白壁の王

湊波

Ep. 1 ほんとうの名前は言わないで

 鏡の張られた練習室にずらりと並んだのは金の髪と青の目をもつ少年で、そのなかからマオは選ばれた。マオもまた、金の髪と青の目を持つ少年だった。


「アストライア様は、お前のことを気に入るはずだ」


 杖音の合間に、老爺の厳しい声が混じる。彼の真っ黒な長服トーブと、皺ひとつ許さぬと言わんばかりの背中に、マオは顔をうつむけた。


「……はい、エヴラン先生」

「声が小さい」

「はい」


 マオの精一杯の返事は、砂まみれの空気に吸いこまれてしまった。

 宮殿へと続く外廊下からは国中がよく見渡せるが、荒野の風が運ぶ砂もよく積もる。西日にさっと影が差し、マオは顔をあげた。蝶の機獣が空を舞っている。直後、どおんという鈍い音。


 マオは首をすくめた。砂混じりの空気に、国を守る白壁がかすかに震えている。敵襲だ。恐ろしい戦いの気配に、灰色の町並は息をひそめていた。


 こつ、と杖の音が止まる。


「歩け」エヴランが、冷ややかに催促する。

「でも……」

「お前がアストライア様と契約すれば、戦いも終わる」


 マオは服の裾をぎゅっとつかむ。ゆったりとした紺色の礼服は着慣れない。けれど、泣きたい理由はそれじゃない。


 視界の端に金色の前髪がかかった。逃げるように目を閉じたとき、マオの耳に軽やかな声が響く。


「まぁ、そう簡単には信じられないわよね。契約ひとつでどうにかなる、なんて」


 マオは目を開けた。


 エヴランの姿はなかった。かわりに、数歩と離れていないところに一人の少女が立っている。淡い金色の髪、白磁のような肌と、ほのかに色づいた頬。細い体は、やわらかなドレープをえがくドレスに包まれている。


 目があった。七色を宿す彼女の瞳が、嬉しそうに輝く。


「待っていたわ。オスカー」


 ひらりと服のすそをはためかせて、彼女が駆け寄ってくる。マオはたじろいだ。


「……あの、僕は、むぐ」

「ほんとうの名前は言わないで」少女は、マオの唇を指でふさいだ。「あなたが今日から『オスカー』なの。そのように振る舞わねばならないわ」


 睡蓮の香りを残して、少女は指先を離した。


 誘われるまま真っ白な宮殿にはいったマオは、ただただ息を呑んだ。入口からまっすぐに青と白の絨毯キリムがのび、からの玉座へと続いている。幾本も並ぶ円柱は天井近くで木々のように細い枝を伸ばしていた。白石の床はひやりと冷たい。色つきの窓からは青色の澄んだ光が差しこんでいる。


 少女が振り返る。その目に七色の光が踊った。


「オスカー、あなたはここで私と仲を深めるの。この正義の神、アストライアとね」



 *****



 三十年と少し前、白壁の国ラシャは戦いに巻きこまれた。若き王は正義の神と契約し、彼女と兵とを使って戦い、殺戮と略奪の嵐から国を守ったという。


 ラシャは栄華を極めた。民を想う良き王、正義を愛する少女神、強く賢い兵士たち。彼らに守られ、民もまた実直で義を重んじた。争いの過去を忘れ去らんとするかのように、白壁の門扉は昼夜問わず開け放たれ、旅人と商人は知識と富を国にもたらした。


 繁栄に影が差したのは、ここ数年の話だ。国王が死去し、ラシャは荒れ地の民の侵略を受けるようになった。機兵がラシャを取り囲み、昼夜を問わず白壁を攻め立てた。兵団は壊滅し、白壁の扉は閉じられ、悲しみに暮れた少女神は宮殿に閉じこもった。それでもラシャの民は生きていかねばならなかった。


 少女神の心を癒やすため、国中の若い男子が集められた。彼女が愛した王の身代わりを演じ、彼女と契約を交わして、国を守る力を得る。それが彼らの――マオの使命だ。


 では、その少女神が予想以上に生き生きとしていた場合は、どのように対処すればいいのか。


 やわらかなクッションのうえで、マオは戸惑った。宮殿の片隅に絨毯を敷き、アストライアは楽しげに本やら茶器やらを取りあげる。


「遊技盤、詩歌の読みあい、共に楽器を奏でること。オスカー、あなたのやりたいことはある? 準備だけは万全だから、どんな希望も叶えられる自信があるわ」

「あの……」

「なにかしら」

「僕は……その……アストライアさまの御心を癒やすようにと……」

「あら駄目よ」


 否定の声に、マオは首をすくめた。アストライアはきっぱりと言う。


「オスカーを演じなさい。自分のことは『俺』とよび、態度は堂々と。あなたにだって、国を救う覚悟があるでしょう?」


 マオは唇を噛んだ。違う。僕の髪と目が一番王様に似ていたからだ。

 アストライアがゆっくりとまばたきをした。


「なにか納得のいかないことがあるのね。いいわ。きちんと説明しましょう。まず私の心を癒す必要はないの」

「……じゃあ、僕はなんのために……」

「私が国を守る力を取り戻すため」


 アストライアは氷砂糖の皿から金の匙を取りあげた。色素のうすいまつげを伏せて呟く。


『息吹け』


 マオは目を丸くした。まるでトランプの束を斜めにずらしたときのように、スプーンが薄片の重なりとなり、平らになったからだ。アストライアがそれを宙へ放つと、金属片は音もなく組み変わって形をなす。


