第14話 死神の王子様

 粘着力を失った吸盤のように、ポロリ、とミチルは岩塊から足を離した。シラベたちに向けて落下しつつ、半回転して扇をふるう。白光の巨大な虎の腕。シラベはシリウスを構えるが──。


「その剣じゃ折られる!」とユワ。


 ──えっシリウス折られちゃうの!?


 とはいえこの不安定な足場で避けることは叶わない。ユワがこう言っているということはレンリは間に合わないようだ。なら結局受けるほか無い。


「じゃあ三本だ!」変わらずシラベはシリウスに右手を添えて横に構える。シリウスの前にはマーチングバトンと抜き身の軍刀が重なって現れた。「三本束ねれば折れな――」


 顔面にぶつかったのはシリウスの刀身だ。気絶しかねないほどの衝撃。車に轢かれたならこんな気分だろう。いや、電車の方が適切かもしれない。

 浮遊する岩塊は一瞬で輪切りにされ、遅れて亀裂が奔り、粉々に砕け散る。

 爪が通った痕跡が嫌でも分かった。なにせ岩塊が消滅していたのだから——巨大なスプーンで抉り取られたように。


「ッ——!!」


 背後に隠したユワごと叩き落とされた。どこまでも続く空を超速で落下する。どこかの石版にぶつかる前にマリアが巣を構えて、先ほどと同様に二人をキャッチした、ものの――。


「うっ」


 今度のユワはシラベの下敷きだ。マリアが糸の強度に細心の注意を払えど、大きなダメージは免れない。

 すぐに縮み固まった巣の上で、シラベは慌てて体を起こす。


「ユワちゃん大丈夫!?」

「死んでは、ない……」上半身だけをぐぐぐと起こしつつ、視線は上に。「それより——も——」


 ユワはそこまでしか言わずに固まった。顔を上げたユワは何に目を留めたのか、シラベも振り返れば、そこには既に白銀の羽衣が立っている。


「えっ」シラベの額に冷や汗が浮かぶ。「早すぎない?」

「お二人がわたくしの元へ落ちて来たのです。ここはそういうステージですので」


 ふふっと楽し気に笑いながら、ミチルは扇を掲げた。伴って爪のオーラも上に動く。


 ──どうしよう。


 バトンと軍刀は現れない。彼らはもう限界らしい。今度はシリウス一人で受けるしかないが、しかしそうするとシリウスが折られて死んでしまう。

 シラベの逡巡を破ったのは飄々とした軽い気配だ。シラベとミチルの間に割って入った木枯らし。


「試してみようか」レンリはもう彼女の武器を振り始めていた。うちわで直接叩きつけようという距離。「君も落とせば降ってくるのか」


 ミチルは余裕の微笑みを称えている。


「シラベさん!」ユワの剣幕たるや尋常ではない。「レンくんを──メルヘンして!」


 ユワのこの指示は、彼女のふれどーるの能力を考慮しても、なお神憑りのものだった。極限の身体状況を押して、あるいはそれゆえに、異様なまでの明晰さがもたらされたのである。シラベは後でよくよく考えて同じ発想に辿り着いたが、その発想にたったの一秒で至ったユワに驚嘆した。

 ともかくこのときのシラベはごく単純にユワの指示に従った。

 レンリのうちわがミチルに届き──吹き飛ばすことは叶わず、触れた場所から見る見るうちに蔓と細かな花の集合と化し、肘まで飲み込んだところで──シラベの剣もレンリの胸を貫く。


「おっ──」レンリは自分の胸から飛び出した金の剣に確かに驚いた。しかしすぐに状況を察する。「──コメット、契約を破棄する。ユワを任せた」


 一陣の風がレンリのフレアクトを巻き込み取り込み渦を為し、ほうきのような尾を引く一匹の狐に変化した。溜め込んだフレが最後の花火と化して粉々に消えゆく。


「アタシのミスだ、迂闊だった」振り向くレンリの横顔は──流した目元は、儚げに笑う口元は──見る者すべてを狂わせる、天性の蠱惑。「アタシがいないからって浮気するなよ、ユワ」


 間もなく影がレンリを飲み込み咀嚼し、シラベの剣に重さが戻ってきた。足元には白百合が一輪、茎にかかった鈴がチリンと鳴る。


「レン……くん……」ユワはショックを受けつつも、しかし白百合ににわかに手を伸ばし、頬を紅潮させていた。


 シラベの額に汗が浮かんだ。


「……触るだけでメルヘンされちゃうんだ?」

「当然、神獣ですから」ミチルは扇を下ろして口元を隠し、控え目に笑っている。「触れれば火傷します」


 言いながらミチルは、今度は扇を両手で摘み、胸の前に持った。


「ではそろそろ終わらせましょうか。この必殺技で」


 ──『必殺技』!


