短編小説集「刻限」

みり

二〇二二年五月中旬、九十五歳の祖父が亡くなった。

報せを受けたのは、電話をとった祖母だった。「お父さん、危ないんだって」という小さな声により、家族総出で祖父が入院する病院へ向かうことになる。

就寝の準備から外出の準備へ、家の中が一気に慌ただしくなる様子を私はどこか冷静に眺めていた。


 静まり返った夜の病院は苦手だ。薄暗く、すこし気味が悪い。

 清潔に保たれた空間は特有のにおいがなく、広々としたエントランスはどこか寒々しい。カツンカツン、と家族数人分の足音がロビーに響き渡る。夜間専用のエレベーターに乗りこみ、フロアに到着すると、夜にも関わらず明るい声の看護師が出迎えた。

 看護師は努めて明るい声色で、「夕方ね、急に調子が崩れたんですよね」と告げながら、病室の扉を開く。

「どうぞ、お顔を見てあげてください」

 促されるままに静まり返った病室に入る。おそるおそるカーテンを開けると、そこには祖父が横たわっていた。

 しばらく顔を見なかった祖父は、かなり瘦せていた。肺を悪くしていた彼は、晩年呼吸をするのが難しく、食事も喉を通りにくかったという。ぽっかりと空いた口は、最後まで生きるために酸素を求めていたのだろうか。


 いつか、遺体を「眠っているようだ」とはじめて称したのは誰だったのだろう。

 大切な人の死から逃避するため、そのような表現をしたのだろうと推測はできる。だが、私は目の前の遺体に対して「眠っているようだ」とはどうしても思えなかった。


 そこのいたのは「器」だ。

 口を開け、微動だにせずに横たわるその姿を見て、私は「器」だと感じた。

少なくとも、人間に、ましてや家族に向ける感想ではない。

 だが、飛び込んでくる視覚情報と心が一致しない。


 もしも、人間に「魂」が存在するならば、もうこの体にいないのだろう。

 目の前にいるのは、役割を終えた肉体という名の器。生をまっとうした魂の抜け殻。

 私は今、物言わぬ「器」と対峙していると肝が冷えていく心地がした。


 隣では母や祖母が涙ながらに「がんばったね」と声をかけている。

 その声を聞いて、ようやく目の前の遺体が「祖父」だと認識を戻すことができた。私も家族に倣い、動作と言葉をまねて祖父に声をかける。

「がんばったね」

「今までありがとう」

「ゆっくり休んでね」

 もうこの声をかけたところで彼には届かない。

それがわかっていながらかける言葉はやはりどこか空虚で、この空虚こそが喪失の悲しみなのか、と自身の中の納得の形に押し込んだ。

 そっとしわの多い手に触れると、体温だけが徐々に失われていくひんやりとした冷たさだけが指先に伝わった。私の手が握り返されることも、熱が伝わり宿ることも、もうなかった。


「九十五年も生きたんだもの、大往生ね」

 と、母はすぐに表情を切り替えて病室を後にする。人間の人生にはあらゆる事務手続きがつきものだ。葬式の手配、遺体の運搬。慣れた様子で各所に電話をかけ、手続きを進めていく。その様子に死への慣れを感じた私は、手伝おうかとも言い出すことができずに病室を後にする。

 その手続きには慣れたくないという本音を抱えながら、友人との約束を延期してもらう連絡だけ入れた私は、手持無沙汰にロビーのソファに寄りかかった。


 意識的に空気を大きく吸い込む。脳にこびりついた「器」としての祖父の姿を振り払い、生前の祖父の記憶を手繰り寄せるように、私は目を閉じた。

 涼しく、過ごしやすい夜のことだった。

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