魔獣

門を出た後、私は広大な平原を歩きながら、自分が現れたあの森の方へ向かった。あの中は少し不気味だが――


だが、この世界にはまだ知らないことがたくさんある。だから自分の恐怖心を抑えてでも探索する必要がある。


歩きながら空を見上げて、鳥が飛んでいないかを確認する。しかし、結局一羽も見つからず、ため息をついて視線を前に戻すしかなかった。


鳥を探していた理由は、この世界に来てから一度も動物を見かけていないからだ。本当に不思議な話だ。


もっと奇妙なのは、この世界に来てから空腹や食欲を感じなくなったことだ。特に町の門をくぐってからは、感情さえも感じづらくなった。今度アババーンに会ったら、絶対にこのことを聞いてみるつもりだ。


「ここは……」


足元を見下ろすと、そこは昨日眠っていたあの土の窪みだった。あの土の盛り上がりはよく覚えているし、ここで間違いない。やっぱりクティかベアンに聞いた方がいいだろう。


そのまま森の入り口までたどり着いた頃には、もう夕方だった。昨日よりも道に慣れていたし、早めに出発したので、今回は野宿する必要もなかった。


私は座り込み、昨晩ベアンがくれたカバンの中からスクロールを取り出し、中に書かれているスキルをすべて習得することにした。


「『ファイアボール』か」

最初のスクロールを開いた瞬間、中の文字が一斉に頭に飛び込んできた。そしてステータスを確認すると、確かに『ファイアボール』のスキルが追加されていた。


そのまま他のスクロールも次々と開いていき、私は『ウォーターボール』、『アースウォール』、『ウィンドカッター』、そして『エンハンスメント』のスキルを習得した。


習得が終わると、私はそのまま森の中へと足を踏み入れた。


「やっぱり、この森には動物も音もないんだな」

私は辺りを見回しながら呟いた。


動物どころか、風が葉を揺らす音と自分の足音以外、何一つ聞こえない。


なぜか私の足は止まることなく、どんどん森の奥へと進んでいった。まるで何かに引き寄せられているかのように。気づいた時にはすでに遅く、辺りはすっかり暗くなっており――それよりも重大な問題があった。


「……方向感覚を失った」


あまりにも暗いため、自分が森のどこにいるのかまったく分からない。


「『着火』を使用」

あまりの暗さに何も見えず、私は拾った枝に『着火』を使って松明代わりにした。


さらにしばらく進むと、前方から強烈な死臭が漂ってきた。


その匂いは、長年経過した死体のものではなく、明らかに腐敗が始まったばかりの新しい死体のものだった。好奇心に駆られて、私は匂いの元に近づいていった。そして――


「これは……」

思わず数歩後ずさった。そこにあったのは、血が飛び散った地面に横たわる腐敗した死体だった。しかも、ハエや死肉を漁る動物の姿さえ見当たらない。


なぜか、この光景を見ても私は恐怖を感じず、むしろその死体にさらに近づいていった。以前の私だったら、きっと気絶していたに違いない。


しばらく観察して、これは中年の男性の死体だと分かった。身体の一部が食いちぎられ、内臓がはみ出ている。まるでかじりかけのリンゴのようだった。


男性は裸で、陰部までもが喰われていた。哀れな最期だ。


だが、私の視線は彼の左手に釘付けになった。彼は何かを強く握りしめていた。私は無言でその手元に近づき、無表情のままそれを開いた。


「ペンダント……?」


そう、それは開閉式のペンダントだった。まるで他人に触れさせまいとするかのように、彼は死ぬまでそれを握りしめていた。


私はそのペンダントの上部にあるボタンを押して蓋を開けた。中にあったのは――予想通り、家族の写真だった。


恐らく、これはこの男性自身の家族写真だろう。だが、死体の顔は無惨にも引き裂かれていて、同一人物かどうか確認できなかった。


写真には、質素な服装の四人家族が仲良く並んで写っていた。男の子と女の子、恐らくそれぞれ二歳と五歳くらいだろう。


母親は優しそうな笑顔を浮かべていた。今も彼女は、夫がこんな無惨な姿で死んでいることを知らずにいるのだろう。


私はそのペンダントを黒茶色のカバンにしまい、いつかこの家族を見つけて遺品として彼女に渡そうと決意した。


ついでに、自分のステータスを確認してみた。最近では魔力を使っても頭痛やめまいが起きなくなっている。現在の魔力は15。さっきの『着火』で10消費したが、回復中なので嬉しいことだ。