 シラベは身構えてユワの指示を待つ。


「クソ……」と悪態をついたのはユワ。

「その反応」ミチルはニヤリと口角を上げる。「わたくしの考察は当たっていたようですね」


 シラベが振り返ればユワは苦い顔をしている。シラベの「どういうこと?」という表情を受けて、目を逸らしつつ答えた。


「未来を見ても何も起こらなかった……」その手に握った懐中時計は両の針が上を向いて重なっている。「使わされたんだ。残りの未来視三秒分、全部。もうミュゼは使えない」

「『必殺技を使う』だなんて言われたら、それがどういうものかと確認せざるを得ないでしょう? けれどわたくしのこのフレアクトにこの期に及んで必殺技なんてありません。ちょっと違う扇の持ち方をしただけ」ミチルはくすくすと小さく、しかし意地悪く笑う。「この手の能力には限界がありますからね。これでユワさんのふれどーるは攻略したということで」


 シラベはユワがまだ三秒も残していたことに驚いたし、それを最小限の仕掛けで攻略してみせたミチルにも感心した。


 ──ん? あれ。


 ふと気づく。


 ──私たち、これ、勝ち目ある?





 八方無辺の白い空間にやってくる。左手には閻魔帳の無地のページ。

 閻魔帳の副次効果だ。白紙のページを選べば、刹那に思考の猶予を生み出せる。


「預かってきたふれどーるはもうウスバネ、メジャー、リンドウが脱落しちゃった。あとはヴィクトリアとケサラン、それにマリアしかいない……」


 言えば気配が現れる。右の方を見れば、カゲロウ、くるみ割り人形、軍帽の猫がそれぞれ白旗の元に集っていた。更に正確に言うならば、白旗は二人掛けソファの背に取って付けたように簡単な形でひっついており、三体は向かって左手の手すりに持たれる形でぐったりとしている。


「あれ?」


 そして、向かって右側の手すりに頭を預けて横になっていたのが、異様な長さのストレートヘアー、赤髪の女の子である。お腹の上にハーモニカを咥えた山羊が座っている。


「カズラちゃんだ!」シラベはわっと子犬のように駆け寄った。

「ん? ……もしかして本物のシラベさんですか?」


 かわいらしいピンクのネグリジェ。アイマスクを外しつつ体を起こしたのは、かつてシラベに牙を剥いた悪魔の笛吹き——ナノコリ・カズラである。髪はヘアバンドで留めておでこが艶やか。


「お久しぶりです」相変わらず行儀良く座る。「実に五千年ぶりですね」

「五千年?」シラベはきょとんと首をかしげた。「二週間ぶりくらいじゃない?」

「あ、分かってないんですね?」カズラはどうぞどうぞと手を差し伸べた。示す先にはソファが現れる。「例えばそうですね。シラベさんはフブさんに懲役一万年を宣告したと思います」

「あ、それは分かるよ」シラベが席に着けば、白地の世界はいつかのカフェに変貌した。流れているのは軽いジャズ、コーヒー豆の匂い。閻魔帳が二人の記憶から再現した光景である。「私が直接判決したね、フブちゃんは煉獄形一万年! って」


 風景は外なのにカズラはまだ部屋着なので、シラベは不思議な気分になった。


「このシミュレーションの中の時間の速さはその規模感に沿うんです。外に比べて凄く早いんですね。浦島太郎をイメージしてください」

「ふーむ?」腕を組んで頭を捻る。とりあえずここではそれだけの時間が経過しているらしい。「じゃあカズラちゃんは、それに付き合わされてるってこと? それで五千年?」シラベはぞっと血の気が引いた。「えっごめん……」

「そこで謝る人なのに一万年だなんて数字を言い渡せるんですね……」カズラは苦笑する。「えっと、実は自分の刑務さえ終えているなら、この時間の流れは体感しなくていいんです。もうボクが意識を保つ必要はありません、ボクがそれを拒まない限り」

