観測者効果と重なり合う波束
1.
メイコは、アヤミから半ば強引に見せられたケイの配信アーカイブの断片を、楽屋の隅で無表情に見つめていた。画面の中のケイは、どこか遠い星の言葉を翻訳するように、彼女の歌詞の一節一節を分解し、再構築し、そして、そこに彼自身の宇宙の色を重ねていく。
「…馬鹿みたい。勝手に分析して、勝手に共感して…私の何がわかるっていうのよ。私のこの、ヘドロみたいな感情の渦の、表面を撫でてるだけじゃない」
吐き捨てるように言ったが、その声にはいつもの刺々しさが少しだけ欠けていた。ケイの言葉は、彼女が頑なに閉ざしてきた心の扉の、ほんの僅かな隙間から差し込む、予期せぬ光のようだった。それは、不快で、眩しくて、そして、ほんの少しだけ…暖かく感じられたのかもしれない。いや、そんなはずはない。彼女は即座にその微かな感覚を否定した。
ケイは、彼女の音楽を「凍りついた星の核から漏れ出す、最後の放射熱」と表現していた。また、彼女の歌詞の絶望を「ブラックホール事象の地平面で、永遠に落下し続ける宇宙飛行士のモノローグ」とも。それらの比喩は、奇妙なほど的確に、彼女自身も言語化できなかった内面の風景を捉えていた。それは、まるで自分の脳内CTスキャンを、見ず知らずの他人に解説されているような、居心地の悪さと、同時に、どこか腑に落ちるような感覚を伴った。
「…この男、私のゴーストでも見てるのかしら」
彼女は、そう呟くと、スマートフォンの画面を閉じた。しかし、ケイの言葉の断片は、まるでサブリミナル効果のように、彼女の意識の片隅に残り続けた。それは、いつもの自傷的な思考ループに、僅かなノイズとして混入し、ほんの少しだけ、その軌道を変え始めたのかもしれない。
その夜、彼女は新しい曲の断片を口ずさんでいた。それは、いつもの攻撃的なリフではなく、どこか浮遊感のある、しかし確かな芯を持つメロディだった。
プリズム越しに覗く キミの瞳(アイズ)
屈折率nのココロ模様
ワタシのスペクトル 解析(アナライズ)してもいいよ
でもね きっとそこにはノイズしか無いから
エントロピーまみれのこの部屋で
シュレーディンガーのキミとワルツを踊るの
観測しないで この重ね合わせの世界を
彼女の音楽は、観測者であるケイの存在によって、知らず知らずのうちに変化し始めていた。それは、物理学における「観測者効果」のように、見られることによって対象そのものが影響を受ける、という現象に似ていた。彼女はそれを認めたくなかったが、ケイという名の特異なレンズを通して世界を見ることで、彼女自身の音楽の持つ意味が、ほんの少しだけ、変わって見え始めていた。
2.
ケイの配信は、静かな熱を帯び始めていた。視聴者数はまだそれほど多くはない。しかし、チャット欄に書き込まれるコメントの一つ一つが、まるで小さな星々のように、濃密な思考の光を放っていた。アカリは、時折、ケイの文学的な飛躍に対して、数学的な精度で補足を入れたり、あるいは鋭いツッコミを入れたりした。「ケイ君、その『魂のフラクタル次元』って表現、マンデルブロ集合の美しさを想起させるけど、定義が曖昧すぎない? もっと厳密な言葉で説明してほしいな」などと、彼女らしいコメントが、ケイの言葉に新たなレイヤーを加えていた。
リクらしき、匿名の、しかし知性に裏打ちされた短いコメントも、ケイの注意を引いた。「あなたの解釈は、対象の本質に迫る一つの有効なアプローチだ。ただし、それはあくまで投影図に過ぎないことを忘れてはならない。実像は、常に観測者の数だけ存在する」その言葉は、まるで高名な哲学者の警句のように、ケイの心に深く刻まれた。
「…僕の言葉は、誰かに届いているんだろうか。いや、そもそも『届く』とはどういうことなんだろう。情報は、発信された瞬間に、もう僕自身のものではなくなる。それは、受信者のフィルターを通して、全く新しい意味を帯びる。まるで、白色光がプリズムを通過することで、七色のスペクトルに分かれるように。僕が見ているメイコさんの音楽の『色』も、無数にある可能性の一つに過ぎないのかもしれない」
彼は、自分の役割について深く内省していた。自分は、メイコの音楽の伝道師なのか、それとも、ただの個人的な妄想を垂れ流しているだけの電波系ノイジーマイノリティなのか。その両方であり、どちらでもないのかもしれない。
