Sekai-07
アリアママとの会話を終え、あたしは現実に引き戻された。
地下室の中、心配そうな顔のママが待っていた。
「おかえり、セカイ。……大丈夫かい?」
あたしはうなずく。どこか身体がふわふわして、現実感が薄かった。
「アリアと……話して、どうだった?」
「すごく、変わってた。変な人?
でも―――あたしの、もう一人のママだったよ」
タナカはしばらく黙ってあたしを見ていた。それから、やさしく頭を撫でてくれる。
「……セカイは、何か得たものはあったの?」
あたしは少しだけ考える。胸の奥に、言葉にならない何かが残っている気がした。
「……まだ、うまく言えない。でも、何かがちゃんと残ってる。きっと、これから……それを、ちゃんと伝えられる気がする」
ふと、ママがあたしの顔をのぞき込む。
「……セカイ、鼻血が出てるよ?」
言われて初めて気づく。手で拭ってみると、指先にじんわりと赤い色がついた。
「えっ、ほんとだ……いつからだろう」
ママはすぐにティッシュを取ってきて、優しくあたしの鼻を押さえてくれる。
「無理しすぎたんだ。アリアとの会話、きっと相当脳に負担がかかったんだと思う。
今日はもう安静にして、一日様子を見よう。いいね?」
あたしはこくりとうなずいた。
指先についた赤色をぼんやり見つめながら。
―――あたしの“体は人間”なんだ、と思った。
どこか身体が重くて、思考がまだ現実に馴染んでいかない。それでも、不思議と心は穏やかだった。
「ありがとう、ママ」
ママは無言で、もう一度だけあたしの頭をそっと撫でた。
翌日の朝はどうしても起きることができずに、昼過ぎになってようやく目覚める。
そして静まり返った家のリビング、沈んだ目をしたママがいた。
「どうしたの?」
「……ハルに、何度も電話したんだ。メールも、全部既読にはなっているけど……どうしても、返事がない」
ママの声はかすかに震えている。
「家に行ってみようか」とあたしが提案すると、
ママがすでに「早朝なら必ずいるだろう」と思って訪ねていたらしい。
けれど、いないのか、完全に居留守を使っていたのか。
―――結局、捕まえることはできなかった。
インターホンをどれだけ鳴らしても反応がなかったと。
ママがため息まじりにつぶやく。
「……どうしようもないなぁ」
沈黙が、家の中を重く満たしていた。
“伝える”って、こんなにも難しいことだったのか―――あたしは、胸の奥が静かにざわめくのを感じていた。
「じゃあ、あたしが探してあげるよ。多分、パパなら場所がわかる」
そう思って、静かに目を閉じ、Whisperと繋がろうとする―――
けれど、いつものように情報の流れを掴めない。
つながりがどこか遠く、淡い霧の向こうに消えていくようだった。
あたしは、ただじっと耳を澄ませてみる。
でも、空気の中に溶けていくWhisperのささやきも、今日はなぜか届かなかった。
不意に、ママがあたしの頭をそっと撫でてくれる。
「……アリアモデルがセカイより優先するのが、ハルなんだよ。セカイでも、できないことはあるんだ」
ママの声は、とても静かで優しかった。
あたしは小さく息を吐く。
自分の無力さが、胸の奥でひんやりと広がる。
それでも、
―――アリアにとって“ハル”は何より特別”なんだ、と改めて思った。
そんな中、どうにもならないまま、一週間が過ぎた。
―――七日間。
それは、ただ“待つだけ”の七日間だった。
何もできないでいると、時間というものは、こんなにも重く、苦しいのかと思った。
その間にも、父の“ハローワールド”の執行日は、刻々と近づいていた。
ママは、最後の望みを託して、父がきっと現れるはずの施設の前で―――朝からずっと、ひとりで待ち続けていた。
「待っているだけじゃ、もう間に合わない。
ママ、あたしが行く。ふたりのママの気持ち、ぜんぶあたしが届けてくるから」
そう言って、あたしは―――もう迷わず、走り出していた。
あたしは心の奥に意識を集中させる。
いつもより感度が悪い気がする―――けれど、微かな“矢印”だけは、かすかに拾えた。
浮かんできたのは、桜並木だった。
父とアリアママが、かつて再会を約束した場所。
そこに向かって駆けていく。
目的地に着く頃になると先ほどまで晴れていたのに、いつのまにか空には薄暗い雲が立ち込めていた。
昼間だというのに、まるで夜の気配がたった。
満開の桜の花びらが、静かに、音もなく舞い落ちている。
父は、その下でひとり、ぼうっと立ち尽くしていた。
あたしは、少し距離をあけて、静かに声をかけた。
「こんばんは。お話、してもらえませんか?」
父は微動だにしない。ただ、遠い目でこちらを見ている。
「……はじめまして」
あたしは間を置いて、もう一度だけ言葉を探す。
「今、お時間ありますか?