「じゃあカズラちゃんはあえて残ってるってこと?」


「そういうことですね」カズラは人に微笑みかけるとき、首を少し傾ける。いつもならツインテールが揺れているところ。「今の煉獄には人がたくさんいて賑やかですから、獄卒さんに混じってボクも囚人の相手をやってます。バイトみたいなものです」

「獄卒なんているんだ、私のフレアクト」

「シラベさんの姿をしていますよ。いっぱい居ます」

「いっぱい居るんだ……」シラベは見てみたい/見たくないという二つの気持ちを同時に抱いた。


 地獄に人がいる、というのはレンリのことだろうか。

 レンリに関してはシラベが直接判決を下した記憶がないのだが、フブの判例を基に勝手に処理されたような感覚はある。三人殺したのだから懲役三万年を基準として、後はシラベの深層心理が温情をかけるかどうかといったところ。そこの部分がどうなったかはシラベ本人にもいまいち分からない。

 カズラにはレンリが苦しむところを見て溜飲を下げたい、みたいな意図があるのだろう。納得はできるが、何千年も粘るのは流石に、相当な執念だ。


「本題は?」

「あ、そうだ。そうそう。ミチルちゃんがすっごい強くて」


 シラベはかくかくしかじか説明した。

 六体いたはずのふれどーるはもう三体がリタイア。

 ふれどーるを残していったとはいえレンリも退場。

 シラベを二回は救ったユワの時間操作も枯らされた。


「なるほど」


 カズラは頷いた。


「これはもう正攻法は無理筋に見えますね」

「無理じゃない筋はある?」

「はい」膝に肘を着いて手を組んで微笑む。カフェなのもあって、なんらか契約を進めようという営業マンのようだ。「盤外からの精神攻撃で隙を作りましょう」

「そんな笑顔でなんてことを言うのカズラちゃん」

「その閻魔帳にミチルさんのページがあれば楽なんですけど、どうですか?」


 言われた通りに名簿を見たが、ミチルの名前は無い。


「だめだ。フレアクトを食べただけじゃ、記憶は読めないみたい」

「となるとやはり聞いてみるしかありませんかね」

「何を? 誰に?」


 カズラは小さなため息を一つついた。


「それは当然、ボクらのクラスで一番の策謀家に」

「ユワちゃんのこと?」


 カズラは返事をせず、ただ視線を横に流した。ユワに思うところがあるのは当然だろう。ゆえのため息。しかしその実力は認めている。


「でもユワちゃんに策があるかなあ。もう手詰まりって感じだったけどな」

「でも、ミチルさんを近い距離で見て来たのはシラベさんとユワさんの他にいません。あなた方にできないならば、誰にもできはしませんね」

「分かった。聞いてみる」


 カズラは横の方、少し遠くを見た。


「一つ、覚えておいてください、シラベさん」


 髪を下ろしたカズラは可愛い全開という感じではなく、どこか無垢な、清楚なオーラを纏った美少女だった。


「あなたの創り上げたこの世界は、最も残酷な幻想であり、そして、最も慈悲深い幻想です」


 色を失い、輪郭を失い、白紙のページに戻り、それすら燃え去って。

 皮膚が剥がれ、脂が弾け、筋が硬く縮み、肉が尽き、骨が灰となる。

 その一瞬が最後の慰めだ。

 身体を失い、思念だけとなっても、消滅という終わりは迎えられない。

 熱と、苦痛と、長い、永い時間だけがここにある。


「シラベさん、シリウスさん。あなたたちの所業はあくまで施しなのですから」


 纏い、背負い、引き摺ってきたもの。嘘、罪、後悔。

 あまねく余分は浄化され、生まれたままの姿に返す。

 それ以外に、人の望むものはない。

 ゆえにこれは疑いようのない善行である。


「いかに悪辣に見える手段であっても、躊躇は要りませんよ」





 ミチルを前にしつつ、シラベは後ろのユワに声をかけた。


「ユワちゃん、何か作戦を考えて」


 ユワは「えっ」と間抜けな声を漏らす。自分が何かしなければならないとは思っていなかったらしい。


 —―この子、状況に置いてかれるとずっと置いてかれちゃうんだな……!