ある日の配信後、彼は一通の匿名メールを受け取った。それは、ごく短い文章だった。「貴方の言葉は、触媒だ。反応を加速させるが、それ自体は変化しない。しかし、反応後の世界は、以前とは異なるものになるだろう。我々は、その変化を観測している」差出人の名前も、メールアドレスも、追跡不可能なように巧妙に処理されていた。ケイは、その文面に、リクの知性と、どこか超越的な視線を感じ取った。
このメールは、ケイに新たな問いを投げかけた。自分は、誰かの実験の対象なのだろうか。あるいは、もっと大きな、見えない力の歯車の一つに過ぎないのか。その考えは、彼を少し不安にさせたが、同時に、自分の存在が、何らかの意味を持ち始めているという、微かな手応えも感じさせた。
彼は、モニターの向こう側にいる、まだ見ぬ顔のリスナーたちに語りかけた。
「…僕たちは、孤独な島宇宙かもしれない。でも、時折、重力波のように、互いの存在を感じ取ることができる。メイコさんの音楽は、そんな重力波の一つなんだ。そして、僕の言葉が、その受信感度を少しでも上げるアンテナになれるなら…それも、悪くないのかもしれない」
彼の部屋には、相変わらず、どこか宇宙的な孤独感が漂っていた。しかし、その孤独は、以前よりも少しだけ、暖かみを帯びているような気がした。それは、遠い星々から届く、微弱だが確かな光のようなものだった。
3.
アカリの研究室のモニターには、複雑な分子構造モデルが映し出されていた。彼女は、次世代メモリ素子のための新しい材料設計に取り組んでいた。原子一つ一つの配置が、全体の性能を劇的に変える。そのミクロな世界の厳密さと、マクロな現象を結びつける思考が、彼女の得意とするところだった。
ケイの配信コミュニティの動向は、彼女にとって格好の「社会実験」の観察対象だった。彼女は、そのコミュニティ内部での情報の伝播速度、影響力を持つノード(ケイや、ある種の熱心なコメント投稿者)の特定、そしてミーム(メイコの歌詞やケイの比喩表現)の拡散パターンを、半ば趣味で分析していた。
「興味深いのは、このコミュニティが、非常にオーガニックに成長している点ね。誰かが意図的にコントロールしているわけではない。なのに、ある種の自律的な秩序が生まれつつある。まるで、アメーバの粘菌が、最適な経路を見つけ出して集合するように」
彼女は、匿名で、アストラル・ノヴァの数少ない公式SNSアカウント(おそらくアヤミが細々と管理しているのだろう)に、短いメッセージを送ってみた。それは、当たり障りのないファンメールの体裁を取りながらも、いくつかの具体的な質問を巧妙に紛れ込ませていた。バンドの音楽的ルーツ、歌詞のインスピレーション、今後の活動予定など。それは、彼女なりの「プローブ(探査針)」だった。コミュニティの「発生源」に対して、直接的な刺激を与えることで、その反応を観測しようという試みだ。
返信は、数日後に来た。アヤミと思われる、丁寧だがどこか慣れない感じの文章だった。音楽的ルーツについてはいくつかのバンド名が挙げられ、インスピレーションについては「ボーカルの個人的な体験」とだけ書かれていた。今後の活動予定は未定。アカリは、その行間から、バンドがまだ手探りの状態で活動していること、そして、メイコという存在が極めて内向的であることを読み取った。
「…なるほど。このボーカル、メイコという人物は、おそらく極度のセンシティブ。ケイの解釈が、ある意味で『防護壁』兼『翻訳機』として機能しているからこそ、彼女の音楽は外部に届いている。直接的なコンタクトは、逆効果になる可能性も高いわね」
アカリは、自分の仮説が裏付けられたことに満足した。しかし、同時に、このアンバランスなシステムが、いつまで維持できるのか、という疑問も感じた。外部からの刺激が強すぎれば、メイコという才能は壊れてしまうかもしれない。かといって、このままでは、大きなムーブメントには繋がらないかもしれない。それは、まるで臨界点近傍で揺らぐ物質のような、不安定な状態だった。
彼女は、ケイの次の配信に、こんなコメントを書き込んだ。「触媒は、反応経路を変えることで活性化エネルギーを下げるけど、それ自体が過剰に供給されると、副反応を引き起こす可能性もあるのよ。バランスが大事」それは、ケイに対するアドバイスのようでもあり、自分自身への戒めのようでもあった。
4.
