資料をどこに隠したのか、という話になる。そして思いついた場所が、ここだった。林がなぜ、その資料を持ち出せなかったのかはわからない。もしかしたら、持ち出す手段がなかったのかもしれない。もしそうでなくても、林なら何かしらの手がかりをここに残したはずだとそう思った。
文佳はそっと底板を外し、中を覗いた。中には白い封筒と小さな箱が入っていた。思わず顔をほころばせ、それを手に取る。まずは封筒の方を見ようと封を開けた。中からは一枚だけ紙が出てきた。それは花の香りのする、可愛らしい手紙だった。
『愛する文佳へ
君の卒業を心から寂しく思う。
いつ君を迎えに行けるかはわからないが、このプレゼントをもって待っていてほしい。
心から愛している。
林真彰』
それは研究内容の一部でも、そのヒントでもなかった。それは、文佳に向けられた恋文だったのだ。そして、箱の中には小さな宝石のついた指輪が入っていた。それを見た瞬間、文佳は何て安物で、自分には不釣り合いなのだろうと思った。しかし、それでも何か胸の中に込み上げてくるものを感じた。自然と瞳から涙が零れ落ちる。
林は本気で自分を愛してくれていたのだと、文佳は実感した。一時的に素っ気なくはなってしまったが、文佳を忘れたわけでも、裏切ったわけでもないのだ。そう思うと、複雑な感情が胸をよぎる。後にも先にも、文佳を本気で思ってくれた人は林しかいない。どうして、今までそれに気づかなかったのだろう。そして、そんな自分が、自分の出世のために好きでもない男を利用したことにも後悔が押し寄せた。だからこそ、今の自分はこんなにも苦しんでいるのだと。もっと本物の愛とは何か、誰かを求めるということがどんなものか、理解しようと努めるべきだったと感じた。
その瞬間、文佳の頭にぐちゃりと、形容しがたい衝撃が走った。視界が真横に傾ぎ、体は激しい衝撃に抗うこともできず、なすすべもなく倒れる。掴んでいた箱と手紙は、意思とは無関係に指先から滑り落ち、床に散らばった。目の前はぼんやりと霞み、視界が徐々に闇に飲まれていくのがわかった。音も、肌の感覚も、全てが遠ざかる。床に広がる赤い液体の意味を、かろうじて理解した次の瞬間、文佳の意識は深い闇へと沈んでいった。
走馬灯のように脳裏を駆け巡ったのは、あの事件から数日後の記憶だった。学園に父親が来ていると知らされ、文佳は慌てて理事長室へと向かった。しかし、その部屋の中から、激しい言い争う声が漏れ聞こえてくる。
「どうするんですか。こんなことになるとは、全くの想定外です」
それは、理事長の声だった。文佳は部屋に入るのをためらい、ドアの前でそっと耳をそば立てた。
「起こってしまったものは仕方がない。探られる前に、全てを撤退させなさい」
「撤退って、そんな……」
理事長と話しているのは、紛れもなく文佳の父の声だった。今まで聞いたこともないような、低く、そして鋭い響きを持っていた。
「今は私の方で止められているが、民間が入ればそうはいかない。朝川君の件を聞いて、メインスポンサーも手を引いた。これ以上、国が介入することもできない。取引先がない以上、この事業は終わりだ。廃業するほかない」
「そうは言っても、施設を運営するために80億も投資したんですよ。どうやって回収すればいいというのですか?」
理事長は明らかに困惑しているようだった。話を聞いていても、文佳にはその内容が全く理解できない。ただ、この学園の開校に、国や大きなスポンサーが関わっていることだけはわかった。ここは単なる学び舎というよりも、もっと別の、大きな目的をもって建設されたのかもしれない。
「とにかく、あるものを全て売却しなさい。細かいものまで残らずにです。ここには証拠一つ残さないように。世間には何も知られぬよう、うまくやるしかない」
父の声も、明らかに焦りを帯びていた。父は何かを隠そうとしている。それが、世間に知られれば大変な事態になるだろう。そこに政治が絡んでいるとなれば、もはや取り返しがつかない。文佳は父に会うのをやめ、その場を静かに立ち去った。そして、今日の出来事は誰にも話さず、自分の中にだけ秘めておくことに決めた。それが全て、父のためになると信じて。
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