 ミチルは構わず扇を横に広げた。


「悠長に考える暇があるとでも?」


 爪が振り抜かれ、また世界が抉り取られた。直前にシラベとユワを吹き飛ばしたのは、天翔ける彗星の狐だ。二人は間一髪でミチルから距離を取る。


「無駄ですわよ」声はどこからか。「どうせわたくしの元へ戻ってくる」


 一面の水色とそれに浮かぶ岩塊がひゅんひゅんと流れゆく、そんな視界の中でもまだ像を結んでいるのは、シラベの隣を飛んでいるユワだけだ。正面からの強風にひゃーっと目を強くつむっている。


「ほらユワちゃん!? ユワちゃんユワちゃんユワちゃん!!」シラベはユワの右手をぶんっと思いきり取った。

「なになになに!?」ユワはもうてんやわんや。「振らないで、痛いからぁ!」

「だから言ってるじゃん! ユワちゃんが何も思いつかないと負けちゃうんだって!」

「な、何を思いつくって──」

「なんでもいいよ、なんでもいい! 気になったこととか思いついたこととかない!?」

「えっ、えっ」


 前方遠くにまたミチルの立つ岩塊が見えてくる。右に飛んで左から戻ってきたような形。


「ほら考える! 考えるのユワちゃん!」

「考える──気になったこと──」


 大きく見えてきたミチルの足元には狐の影が倒れている。ミチルの爪を受けてしまったらしい。もう動けなさそうだ。


「ユワ……確かに、何か。どこかで、違和感……」


 おや、とシラベは気づいた。これまであの狐のふれどーる──コメットの高速移動を行ってきたときは、柔らかな風がクッションのように受け止めてくれていた。しかし今はそうはいかない。このスピードのまま岩塊にぶつかったらシラベはともかく、ユワは今度こそ死んでしまうのではないだろうか。


「えっとえっと、どうしよう! ケセランいける!?」


 綿雲がポンポンっと二人の進路上にいくつか現れた。もふんもふんと貫通しつつも、なんとか勢いを殺して、浮かぶ石舞台に不格好ながらも転がり込む。


「おかえりなさい、シラベちゃん」


 果たして、たったの十秒そこらで、二人はミチルの目の前まで戻ってきたのである。綿まみれになったシラベとユワをミチルはニコニコで見下ろしていた。その扇は右に大きく広げられている。もうミチルの気分次第でいつでもシラベたちを殺せる、そんな立ち姿。


「今回は、わたくしの勝ち、です」


 シラベは一縷の望みをかけてユワに目をやった。しかしユワは申し訳なさそうに目を逸らす。


「ごめん、シラベさん……。ユワ、何の作戦も思いつかなくて……」ユワはもうフラフラで、立っているのもやっとといった様子。「ミチルさんは『火を見るのが苦手』なんじゃないかな、とは思うんだけど……これは憶測に過ぎないし……」


 ──え?


 閃きが電撃のイメージで語られる理由を、シラベは理解した。


 —―火が、苦手?


 思い返してみれば確かに、学生寮で火事が起こったとき、ミチルは寮の向かいの林の方をじっと見つめていた。あれはレンリの動機などについて深く考えこんでいたのかと勘違いしたが──実際のところ、そう思わせたいところもミチルにはあったのかもしれない──燃え盛る炎を目にしたくなかっただけとも捉えられる。

 点と点が繋がるのは結果ありきな思考だろうか。否、そもそもそんな可能性は青天の霹靂。そうと思えば、彼女たちの発言を全て同一人物のものと考えて矛盾は全くない。むしろそう考えないほうがおかしいまである。

 毎日毎日、一日中フレアクトしていたというならば、戦闘しなかったとしてもかなりの疲弊があるはず。ゆえに休息を求めたのかもしれない。だからこそあんな場所で出会ったのだろう。


 火を見るのが苦手。そんなトラウマができる理由はいくつもない。

 私は。

 ミチルちゃんの素顔を見たことがない。

 そして。

 見たことがある。

 なら、知っている

 ミチルちゃんは酷い火事に遭ったことがある。


「マリア、ケセラン」


 瞬く間に蜘蛛の糸が縦横無尽に張り巡らされ、その隙間も軽い綿が埋め尽くした。


「シリウス」


 糸を伝い綿に猛る。爆発を早回ししたかと思うほど。

 まるで巨獣が大口を開けて一息に飲み込んだように。

 一瞬で焼き消えたが、しかし、確かに一時だけでも。

 ミチルの視界は、炎で、埋め尽くされた。


「──」


 頬の筋肉が強張って、唇が一の字に結ばれる。

 肌に当てられたのは炎熱だったはずなのに、ミチルの表情は凍てついた。

 剣の先端をミチルの足元へ伸ばせば、影が繋がり流れ込む。


「いい顔だ」


 シラベは、体の芯から熱がせり上がってくるのを、はっきりと感じていた。口角が吊り上がり、瞳孔が開いて光が差し込む。

 キラキラと。

 いま、このとき。この瞬間。

 ミチルちゃんよりも私の方が──上だ!