リクは、大学病院の無菌室で、顕微鏡を覗き込んでいた。培養された細胞が、彼の眼下で分裂し、増殖していく。生命の最も基本的な営み。その秩序と、時に見られる無秩序(例えば癌細胞の増殖)が、彼の探究心を刺激した。
ケイからの返信はないだろうと思っていた匿名メールに対して、ケイは次の配信で間接的に言及した。「…ある方から、僕は触媒だという指摘をいただきました。確かにそうかもしれません。でも、触媒である僕自身も、この反応の行く末を見届けたい、という強い欲求があるんです。それは、科学的な好奇心とは、また違う何か…」
リクは、ケイのその言葉を、静かに聞いていた。ケイは、自分が思っていた以上に、この現象に主体的に関わろうとしている。それは、リクにとって予想外の展開だった。彼自身は、あくまで客観的な観測者でいるつもりだった。しかし、ケイの言葉は、彼にも微かな「参加者」としての意識を芽生えさせ始めていた。
「…『観測者』は、果たして『参加者』と明確に区別できるのだろうか。量子力学の世界では、観測という行為そのものが、結果に影響を与える。僕がケイさんの配信を聴き、メールを送った時点で、既に僕もこの『系』の一部になっているのかもしれない」
彼は、アストラル・ノヴァのライブ映像を、繰り返し見ていた。特にメイコの表情、指の動き、声の震え。それらの微細な情報から、彼女の心理状態を推測しようと試みた。それは、彼なりの「臨床観察」だった。彼女の歌は、明らかに苦痛の中から生まれている。しかし、そこには同時に、強烈な生への渇望も感じられた。
彼は、再び匿名で、アストラル・ノヴァのSNSに、極めて短いメッセージを送った。「あなたの歌は、ノイズではない。それは、カオスの中の調和だ。失われた楽園の、最後の残響だ。どうか、歌い続けてほしい」
それは、リクにしては珍しく、感情的なニュアンスを帯びた言葉だった。彼自身も、なぜそんな言葉を送ったのか、完全には理解できなかった。ただ、そうせずにはいられなかった。それは、まるで彼の無意識が、メイコの無意識に、直接語りかけようとしているかのようだった。
そのメッセージが、メイコ本人に届くかどうかはわからない。しかし、リクは、それでいいと思った。彼は、ただ、自分の観測結果の一部を、その「系」にフィードバックしたに過ぎないのだから。結果として何が起きるかは、誰にも予測できない。それこそが、この世界の複雑さと面白さなのだと、彼は改めて感じていた。
5.
アヤミは、バンドの公式SNSに届いた、いくつかの奇妙なメッセージに戸惑っていた。一つは、アカリと名乗る人物からの、非常に分析的で、しかしどこか好意的な問い合わせ。もう一つは、リクと思われる匿名の人物からの、詩的で、しかし力強い応援のメッセージ。
「…メイコ、なんか、すごいメッセージ来てるんだけど…」
練習スタジオの隅で、タバコを燻らせるメイコに、アヤミは恐る恐るスマートフォンの画面を見せた。メイコは、アカリのメッセージには眉をひそめたが、リクの匿名のメッセージを読んだ時、ほんの一瞬だけ、その動きを止めた。
「…失われた楽園の、最後の残響…ね。よく言うわ」
彼女はそう言って、鼻で笑った。しかし、その瞳の奥には、今まで見られなかった種類の揺らぎが、ほんのわずかに見て取れた。それは、怒りでも、悲しみでも、嘲笑でもない、何か別の感情の萌芽だった。
アヤミは、その微細な変化を見逃さなかった。
「メイコ…この人たち、多分、ケイさんの配信を聴いてる人たちだよ。みんな、メイコの歌に、何かを感じてるんだよ」
「…だから何だって言うのよ。私の痛みが、あいつらの娯楽になってるだけじゃない」
「違うよ! きっと違う! 彼らは…彼らは、メイコの孤独に、寄り添おうとしてくれてるんじゃないかな…」
アヤミの声は、少し震えていた。彼女自身も、この状況が信じられない思いだった。たった一人の配信者の言葉が、こんなにも多くの、そして多様な人々の心を動かし、そして今、その波が、メイコという閉じた海岸線に打ち寄せようとしている。
メイコは、何も言わずに立ち上がり、ギターを手に取った。そして、今まで誰も聴いたことのない、荒々しくも、どこか切ないメロディを、唐突に掻き鳴らし始めた。それは、新しい曲の誕生の瞬間だった。その音は、まるで固く閉ざされていた何かが、内側から破裂するような、激しさと解放感を同時に孕んでいた。
アヤミは、言葉を失って、その音の奔流に聴き入っていた。今、確かに、何かが変わり始めている。それは、小さなライブハウスの、埃っぽい空気の中で生まれた、奇跡のような瞬間だった。
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