05_Reverse: Black Swan - 03

 いとしま医学特区。漂白された六角形の人工島、その中心に建つこの庁舎の真下。海底にほど近いその場所には、まさに医学特区が封じ込めている幻想の息吹、未だ衰えを知らない神秘の泉がある。


 この庁舎は龍脈の結節点、その真上にある。龍脈は所謂アカシックレコードから流れ出したものとも考えられているが、星の記憶が流れ出したものという説が最近は有力だった。


 そんな莫迦げた学説を信じる一般人など誰もいない。無論、この庁舎に勤める一般職員も知る由はない。だが幻想や神秘に触れて、馬子の背骨に触れることも厭わないような愚者であれば、誰もがそれを知っている。


 海底に突き刺さった要石、それを秘すために置かれている水天龍宮には、陰陽庁に属する魔術師らですら立ち入れない区画──禁足地がある。そこに座すのは本物の神秘ではなく、があるだけ。


 そう言われてはいるが、俺は知っている。


 何故いとしま医学特区に魔術師や魔術結社が流入するのか。それはこの人工島が他の医学特区と比較しても規模が大きいとか、成り立ちがそこそこ古いからとか、恐らくそれだけの理由ではない。


 この事件の始まり──全ての起点が『第四手術室の惨劇』であるならば。

 天界魔教と神榮会が繋がったのも、熾天使連続殺人事件が発生したのも、そして椿が殺されたことも、全て『第四手術室の惨劇』に、ひいてはそれの引き金となった交通事故に答えが隠されているのだとしたら?



(そう、やとしたら……)



 俺は必死に思考を巡らせる。仮に彼が全ての事件の犯人であれば、何故心停止した俺を救命したのだろうか。そのまま放置──あるいは、ある程度救命するそぶりを見せて、途中で放り出せばよかったはずだ。

 わざわざ救命して、俺を自由にさせておく理由が見えてこない。


 ゆらり。


 突然背後の気配が揺らめいた。俺は勢いよく振り返ったがそこには誰もいない。静まり返った暗い社殿があるだけで、御簾の奥にも誰の気配も感じられなかった。


 だが間違いなく何者かがいる。水天龍宮に入れる者は多くない。怪しまれずに入ってくるなど不可能、さらに言えば龍脈が近いこの場所は、神秘汚染度が庁舎などとは比較にならない。平常時がニパーセント程度なのだ。その十倍は異常値と言っていい。


 俺はホルスターから拳銃を引き抜いた。感覚を研ぎ澄ませる。先ほどの気配のあるじが姿を表すこともない。だが────


 ゆらり、と再び空気の中に、波打つ彩光が現れる。俺は素早く拳銃を持ち上げて発砲した。対魔術師なら物理的な殺傷武器を使った方が早い。相手が空間魔術の使い手でなければ、大抵はこちらのものだ。


 だが俺の見通しはどうやら甘かったらしい。弾丸が止まっている。斥力で弾丸を止めたか、あるいは弾丸の持つ速度を極限まで奪ったか──どちらにしても空間魔術だ。物理法則を操る魔術には分が悪い。


 虚空を睨む。直後、俺が放った弾丸がぐるりとこちらへ舞い戻ってくる! 俺は左へ飛んでそれを必死に避けるが、



「……ッ!!」


 左肩を凶弾が裂く。

 何者や? 空間魔術は『魔女の魔術』とも呼ばれ、使用できる魔術師は一握りしかおらんはず。まさか天界魔教の魔女? 入ってこれるんか?

 水天龍宮には悪意あるものを拒絶する結界が張り巡らされている。それを通過できるなど普通ではない。


 追撃が飛ぶ。襲撃者の姿が一瞬だけ見えた──黒い杖に、スーツ。まさか螺旋捜査官? 俺や海堂と同じような、真っ黒の喪服に似たスーツ。


 公安局や、陰陽庁の人間?