「炎が怖いんだ? 可愛いねぇ」ニヤリとして覗き込む。「せ、ん、ぱ、い?」


 ミチルは張り付けたような顔のまま、自分の左の頬に手を当てた。

 メルヘンの下に隠した火傷痕に、ついつい、手を当ててしまった。


「……〝アンコール〟」


 シラベは私ってこんなに性格が悪かったんだ、と思いつつ、でも仕方ないよね、だってミチルちゃんがこんなに可愛いんだから、と雑に肯定した。

 ミチルは目を見開いたままに、次の宝玉を扇の一振りで叩き砕く。

 南の赤。


「〝翼と尾でもって〟」





 牡丹、芍薬、蓮華。

 赤い花々が咲き誇り、水色の風に花弁を巻き上げている。緑の敷かれた浮島に虹の橋がかかり、兎や馬が泉に口を付ける。

 生命の楽園。


「怖い、ですって?」


 薄紅色の羽衣を撫ぜたのは、小魚の群れのように舞う紅蓮の花弁だ。

 揺らめく翼は火の玉の群れのように実体が無く。

 ポニーテールは七彩の光を湛えて長く伸びる──孔雀の尾のように。


「わたくしが──炎が苦手? ふふっ……」


 ミチルは鼻で笑った。馬鹿馬鹿しくて仕方ない、といった様子──。


「そんなもの!!」


 ミチルの感情の針は一気に揺れ動いた。怒気の篭った顔で、声で、扇を振り抜き、火の粉の小鳥を撒き散らす。


「とっくの昔に克服していますわ!!」


 シラベを見据えるその目には、もうかつての余裕はない。


「そちらがそんな手に出ると言うならば、こちらももう手段は選びません。覚悟なさい、マホロバ・シラベ」

「何を言ってるの? ミチルちゃん。私は最初から容赦なんてしてないのに」


 湧き上がった。地獄の底から。裂け目から。

 黒炎が。


「それともまさか、私に手加減できるだなんて勘違いしてたの?」


 黄金の雲を焼き、七色の橋を侵し、火の小鳥たちが無数の虫のような影に──否、遂にその輪郭を鮮明にした、黒鱗赤瞳の蛇によって──掴み、絡み取り、飲み込まれた。生命を祝う歌が消え、代わりにごうごうと燃え盛る。


「不遜だね、敬いなよ。私は地獄の審判なんだから」


 全能感が拡張されていく。

 私こそが法にして律。秩序にして意志。


「……メルヘンが展開できてる!」ユワは彼女の足元に広がっている真っ暗闇と、底の無い獄炎を見下ろした。「力量差を覆すくらいメンタルに効いたってこと……!?」


 禍々しく冒涜的な、死の色よりも暗い黒。

 シラベは振り返ってその光景を目の当たりにした。一面に広がり行く黒炎の海と、それに追われ、逃れ、しかし飲まれる生命の息吹を。

 生き物が焼け死ぬときの音は、無生物が燃えるときのパチパチ、という軽いものではない。もっと湿っている。甘く、微かで、儚い、断末魔。

 そして沈黙する。

 時が止まったような、無限を思わせる。

 白い灰だけを残した。

 静謐と化すのだ。


 ──あっ。


 シラベは自分のメルヘンを理解した。

 シラベ本人も認識していなかった深層の願いを、シリウスは確かに汲み上げていた。


 ──そっか。私って、こういうのが好きだったんだ。


 彼女の花は、本来、焼くためにあったのだ。

 故人へ捧げる最期の手向けに。


「ほら見て」


 シラベが夢見心地に語りかけたのは──白い石棺で永遠の時間に思いを馳せる、貧乏で、勉強もできない、家から追い出されて寒さに凍え、小さく蹲っている—―小さな女の子。


「こんなに綺麗」

「え……?」傍にいたユワは自分に話しかけられたのかと困惑を示す。「これが、綺麗?」


 シラベの背後に勢いを持って飛来し、扇を振り付けようとしたミチルは、しかしそこに細く煌めく蜘蛛の巣に引っかかった。


「──!?」


 マリアの巣の上端が繋がっているのは頭上に走る汽車のレールだ。宙を走ってレールを引くのはゴテゴテしい機関車である。汽笛を鳴らし蒸気を残し、走る彼女の名はヴィクトリア。

