第4話「風の中のピアノ」
放課後、星見ヶ丘学園の旧校舎は、しんと静まり返っていた。
新しいクラスの友達ともまだ馴染めず、グラウンドの歓声や部活動の音が遠くに聞こえるだけ。
だけど、詩音は少しも寂しくなかった。
むしろ――この静けさが、好きだった。
校舎の古い廊下を歩くと、窓から春の風が吹き抜けていく。
廊下の硝子が少しだけ震えて、木造の床がぎしりと音を立てる。
(また、ここに来ちゃった)
詩音は誰にも気づかれないよう、そっと音楽室のドアを開ける。
空っぽの教室。
埃をかぶった黒板と、並んだ椅子たち。
窓辺のカーテンが、春風に揺れている。
光の粒が、床に散らばっていた。
教室の隅のピアノは、今日も変わらず、そこにあった。
詩音は、いつものようにピアノの前に座る。
カセットレコーダーを机の端に置き、ゆっくりと息を吐く。
(誰もいない。――大丈夫、怖くない)
今日は、千紗にも、誰にも声をかけずにここへ来た。
不安と期待が、胸の奥でせめぎ合っている。
けれど、指先を鍵盤に置くと、そのざわめきは静かに消えていった。
最初は、ごく簡単なスケールから。
ひとつひとつの音を、確かめるようにゆっくり鳴らしていく。
ぽろん――
優しい音が、教室いっぱいに広がる。
もう一度、音を重ねる。
右手と左手、両方の指で、見よう見まねでメロディをつくる。
窓の外、桜の花びらが春風に揺れるのが見えた。
その瞬間、詩音の中で何かが弾けた。
(もし、今、この音を――私の全部を、このピアノにのせることができたら)
詩音は目を閉じ、心の奥にある“秘密のメロディ”を探し始める。
今の自分の気持ち、言えなかったありがとうや、少しの寂しさも、すべて音に込めていく。
その音楽は、誰のためのものでもなかった。
だけど、カセットレコーダーは静かに録音を続けている。
詩音の指が鍵盤をなぞるたび、音楽室の空気がやわらかく揺れた。
放課後の光、窓から差し込む夕陽、
カーテンを通り抜ける風――
すべてが、詩音のピアノとひとつになる。
(この場所だけは、私が私でいられる)
涙がこぼれそうになる。
だけど今日は、泣かずにいられた。
ピアノの音が止まると、教室の静けさが戻ってきた。
詩音はそっとカセットレコーダーの「停止」ボタンを押す。
自分の声と音楽が、そのテープの中にちゃんと残っていると信じて。
窓の外を眺めると、夕暮れの空が少しずつ金色に染まっていく。
(いつか――この音が、誰かの心に届くといいな)
そんな願いが、静かな余韻となって胸に広がっていった。
*挿入歌(詩音)
♪
窓の外の風が 運ぶのは
まだ言えない「好き」や「ありがとう」
音にのせて そっと弾くたび
私の中の小さな勇気が
春の光に揺れだす
誰も知らない
この教室で――
私はいま、わたしを奏でてる
♪
ピアノの蓋を閉じ、荷物をまとめて席を立つ。
教室の外へ出る前、詩音はもう一度、
静かな音楽室を振り返った。
静かな春の風が、そっと髪をなでていく。
(また明日も、ここに来ていいよね――)
胸の奥に、小さな勇気と新しい希望が芽生えていた。
(続く……)
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