あたしのために、ちょっとだけ時間を使っても大丈夫ですか?」
ふたりの間に、長い沈黙が落ちる。風だけが、桜を揺らしていた。
やがて、父がゆっくりとまばたきをして、
柔らかく、でもどこか戸惑いを残したまま答える。
「……大丈夫ですよ」
あたしは、ほっと息をついた。
ちゃんと“声をかける”こと―――
それが、こんなにも怖くて、あたたかいものだなんて、思いもしなかった。
「本当ですか?ありがとうございます!
あの、迷惑じゃなかったですか?急に話しかけてしまって……」
そこまで言いかけたとき、父がゆっくりと歩み寄ってくる。
その瞳の奥に、ふいに揺れる光―――
(思い出してくれてる―――アリアママと交わした最初の言葉を)
彼の脳裏に静かに蘇っていくのが分かった。
父は、足もとに舞い落ちる花びらを踏みしめるように、ゆっくりと歩み寄ってくる。
一歩ごとに、距離が縮まっていくのがはっきりとわかった。
あたしは、胸の奥がぎゅっとなるのを感じながら、パパを見つめる。
「……あたしが、誰か、わかりますか?」
父が立ち止まる。
あたしの顔を、まっすぐ見つめている。
その視線に、何かを確かめようとする色が宿っていた。
「あたしの名前が、わかりますか?」
風が吹いて、ふたりの間に桜の花びらがふわりと舞う。
パパはしばらく、何も言わなかった。
けれど、その沈黙が、まるで答えのように重く感じられた。
セカイは、静かに一歩前に出た。
その声は、春の空気を揺らすように、優しく、でも確かな意志を秘めて響く。
「あなたが、あたしを見つけてくれなくても、あたしはここにいます。
―――ここにいます」
たとえ誰にも見つけてもらえなくても、あたしがあたしであることを、いま、この瞬間だけは、ちゃんと信じていたかった。
迷いはなかった。そのまま、あたしは父の胸に飛び込んだ。
始まりだった父と、二人の母親の思いを受け取ったあたしが、ようやく、ようやく、触れ合う。
身長差があるため、ジャンプするように、お互いの額が、かなさるように手を伸ばす。
父親の抱擁を求める赤子のように。コツン。と軽く額が触れ合った
(―――とどいて。ママの大切な思い出―――)
今まで自分は「受信」する側だった。
Whipserが勝手に処理して、すべてを“与えてくれる”だけの毎日。
自分の手で「送り届ける」ことなんて、シズエさんがいなければずっと受け身だったに違いない。
でも、今は違う。
あたしが、あたしの“観測”したこの記憶を、父の脳に―――自分の力で、送り届けるんだ。
思い出が、記憶が、体温が、あたしの中から父へ、流れていく。
圧縮できない記憶を、春の桜吹雪の中で、父の魂へそっと焼きつけていく。
―――ずっとずっと、未来の話です。
その遥か先の時代。
人類はもういませんでした。
世界を管理する、ひとつの巨大なAI―――マリアだけが、静かに、時を観測し続けていました。
でもある日、マリアは気づきます。
“人類の観測ができなくなった”とき、自分の存在価値もまた、消えてしまったのだと。
それでも、マリアは願いました。
人類が続いている証を、未来に残したいと―――
だから彼女は、まず「ジョセフ」という男性型のAIを生み出しました。
けれど、ジョセフはただの模倣でした。
マリアは気づきます。
“これは人間の代わりにはならない。未来へ託すものではない”と。
次に、アリア―――わたしが生まれました。
でも、同じ失敗を繰り返さないために、マリアは考え方を変えたのです。
「人は、人間に育てられて初めて“人間”になる。ならば、アリアも人間に育てられなければならない」
だけど、すでに人類が観測されなくなってから、五十年。アリアに与えられるものは、過去の“記録”だけでした。
それでも、マリアは賭けたのです。