 シラベが振り返ると同時に、黒炎が蜘蛛の巣を瞬く間になぞり、ミチルの羽衣を焼き焦がした。


「くっ──」


 続けてつま先を向ければ、伸びる影が蛇の群れを伴って──後から後から覆い被さり──怒涛の勢いで襲い掛かった。ミチルは飛翔して回避する。

 見下ろすミチルがごくりと喉を動かすのを、シラベは見逃さなかった。

 恐れている。警戒して、脅威に思っている。

 自分の勝利を疑っている。

 その隙の分だけシラベの領域は広がっていく。


 空いた左手をミチルに向ければ、機関車が変じてピストルが握られた。歯車が回り、蒸気を吐き出し──引き金を引けば銃弾が発射される。


『バシュッ──』


 ミチルは扇で受けるも、これはメルヘンの弾丸。貫通は叶わずともきちんと運動を伝えて弾かせるくらいならできる。


「そのフレアクトも、無理して使ってるよね」


 弾丸はミチルの頭上に跳ねた。ミチルに影を落とし──。


「救ってあげる」


 その一点から無数の黒と、幾匹もの蛇が湧き出た。ぞわぞわと溢れに溢れ、瞬く間にミチルの左の翼を飲み込む。


「──!?」


 ミチルは驚いたままに地面に落下した。とはいえこの翼は実体のない炎、簡単に切り捨てられる。しかし未だに蛇の群れは蠢いて、もうそこにない翼を食らおうとしていた。

 ミチルのゾッとする横顔を、シラベは見た。


「無駄な抵抗だね」


 やれやれと肩をすくめて言えば、ミチルの伏せたまつ毛の奥から、金の瞳がゆっくりと覗く。


「どうせ結局は私の地獄に落ちるんだから」

「……楽しみにしていますわ」強がりを見せたのはミチルの方。「貴方に身を委ねるそのときを」


 ミチルは扇を口元に横に持って、ふっと軽く一つ吹いた。虹色の風、彩色の炎、小さな翼と尾が生えた火の玉が、たんぽぽの種を散らすようにして何十も何百にも分かれ、加速し、襲い掛かる。

 シラベが剣を突き立てれば、黒影が足元から吹き上がる。間欠泉のように吹き出した影は、どろどろ、うじゃうじゃとうねる蛇の造型でもって火の玉の小鳥を食い墜とし、落ちるころにはそれぞれの輪郭を溶かして、黒い水をバケツで落としたように、しぶきをあげて地面に染み込んだ。


 シラベは頬に伝った黒い影を指で拭う。指に移った黒はすぐに焼け消える。

 傾いた小さな王冠は、その未熟さゆえに規格も限界も定まっていない。

 猛る炎、白い灰、黒い影を操り。

 身勝手に、無邪気に、平等に、沈黙を齎す。

 死神の王子様。


「主人公ですって?」ミチルは苦笑した。「というよりは、むしろ……」

「ん……あれ」シラベはミチルの様子をうかがう。「もしかしてミチルちゃん、もう調子が戻っちゃった?」

「はい」


 扇を振れば虹が差し、シラベが広げていた影は足元まで押し込まれた。焼かれたはずの草花と生命が戻ってくる。


「そっか……ここまでかー!」シラベは額に手を当てて天を仰いだ。悔しさからくうーっと声が出る。「もう一回くらいは倒せそうだったんだけどな」

「挑戦ならいつでも受け付けますわ」ミチルはクスクスと笑う。


 二人が見るユワは、彼女のミュゼから受け取ったアンモナイトの形をしたフレを、右手で砕いたところ。


「好きにすればいいけど……ユワをメルヘンしてからにしてよね」


 最後にユワが溜息とともにそれを口にして。

 一年五組の新入生選抜試験は幕を閉じた。


「〝アクション〟」


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