第一二話

 亮は勢い余ってその場で尻もちをついた。床の固くひんやりとした感覚が、先ほど触れたもう一体の遺体の石のように硬い感触を思い出させた。亮はゆっくりと振り向き、もう一度うつ伏せの遺体に目をやる。目の前に福衣が倒れているということは、おそらくこちらで倒れているのが朝川だろう。心臓が激しく波打ち、体中に響いているのを感じた。心臓の音で、それ以外の音が亮の耳には届かなかった。目の前の手は小刻みに揺れている。恐ろしいのだと実感しながらも、どこか冷静な自分がいた。


 もう一度、目の前の福衣の遺体に目を向ける。一瞬、目が合いそうになり視線を逸らしたが、よく見ると福衣の視線は別の場所を向いていた。死後硬直が始まっているのか、全身が石膏像のように固まっていた。床に面した一部が赤紫色に変色し、凍傷による皮膚の変形が所々に見られた。また、福衣の遺体の後ろには「液体窒素」と明記された容器が倒れていた。その容器の蓋は外れていて、壁際に転がっているのが目に入った。


 ――液体窒素による酸欠……か?


 その時、最初に浮かんだのはその言葉だった。本で読んだことがある。室内の酸素濃度が8%を下回ると、意識を失い、死に至る可能性が高くなる。この状況から、実験中に20リットルの液体窒素が漏れ出し、酸欠になった事故ではないかと考えた。しかし、知ったところで何が変わるわけでもない。


 とにかくこの場所から離れたいと思い、震えで力が入らない手足をなんとか動かし、近くのテーブルに掴まりながら立ち上がった。近くのもので不安定な体を支えながら、よろよろと扉の前まで向かい、なだれ込むように廊下へ出た。気持ちを落ち着かせようと大きく深呼吸をするが、心臓はまだバクバクとひどい音を立てている。廊下の隅に向かって声をあげれば、誰かが来てくれるのではないかと一瞬頭を過ったが、こんな早朝に本校舎から外れた研究棟の近くに来る生徒も教師もいない。ふらつく足をなんとか動かし、壁を伝いながら長い廊下を歩き、校外へと急いだ。


 研究棟から職員室までどうやってたどり着いたのか、亮は覚えていなかった。職員室の扉が見えた瞬間、倒れ込むように室内に入り、最初に目が合った教員にしがみついて状況を説明する。教員は亮の様子に驚きながらも、事情を察すると顔色を変えた。周りの職員たちも集まり、騒ぎ始める。目の前にいた男性教員が若い男性職員に声をかけ、研究棟へ急行した。残った女性教員の一人が慌てて警察に電話し、他の職員が亮に気遣いの言葉をかける。安堵と疲労からか、教員たちの声は聞こえなかった。まるで水の中に沈んでいくような感覚に陥り、亮の記憶はさらに曖昧になった。


 警察が学園に到着したのは、その1時間後だった。いつもなら30分ほどの距離だが、この日は積雪で時間がかかったらしい。他の生徒は寮で待機するよう指示され、校舎内にいたのは亮だけだった。彼は事情確認のため、保健室で待つよう言われていた。


 警察到着から10分ほど経ち、女性警官が若い警察官を連れて保健室にやってきた。第一発見者である亮から事情聴取をするためだ。女性警官は言葉を選びながら、少しずつ話を聞き出した。亮は正確に答えようとするが、答えるほどに不安が募る。あの光景は本当に事実だったのか?恐怖のあまり記憶が歪んでいるのではないかという疑念に囚われた。これは事故だと判断したが、もし警察が殺人事件と断定すれば、第一発見者である自分が容疑者になるかもしれない。誰も彼を疑ってはいなかったが、亮はいつの間にか全てに疑心暗鬼になっていた。この警官は自分を疑っているのではないか。勝手に犯人に仕立て上げられるのではないか。事情聴取が終わった後も、亮の心は全く落ち着かなかった。


 研究棟は当面の間、立ち入り禁止となった。翌日には通常通りの授業が行われ、学園は日常に戻っていく。福衣と朝川の死は彼らにとって衝撃的な事実だったが、どこか達観していた。警察側の見解も、この事件は事故として処理されたらしい。当初は殺人事件の可能性も調査されていたが、最終的には亮が見立てたのと同じ、液体窒素の大量流出による酸欠死、つまり事故と判断されたのだ。事件は思いのほか、あっさりと解決したように見えた。


 しかし、奇妙なのはそれからだった。学園側が突如、閉校を表明したのだ。それはあまりにも予想外の出来事だった。一期生の卒業とともに学校法人は撤退し、事業譲渡もされないまま売却が決定された。施設転用の話も噂されたが、それも実現しなかった。そして、亮たち二期生と三期生は強制的に別の高校へ編入させられた。


 学園側は経営不振を理由としていたが、これほど期待されていた学園だ。優秀な学生と教員が事故で亡くなったからといって、閉校に追い込まれるのは不自然に思えた。編入以降、亮はその事件について深く考えないようにしていた。考えないことで、自分の感情を守っていたのかもしれない。


 しかし、15年という月日が経ち、亮の中にあったあの日の恐怖よりも好奇心が勝っていることに気がついた。あの日の事件は一体何だったのか。なぜ学園は閉校まで追い込まれたのか。そして何より、福衣と朝川は何を見つけ出していたのか、気になって仕方がなかった。



 亮はこれらの話をかいつまんで浩勇と友幸に語った。友幸への批判や、文佳のことはあえて口にしなかった。二人は亮の話を真剣に聞きながら、当時の出来事を頭の中で整理しているようだった。


「元光君の話を聞く限りでは、事故と考えるのが妥当なのかな。あの福衣先生がそんな失敗をするとは思えないけど、状況証拠から考えれば、警察がそう判断したとしてもおかしくはないね」


 浩勇は顎をさすりながらそう答えた。亮もまた、あの事件は奇妙ではあるが、事故であったことは事実と思っている。


「警察が断言しているなら、それはもうになるんだろうよ」


 友幸は窓の外を見つめながらそう答える。


「他に気になることはなかったかな?当時のことで 覚えていることがあれば、どんなことでもいいから教えてほしい」


 浩勇の質問に、亮は困惑した表情でうめく。


「正直、他のことはあまり覚えていないんです。机の上に実験器具が並べられていたのは覚えていますが、資料の内容まで見る余裕はありませんでした。ただ、警察の話から推測するに、彼らはバイオマスエネルギーの研究をしていたみたいです。元々、福衣はエネルギー関連が専門でしたし。でも、何か変わった結果が出ている様子もありませんでした。彼らが言う『世紀の大発見』らしきものはなかったと思います。もしそんなものがあれば、もっと事件性が高まっていたのではないでしょうか?」


 亮の意見に浩勇も深く頷いた。


「確かに。警察もあっさり事故と認めた。裏で何か動いていたのかとも考えたけど、元光君の話を聞く限り、そうではなさそうだね」

「じゃあ、片森はここで何を見つけたんだ? なぜ、俺たちをこんな場所に呼び出した」


 友幸の疑問に、二人はすぐに答えられなかった。そして、浩勇は自分を落ち着かせるように息をつくと、亮たちに提案した。


「集合場所に戻る前に、一度現場を見ておこう。何か新たにわかることがあるかもしれない」


 亮と友幸は浩勇の意見に賛同し、研究棟へと向かうことにした。

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