 しかし次の瞬間襲撃者は突然姿をくらました。空間跳躍まで使えるんか? 熱を持って痛む左肩を気にしている暇はなかった。逃げたやつを気にしている場合でもない。とにかく今は時間が惜しい。


 俺は乱暴に御簾を持ち上げた。黒い漆塗りの棚が所狭しと並べられ、異様な雰囲気を醸し出している。棚はいずれも空だった。しかし右側の端、上から三段目の棚に桐の箱が収められている。俺はそれを引っ張り出して床に置き、中身の書類を漁った。



「どうなっとる……?」



 確かに書類はあった。だが、そこに書かれていたのは全く別の事件記録である。言語すら違う。文書は英語で記述されていた──それだけではない。これは今から百二十七年前の文書、その複製ではないか!


 水天龍宮の禁書庫にすら収められていない?

 誰かがそれを消した? 持ち去られた? いや、そもそも最初から何も残されていないのではないか。


 記録が一切残されていない事件でも、記憶している者はいるはず。俺は一縷の望みに縋る。海堂なら何か覚えているだろうか?



「そこにはねえよ」



 俺は声の方を見るのも恐ろしく、早鐘を打つ心臓を押さえつけて、ゆっくりとそちらへ顔を向ける。


 ゆらり、ゆらりと水泡が動いている。それは徐々に形を作り、椿が侍らせていたアノマロカリスにそっくりな妖精と同じ姿を取った。唯一の差異は飾りビレが二本あるか、一本になっているか、その程度のものである。



「嘴馬、先生……」


 俺の声は自分のものとは思えないほど弱々しかった。


「何故、あなたが水天龍宮に」

「許可は貰ってる」


 黄色の入庁許可証を彼は掲げた。それは水天龍宮を含め、幻想や神秘に関わる部門へ立ち入る際に必要なものである。


「お前が探してるのは第四手術室の惨劇に関することだろ」

「その前に答えてください。そいつはなんですか? なんであんたが椿と同じ妖精を侍らせとる。なんで禁書庫に記録がないことを知っとる?」

「こいつは、椿の契約妖精だった」

「まさか奪ったんか?」

「んなわけあるか。……椿が死んだ後に、突然俺の前に現れた。消えかかってたから、俺が契約して留めてる。そんだけだ」

「随分都合のいい話やな。あんたは魔術師やないはずやろうが。なんで妖精と契約できる? そいつは妖精言語を持っとらん。普通に考えて、幻想が見えるだけの体質のやつが契約できるような存在やない」

「否定はできねえな。けど、今は重要じゃないだろ」


 嘴馬はそう言って後頭部を軽く引っ掻いた。この状況で随分余裕そうやな、と俺は苛立ちを募らせる。彼の真意が全く読めない。


「第四手術室の惨劇は、事件そのものがなかったことになってる。公文書なんて一通も存在しねえよ」

「そんなわけあるか」

「嘘じゃない」


 嘴馬は唸るような声で言った。必死に感情を押し殺していたが、もうどうすることもできないという後悔は消せないようだった。


「……全部なかったことになったんだよ」


 ゆらゆらと水面が揺れる。光が妙な位置で屈折していた。彼が侍らせる、今では椿のものではないその妖精が泳いでいるせいだ。


「あの事件は全て、徹底的に漂白された。誰も覚えてない」

「あんた以外は、でしょう」

「……」


 嘴馬は黒縁メガネの奥で、瞳を翳らせた。


「記憶処理……秘匿魔術を応用したあのマスキングが効かん人間なんて、どう考えても普通やない。あんた、本当に一体────」

「悪いが、その言葉そのまま返すぞ。他人の思考や行動を言葉一つで束縛できる異能者がそんなこと言うか?」


 嘴馬の鋭利な視線が俺を射抜く。鶸色の瞳は先ほどの翳りが嘘のように煌めき、光を放っているように見えた。


 この男は俺を疑っている。俺が四宮椿を殺害したのではないかと。

 お互いに腹の探り合いをしていても、何も始まらない。



「なあ、咲良。この事件は事件関係者全員に実行可能だ、って言ったよな。もちろんその中にはお前自身も含まれるはずだ。けどこの事件を起こした真犯人が本当に狙ってたのは多分椿だろ。つうことは──」