私は立ち上がり、別の方向へ進んだ。しばらくすると、前方から「グルルル……」という大きな唸り声が聞こえてきた。


私は咄嗟に「これは動物の声だな」と思い、何も考えずにその音の方へ進んでいった。


現場に到着すると、私は近くの大木の後ろに隠れて、その「動物」を観察した――が、それは普通の動物ではなかった。


「……クマ? いや、クマにしてはデカすぎる」


目の前には、毛むくじゃらの巨大な生物がいた。前を向いたまま、何かをしている様子だった。


あまりに巨大だったので逃げ出そうとしたその時、私は足元の枯れ枝を踏んでしまった。


「パキッ」


たったそれだけの音で、あの怪物は反応した。ゆっくりと顔をこちらへ向け――私はその顔を見て、全身が凍りついた。


今までのどんな死体を見ても平気だった私が、初めて感情を露わにするほどの「嫌悪」と「恐怖」。


その怪物は、体は巨大な熊に似ていた。


だが、その顔は――


「ヤギ……? なんでこんな気持ち悪いものが存在するんだ?」


そう、顔は巨大な山羊のものだった。頭には鎌のように曲がった二本の角が生え、瞳には瞳孔がなかった。ただ真っ白な眼球。


しかも、両目からは血が流れていた。さらにその口元には――


長い髪の少女の「首」がぶら下がっていた。


ヤギのような怪物は、その巨大な口で少女の髪を噛んでおり、頭はぶらぶらと揺れていた。眼はひっくり返り、血は顎から垂れ流れていた。


あまりの光景に、感情を失ったはずの私でさえ、恐怖に顔を歪めた。


「くそっ、『エンハンスメント』使用!」


何も考えず、私は即座に『エンハンスメント』を使用した。身体能力が強化されることで、逃げ足も速くなるからだ。


それを見て、あの怪物は少女の首を放り出し、こちらへ突進してきた。走るたびに、道中のすべてを薙ぎ払っていく。


走り続けても限界がある。あの化け物は確実に距離を詰めてきていた。私は冷静さを取り戻しながら、ステータス画面を確認した。


「やった、魔力が全回復してる!」


だが――問題があった。クティからもらったスキルは、唯一『エンハンスメント』だけが魔力消費ゼロ。他の四つ――『ファイアボール』『ウォーターボール』『アースウォール』『ウィンドカッター』は、それぞれ一回につき魔力を15消費する。


そして、私の最大魔力は――たったの20。


つまり、使えるのはたった一発だけ。しかも、その一発で やるしかない――でなければ、本当にここで死ぬ。


周囲を見渡しながら走っていると、私は一本の太くて、先端が鋭く尖った木の幹を見つけた。

その瞬間、頭の中にひとつの計画が閃いた。


考えるよりも行動だ。


私はすぐにその作戦を実行に移す。


作戦はこうだ。あの太い木を抱えて、開けた場所まで走る。

そこで「ウィンド・カッター」を奴の顔面に撃ち込み、目を潰す。

そして混乱して突進してくるところを、あの木の鋭い先端で首を貫いて仕留める――!


「グルルルルッ!」


「うっ!」

私は木を拾うために少し足を止めたが、それが仇となった。

思った以上に木が重く、拾い上げるのに予想よりも時間がかかってしまったのだ。


すると、まるで獲物を仕留めたかのような咆哮を上げた化け物が、私の背中を鋭く引っ掻いた。


だが――不思議と痛くない。


すでに木を手にしていた私は、痛みを無視して再び走り出した。


木々や障害物が多い中、私は身体を滑らせるようにして次々と避けていく。

その動きは、自分でも信じられないほど軽やかだった。

――まるで、体が勝手に動いているような感覚。


もう考えている暇なんてない。ただ本能のままに、私は走り続けた。


やがて、森の中にぽっかりと空いた空間――開けた場所を発見。


「……ここだ!」


私は全速力のまま振り返り、咄嗟に人差し指と親指で銃の形を作る。

そして、目の前に突っ込んでくる化け物の目を狙って――


「『ウィンド・カッター』!」


真っ白な魔法陣が指先に現れ、そこから空気を裂くような斬撃が放たれる。


風の刃は一直線に化け物の目を切り裂き――視界を奪った。


目を切られた化け物は悲鳴を上げるかと思ったが、違った。

むしろ、それまで以上に狂暴になり、より速く、より激しく私に向かって突進してきたのだ。


「……それでいい!」


私の作戦は、むしろこの暴走を前提にしていた。


真正面に立ち、私はあの太い木の尖った部分を化け物の進路に向けて構える。


「死ね、このクソ野郎!!」


視界を失った化け物は木に気づくことなく、ものすごい勢いで突っ込んできた。


ズドンッ!!!


木の先端が、その巨体の首を真っ直ぐ貫いた。


化け物の動きは止まり、その場で崩れ落ちる。


首の傷口からは雨のように血が噴き出し、私の全身に降りかかる。

鉄のような匂いが鼻を突いたが、不思議と吐き気はしなかった。


そして――


化け物の巨体は、木に刺さったまま少しずつ滑り落ちていき


完全に息絶えた。

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