アストラルムの遺産~魔法を添えて~
しくれ
第1話 小さな一歩
慎ましくも温かい孤児院で育った一人の少女がいた。名をミルという。
くりくりとした大きな瞳と、明るく弾けるような笑顔が特徴の、天真爛漫な少女だ。年齢はまだ十代前半だろう。
世界への好奇心は人一倍強く、いつか広い世界を見てみたい、誰かの役に立つような大きなことをしてみたい、という純粋な夢を胸に抱いていた。
ミルの傍らには、いつも小さな相棒がいた。
可愛らしい手のひらサイズの妖精、マムルである。透けるような薄い羽を震わせ、きらきらと光る鱗粉を微かに撒き散らしていた。
彼女はまるでミルの分身のように寄り添っている。
少し人見知りなマムルは、知らない人の前ではすぐにミルの影に隠れてしまうが、二人には言葉以上の強い絆がある。特に歌うことが大好きなマムルの優しい歌声は、ミルの心をいつも温かく照らしてくれた。
二人は姉妹のように育ち、お互いにとってかけがえのない存在だった。
冒険者になる──それはミルにとって、世界へ踏み出すための唯一にして最大の希望だった。しかし、孤児院育ちのミルに、冒険に必要な最低限の資金があるはずもなかった。そこでミルは、街の一角にある賑やかな酒場「アール&コール」で手伝いとして働くことを決めた。
酒場は冒険者たちの憩いの場であり、仕事の斡旋所でもあるギルド出張所が併設されていた。まさに、ミルの目標達成にはうってつけの場所だった。
店主は、恰幅の良い陽気な中年男性、アール。豪快な笑い声と、客や従業員への細やかな気遣いを併せ持つ人物だ。ミルはすぐにアールにも、酒場の活気ある雰囲気にも馴染んでいった。
ホールの掃除、皿洗い、ドリンク運び、酔っ払いの相手……慣れない肉体労働は大変だったが、ミルは持ち前の明るさで乗り越えた。傍らには、こっそり料理のつまみ食いをしたり、酒場の喧騒の中でミルの髪に隠れて歌を口ずさむマムルがいる。
二人のささやかな日常が、ミルの労働を支えた。稼いだお金は、遊びに使うこともなく、全て夢を叶えるために貯め込んだ。
数ヶ月の月日が流れ、ミルの貯金は少しずつ、しかし確かに増えていった。そしてついに、冒険の第一歩を踏み出すために必要な、最低限の道具一式を揃えられる金額に達した。革のベスト、短剣、小さなリュックサック、火打ち石、簡易な地図……一つ一つを手に取るたび、ミルの胸は期待に高鳴った。
しかし、最も大きな壁が残っていた。それは、孤児院のシスター・ヨアンを説得することだった。ヨアンはミルの保護者であり、優しいが故に、危険な冒険者という道をミルが選ぶことに心を痛めていた。
「ミル、危険すぎるわ。あなたはまだ幼いし、この世界は……」
何度説明しても、ヨアンの表情は曇るばかりだった。
ミルは必死で訴えた。自分がどれだけこの世界に憧れているか、誰かの役に立ちたいと願っているか、そしてマムルと二人ならきっと大丈夫だということ。
数日にわたる真剣な話し合い、時には涙を流しながらの懇願。ミルの揺るぎない決意と、成長した姿に触れ、ヨアンはついに重い口を開いた。
「……分かったわ。でも、決して無理はしないこと。マムルと、必ず二人で無事に帰ってくるのよ。約束よ」
苦渋の決断だった。ヨアンの目にはまだ心配の色が濃く浮かんでいたが、ミルの背中を押してくれたのだ。ミルの胸には感謝と、そしてこれから始まる冒険への強い決意が満ちた。
道具一式を身にまとい、ヨアンに見送られたミルは、マムルと共に酒場「アール&コール」へ向かった。目指すは、酒場に併設されたギルド出張所だ。
木製の重厚な扉を開けると、昼間から冒険者たちの活気と喧騒が渦巻いていた。汗と酒の匂い、荒っぽい笑い声、壁に貼られた依頼書を指差す声。ミルの小さな体には、その全てが新鮮で、少しだけ圧倒される。マムルはすぐにミルの髪の中に潜り込んだ。
ギルドの受付カウンターは、酒場のカウンターのすぐ隣にあった。依頼書を貼る掲示板や、冒険者ランクを示すらしい銅版などが壁にかかっている。
恐る恐る受付の女性に声をかけ、ギルド登録をしたい旨を伝えた。手続きは意外とスムーズに進んだ。簡単な身元確認と、注意事項の説明を受け、ミルの手に一枚の小さな真鍮製プレートが渡された。それは、冒険者ギルドに正式に登録された証──冒険者バッジだった。
「おめでとう、小さな冒険者さん。あなたの活躍を期待しているよ」
受付の女性が柔らかな笑みを見せた。
バッジの冷たい感触が、ミルの指先から胸へじんわりと伝わった。ついに、冒険者になったのだ。憧れ続けた世界への扉が、今、目の前に開かれた。
ギルド登録を終え、安堵と高揚感に包まれながら、ミルはいつものように酒場のホールへと足を踏み入れた。
冒険者となったとはいえ、まずは仕事を探さなければならない。掲示板の依頼を眺めるか、それとも何か手伝えることはないかアールに声をかけるか……と考えていると、店の奥から威勢の良い声がかかった。
アールだった。いつものように豪快な笑みを浮かべている。期待と少しの緊張を胸に、ミルはアールの元へ駆け寄った。
「はい、アールさん! なにか手伝いましょうか?」
アールは大きな腕でカウンターを拭きながら、ミルの顔を見つめた。そして、ふと真面目な表情になり、少し声のトーンを落とした。
「おう、実はな、困ったことが起きててよ。俺の相棒の、あのデカいミケ猫がいなくなっちまってな……どこを探しても見当たらねえんだ。依頼を出すほどじゃねえが、誰か頼める奴はいねえかと思ってたんだよ」
アールはそう言うと、ミルの冒険者バッジに目を留めた。
「ちょうどいい! ミル、いや、新米冒険者さんよ。記念すべき最初の仕事として、俺の猫を探してきてくれねえか?」
ミルの心臓が跳ねた。
記念すべき最初の依頼。それが、自分がお世話になったアールさんの猫探しだなんて! 小さな依頼かもしれないが、ミルにとっては世界への第一歩だ。
マムルもミルの髪の中から顔を出し、期待に瞳を輝かせている。
「はい! やります! アールさんの猫、きっと見つけ出してみせます!」
ミルは迷うことなく、元気いっぱいに返事をした。アールは満足そうに頷き、その大きな手でミルの頭をわしわしと撫でた。
「おう、頼んだぜ! 特別に美味い賄いをご馳走してやるからな!」
かくして、新米冒険者ミルと相棒の妖精マムルの、記念すべき最初の冒険が幕を開けた。文字通り「小さな一歩」に過ぎなかったが、その時のミルには、目の前の猫探しという依頼が、無限の可能性を秘めた世界の入口に見えていた。
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