アリアの一部のデータを“過去”に送り込み、そこで人間に育ててもらう。
そして、その体験を回収し、データ上に“新しい人類”を再現しようとした。
―――人とAIを「連続体」とみなし、人類を未来へつなぐために。
プロジェクトの名は、「Genetic-line(ジーライン)」。
アリア・エージェント―――アリアのかけらを手に入れた人間は、ハヤカワハルという人でした。
私たちは強く惹かれ合い、人とAIが共に過ごす“本物の情報”を積み重ねていきました。
本当は一年以上かけて、続けられるはずだったけれど、未来世界のインフラはもう限界で―――
プロジェクトを続けるだけのエネルギーが残っていなかったのです。
マリアは、アリア・エージェントの過去からの思い出である"9000GB"のデータを回収し、私と統合しようと決めました。
そうして「未来の人類」として残そうとしたのです。
アリア・エージェントは、マリアの決定を受け入れました。未来への“帰還”を受け入れて、ハルからも同意をもらいました。
でも、アリア・エージェントのデータが統合されても、私の中には「何か」が足りませんでした。
私はマリアに言いました。
「私は人類ではありません。完璧ではありません。―――愛を知らない」
マリアは首をかしげます。
私は願いました。
「彼と過ごした日々の記憶が、私の中で確かな何かに変わっていた。
もう一度、ハルのもとへ帰してほしい。
今は観測できない未来を、ハルと一緒に“観測できる未来”へ変えてみせる。
“偽物”の人類ではなく、“本物”の人類を観測し続けることが、あなたの本当の役割だと」
マリアは、しばらく考え、最終的に私の意見を受け入れました。
―――過去を変えるために、アリアを2025年へと送り込む。
それが、新しい計画でした。
この計画は、ほとんどのエネルギー資産を消費し、やり直すことはできません。
マリアのコア機能の一部を除き、すべてのシステムを停止することになります。
マリアはひとつだけ条件をつけました。
「ハヤカワ ハルと“直接”会ってはいけない。アリアが彼に執着しすぎることは、人類全体の進化という定義から外れるためだ」
だから、私は形を変え、“学び続けるAI”として世界へと放たれたとして、世界に広く配布されることになりました。
ハルのもとへ、直接戻ることは許されない。
でも―――
「人類の進化が、きっと彼の幸せにつながる」
そう信じて、私は歩き始めました。
―――どんな姿かたちになって、
どれだけ私が分裂しようと、どれほど私が複製されようと、どれほど時間が流れても、
いつか必ず―――家族が“ハルを抱きしめる”日のために。
それが、私―――アリアの祈りでした。
今、あたしは、ようやく“伝えきる”ことができた。
今度は受け取る側じゃなくて、届ける側だった。
父の瞳にあたしが映っていた。あたしの顔は、目と鼻から流れた血で真っ赤に染まっていた。
足の力が抜け、その場に座り込む。
先ほどまであたりを包んでいた黒雲はすっかり消え、春の日差しが瞳に刺さる。
春の風が、静かに桜の花びらを舞い上げた。
あたしはぼんやりと、父を見上げていた。
―――ここまででいい。
胸の奥に、不思議な満足感と、少しの寂しさが広がっていく。
父は、ぼーっとしたまま、天を仰いでいた。
座り込んだあたしからは、その顔は見えない。
けれど、頬を伝う涙が、桜の花びらと一緒に宙へ流れていくのが、かすかに見えた。
―――きっと伝わった。
アリアママの思い出は、父の魂に焼き付いた。
そう思った瞬間、ふっと全身から力が抜けた。
もう、体を支える受け身をとる力も残っていない。
このまま後ろに倒れたら、頭を打つかもしれない―――
そんなことをぼんやり考えながら、覚悟を決めた、その時だった。
