映画館の迷惑客
私は映画館が好きだ。映画を見に行く、というよりも映画館の雰囲気を楽しみに行く、といったほうが正しい。大きなスクリーンと音、ポップコーンを食べながらじっと映画と向き合う二時間。そういった特別な時間が、日々の潤いとなるのだ。
私は美容師であるため、平日が休みになることが多い。そういうとき、ふらっと映画館により、その場で作品を決めて見るというのが、私の趣味だった。
その日も、私はショッピングモールの最上階にある映画館にいた。ポスターをぼんやりと眺め、とある吹替映画を見ることに決めた。何の前知識も無いどころか、タイトルすら今日初めて見たが、こういうのが意外と良作との出会いになったりするものだ。
チケットを買い、シアターが開く十三時半まで買い物をする。気が付くと意外と時間が経っており、私は急いで最上階へ向かった。
スタッフにチケットを切ってもらい、私は一番奥の八番シアターに入った。平日の午前中、しかもそれほど人気のない作品だったこともあり、観客は私以外に三人しかいない。一番後ろ、真ん中の席を選んだ私は、ばらばらに座る三人の頭を見ながら、深々と腰かけた。
映画は突然始まった。他の映画の宣伝や、劇場内の注意などはなく、一人の男が泣き崩れる様子が画面に映る。なんだか気が散ると思ったら、非常口の明かりもついたままだ。スタッフのミスだろうか。
それに、音質が非常に悪い。字幕があるため、セリフは聞き取れなくてもよいのだが、何かを引きずるようなギギギ…という音が常に聞こえていた。そういう演出かと思ったが、どの場面でも聞こえているのは不自然だ。機械の不備かもしれない。
暗い、戦争映画だった。ほんの少し救いになりそうな出来事があれば、その何倍もの悲劇が起こる。そんな展開が続いた。悪化していく戦争、機械のように敵を殺す兵士、死への恐怖と痛み、愛する家族を亡くす絶望…。目をそむけたくなるような不条理を、私は見つめ続けた。
「いや、どういうことだよこれ」
半笑いのような男の声が聞こえたのはそのときだった。声は私と同じ列の右側からするようだ。
「は? マジで何これ」
「なんで泣いてんの、ひひ、変なの」
…最悪だ。映画鑑賞中に喋る迷惑客がいるらしい。話す内容も映画をばかにしているようで、私は一気に現実に引き戻されてしまった。どんな奴なのか見てやろうとして、ふと疑問に思う。
今私が座っているのは中央通路の一つ右だ。座るとき、確かこの列に他の客はいなかったし、上映中に誰かが前を通った記憶もない。劇場が小さいため、通路は中央しかなく、左右は壁だ。あの迷惑客は、いつどうやってあの席に座ったのだろう?
他に通路があるだろうかと見渡して、また別の違和感を覚えた。客が増えている。今では、私の席から客の頭が十数人程度見えていた。皆、一様に体を震わせ、泣いているようだ。
「いや死んでねえじゃん、嘘ついてんじゃんこいつ」
「戦争もしてねえって、作り物だろ、ひひひ」
右端の迷惑客はまだ話している。誰かに話しかけているような内容だが、声は一人分しかしない。右を見ると、目が合った。
迷惑客の男が、歯をむき出しにした笑顔でこっちを見ている。しかし、見開いた目からは何の感情も読み取れない。首だけをこちらに向け、肩を震わせて笑っていた。
「なあ、こいつ生きてるよ。この血も作り物だろ」
「そもそもさ、こいつら家族じゃないし、何が悲しいんだよ、ひひ、ひ、ギ、ギギ」
固まる私をよそに、男は不気味な顔のまま笑っている。歯に力が入っているのか、笑い声は次第に歯ぎしりのような不快な音に変わった。同じ音が劇場中から聞こえ始める。客はどんどん増えている。皆泣いてるのではなく、笑っているのだ。
「そおだよなあ、嘘吐きだよなこいつら、ひひ、ギギギ、ギ」
「誰も死んでねえのに、死んだ死んだってさ、ギギ、ギギイ」
「ギイ、ギギギ、全部作り物だよなあ、ギギ」
しばらくあっけにとられていた私は慌てて立ち上がった。逃げなければ、何も分からないが、このままでは取り返しのつかないことになりそうだった。
笑い声に包まれた満席の劇場を掛け下りて、息を切らして外に出る。廊下を歩いていたスタッフの女性とぶつかりそうになった。
「きゃ、すみません、大丈夫ですかお客様」
明らかに様子のおかしい私を見て、スタッフは心配そうに尋ねた。
「こ、このシアター変ですよ! 変な人が、いっぱいいて」
「…こちらの、八番シアターでしょうか?」
「ええ、お客さんが全員笑ってた…。おかしいですよこんなの」
「ええっと、すみませんお客様、今八番シアターでは何も上映していないのですが…」
「はあ…? 何言ってんですか。ちょっと来てください」
らちが明かない。私はスタッフを引き連れ、恐る恐るもう一度劇場に入った。
劇場内は、静まり返っていた。誰もいない。映画も流れていない。薄暗い部屋で、非常口の明かりだけが目立っていた。
「お客様、こちらのシアターは十四時半に上映開始予定です。シアターや時間をお間違えでは…?」
背後のスタッフが申し訳なさそうに言う。私はどうやら、上映時間を勘違いし、一時間早く入ってしまったらしい。しかし、私は確かにさっきまでここで映画を見ていたのに…。あれは絶対に夢や幻ではない。チケットを切ってもらい、映画を見て、それで…。
「あ、そうだ。チケット…」
私は異常な事態にくらくらする頭を押さえながらチケットを取り出す。そして、悲鳴を上げて手を離した。
歯で噛みちぎったように汚く破られたチケットが、劇場の床に落ちていく。
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