「俺が犯人なら、わざわざこんな周りくどいことしません。椿の目を覗き込んで『自害しろ』と言えば全てが終わる」

「それだよ」 嘴馬は言った。「だからこの事件を起こした奴はきっと、わざわざ周りくどい方法を使わなきゃならない立場にいる」

「自分が真犯人だと思わせない立ち位置にいながら、全員の動きを俯瞰できる人間、っつうことですか」


 俺は静かに口にする。嘴馬は一度頷き、細く息を吸い込んで、


「ああ。……まあ、証拠も何にもないただの仮説に過ぎないけどな」

「一つ未だに解らないことがあります」


 俺は言うべきか考えあぐねながら呟いた。


「犯人の動機です。いくつかの事件を繋ぎ合わせたにしても、天界魔教、神榮会、この二つの反社会的勢力を敵に回すのは危険すぎる。……いや、まさか……」

「真犯人は別に自分が死んでも良かった。うっかり計画が露見して組織の連中に殺害されても、組織をスケープゴートにしちまえばいい……それぐらいのことを考えてるんじゃねえか」


 俺は海堂に言われたタイムリミットを思い浮かべる。彼は俺に『三日』という具体的な数字を出した。もちろん内調や公安の介入という、現実的な話を信用していないわけではない。しかし嘴馬の仮説は真犯人がすでに死んでいる可能性──俺が頭から無意識に押し出していた可能性をこちらへ投げかけている。



「……神原信近が、殺されました」



 俺は一か八か、その事実を口にする。徐々に嘴馬の瞳が見開かれていく。驚愕と困惑、そして恐怖がないまぜになった表情が顔に張り付いている。


「あんた、言っとったよな。──神原信近は椿の指導教員やったって。改めて調べたけどそんな事実はどこにもなかった」

「そんなわけ、」

「けど神原も神原で、あんたの言葉を裏付けた。どう考えてもおかしいと思いませんか」

「記憶が、誰かに弄られてるっつうのかよ」

「犯人は他人の認識に干渉し、真実を捻じ曲げる力を自在に操れる……それはつまり、あんたが言ったように全ての要素を閲覧できる立場におらんと不可能です」

「……、お前、やっぱり俺を疑ってるよな」

「疑ってますよ」


 俺は嘴馬を睨みつける。僅かにたじろいだ彼は、一歩後ずさる。その動きに合わせて〈カンブリア〉がゆらりと動いた。


「あんたは魔術が効きにくいだけやなく、妖精〝未満〟であるはずの第三怪異カンブリアと契約できる力量がある。それを考えりゃあ、あんたが椿と神原を殺したと考えるのは自然でしょう」


 でも、と前置きをして俺は続けた。


「嘴馬先生。あなたは椿は志を同じくして、医は仁術と信じていたはずです。その一点において、俺はあなたを疑いたくはありません」


 一歩前へ近づく。腕を伸ばせば彼の肩に触れられる程の距離にまで近づき、


『答えてください』

「──ッ、!?」


 嘴馬の瞳の奥に、緋色が宿る。俺の言葉が魔力を帯びて、俺の視線が彼を呪った。

 言葉が溢れる。もしも彼が椿を殺していたなら、俺はこの男を殺してしまうかもしれない。そんなことを思いながら、俺は唇で呪いを紡ぐ。


『あなたは、四宮椿を──殺害しましたか』

「──ッ、そんなわけがあるか!」 嘴馬は悲愴な声で叫ぶ。「弟子なんて、そんなもんじゃ、ないんだよ。娘同然に育てたんだ! 何が正しいかもわかんねえよ。でもな、」


 嘴馬は勢いよく俺の両肩を掴んだ。彼の指先が白んで、俺の銃創から血が滲む。その痛覚で意識が引き戻される。


 そうだ。銃弾だ。あの時、椿を撃ち殺した銃弾は。

 俺が紡いだ呪いが解ける。だが──



「あいつの願いを、叶えてやりたいと思ったんだ」



 俺はその独白に、言葉を失う。


 椿は両親を失っていた。そして最期の力を振り絞った父親に救われている。

 あいつはいつも十二人と言っていた。『第四手術室の惨劇』で死んだのは十二人、と。


『患者を殺したのはこれで二度目だ』


『事象の背後には遺伝子がある。意識の発露や行動にさえ、それらは関与する』


 そして気づく。この事件は、

 ──この、事件は。




「だけどその願いが俺の想像の外側で、誰にも理解できないようなことだったら、俺はどうするのが正しかったんだよ」

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