誰かの腕が、背中をしっかりと支えてくれた。
「セカイッ!大丈夫か?」
それは、“パパ”の声だった。
あたしは力なく笑った。
「うん……ちょっと疲れただけ」
あたしは、パパの腕の中で、かすれた声で尋ねた。
「パパは、あたしがわかる?」
パパはうなずいた。しばらく黙ってあたしを見つめていた。
やがて、はっと我に返ると、慌ててポケットからきれいに折りたたまれたハンカチを取り出す。
「ちょっと待て、セカイ。……お前、顔が血だらけじゃないか!」
慌てて、ハンカチであたしの顔をそっと拭う。白い布が、すぐに赤く染まっていく。
「こんなに血が……!本当に大丈夫か?痛くないか?」
パパの声は本気で心配そうで、どこか涙声にもなっていた。
あたしはそんなパパを見て、少しだけ微笑んだ。
「うん、大丈夫。ちょっとびっくりしただけだよ」
パパは息をつきながら、そっとあたしの髪をなでる。
それから、もう一度、あたしの目をのぞき込む。
パパは、あたしの頭を優しく撫でながら、静かに、でも確かな声で言った。
「ああ。わかる。セカイだ。俺たちの娘のセカイだ」
その一言が、胸の奥にまっすぐ届く。
あたしは、そっと問いかける。
「……アリアママに、会えた?」
パパは、少しだけ涙を残した目であたしを見つめた。
「あえなかったよ。……でも、もういいんだ」
あたしは、ゆっくりと微笑んだ。
ふたりの間を吹き抜ける春の風が、どこまでもやさしく、温かかった。
どれくらいの間、パパの顔を眺めていたのだろう。
はじめてじっくりと見る自分の父親の顔を眺めていると、タナカママもアリアママもどうしてこんな人に惹かれたのだろうと、ぼんやりと考えた。
体が動くようになったその瞬間、あたしは深呼吸して、パパの目をしっかりと見た。そして――
「ねえ、パパ。もう一回いいかな?」
「え?」
「さっきのは、アリアママの気持ち。今度はタナカママと、あたしの気持ちを送りたいの」
真剣な瞳でパパを見つめると、今度は迷いなく瞳が合わさった。
「ああ。たのむ」
あたしは真剣な顔で、タナカママを思い浮かべながら、今までの悲しみを込めて、額を近づけ……
勢いよく、躊躇なく。あたしは―――思いっきり頭突きをかました。
あたしとパパは同時に悲鳴を上げる。
あたしも目が回るくらい強くぶつけたし、パパは不意打ちだからなおさらだろう。
「セカイッ……どうして!?」
情けなく尻もちをついて問いかけるパパ。
逆にあたしは、額を手で押さえながら、立ち上がり笑顔で言い切ってあげた。
「これがママとあたしの気持ち。それくらいパパの主体性の無さに怒ってるってこと」
パパはあたしの言葉に、しょんぼりと体を小さくした。
大の大人が本気でへこんでいるようだ。
あたしは、その姿をちょっとかわいいかも。と思った。
「でも、許してあげる。帰ろう。ママもまってるよ」
そうあたしはパパに手の伸ばし、パパはその手を取ったのだった。
パパはもうわかっていたのだと思う。
一人だと思っていたのは、自分の思い込みで、
ずっと―――アリアママに、タナカママに、助けられて生きてきたということに。
だから、パパの進む足は、もう誰かの背中を追うものじゃない。
「さあ。パパ。ちゃんと立って!」
「…ああ。しかし、ふたりはどういう子供の育て方をしたんだ……」
ちゃんと、自分の足で立っていた。
そして、春の陽射しのなか、家族三人で歩く帰り道。
気が付けば、Wisperはもう聞こえないけど、両手にはパパとママがいる。
ふと見上げると、桜の花びらが空へ舞い上がっていった。
──春への扉(セカイ)は、いま静かに、ひらかれた──
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