 透明な蝶がふわりと舞った。羽ばたくたびに七色の光が現れては消える。マオは機獣の美しさと繊細さに見惚れたが、アストライアは不満げだった。


「私の力は、あらゆる金属に命を吹きこむこと。けれど今は、役立たずの蝶しか作れない」

「綺麗だと思いますけど……」

「それじゃあ国は守れないわ。今は戦争中なのよ」


 アストライアは憂鬱そうに膝をかかえた。


「私が地上で力を使うには、人間と契約を交わさねばならないの。三十年前、オスカーと一緒に国を守ったときは小さな丘ほどもある機獣を作った」

「それは……えっと……」

「想像できないわよね。無理もないわ。今の私はつくれないもの」


 寂しさとも諦めともつかない影が、たおやかな少女神の瞳をかげらせる。


「私には新しい契約者が必要よ。あの頃のように強い機獣を創って、国を守るために。私はね、あなたとなら契約を結ぶことができると期待しているわ」

「……なぜですか」

「だって、髪も目もオスカーにそっくりだもの」


 アストライアが期待をこめた視線をよこした。


 マオは顔をうつむける。磨かれた銀の茶器の表面に、金の髪と青の目をもつ己の姿が映った。「僕は……」


 その一言が気に入らなかったらしい。少女神が溜息をついた。


「続きは明日にしましょうか。部屋にもどってちょうだい。ダガンに案内させるわ」


 言葉のひとつひとつが棘のようだ。マオはいたたまれない気持ちで宮殿をあとにした。


 日が落ちきった廊下は暗く、乾いた空気に砂が混じっている。マオは数歩もいかぬうちに、しゃがみこんだ。アストライアの落胆に、胸の内側が落ち着かない。さりとて、オスカーを演じるなんて無理だった。できないし、嫌だ。


 マオはぐず、と鼻を鳴らした。


「……父上、母上」

「ははあ、なるほど。親が心残りか」


 マオは顔をあげた。


 声の主は背の低い男だった。丸顔で、小太り。白布の長服トーブから突き出た右手は義手だが、丸をふたつ連ねた見た目は幼い子供が描く人間のようだ。両眉を下げる仕草でさえ、やけにひょうきんに見える。


「こりゃあ驚いた。見た目はうりふたつか。あぁ、俺がダガンだよ。おいで。部屋を教えてあげよう」


 ダガンに促され、マオは仕方なく立ち上がった。外廊下を抜け、宮殿のとなりの建物に入る。


「君の部屋はここだ。扉の蓮の彫刻を目印にするといい。食堂は右にふたつ隣。水を使いたければ、突きあたりの部屋に行きなさい。水道を通してあるからね。質問は?」


 蓮の刻まれた扉の前で、ダガンが愛嬌のある丸い目を向けてきた。暗闇に、ささやかな沈黙。


「……僕は、帰れないんでしょうか」


 マオは小声で問うた。ダガンが気の毒そうに言う。


「帰れない。君はアストライア様と契約せねばならない」

「うまくいくはずがないです。僕は、オスカーさまとはぜんぜんちがう……」

「見た目は同じだ。持って生まれた容姿を誇りなさい」


 マオは顔をうつむけた。視界の端で揺れる金の髪から逃げるように目を閉じる。誇れるわけがない。こんなもの。「……帰りたい、です」


 泣き言を繰り返した。静寂ののち、ダガンが言う。


「君は親と引き離され、エヴランの館で指導を受けた。君自身の意に反して」


 マオははっと顔をあげた。ダガンが声を一段落とす。


「やはり真実か。ならば君がご両親と会えるよう、手配してあげよう」

「本当、ですか」

「嘘は言わんさ。ただし、ここを去るまでの間、君がきちんとオスカーを演じられるなら、という条件つきだ。どうだね」


 ダガンの目に試すような光が宿る。なにか裏があるようにも見えた。けれど間違いなく、マオにとってはチャンスだった。


 エヴランの館に入ってから三年、何度夢に見ただろう。迎えにきた家族と一緒に、暗黒の館を立ち去ること。マオを、マオと認めて愛してくれる人たちと暮らすこと。ささやかな希望に胸がふるえ、マオはぎゅっと手を握る。僕は王様の身代わりになりたくない。


 それじゃあ国は守れないわ。今は戦争中なのよ。アストライアの透明な声がよみがえる。腹の底を焦がすような罪悪感から目をそらし、マオは口を開いた。


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