Tanaka-Epilogue

2025年10月23日、大安。

霜降の暦にあたる、秋の深まりを感じさせる一日。

私たちは市役所へ行き、静かに婚姻届を提出した。


手続きはあっけないほど簡単だった。

窓口の女性が、慣れた手つきで書類を確認し、「おめでとうございます」と小さく微笑む。


私たちの人生は、こんなふうに始まっていくのだ。

大げさな祝福も、派手な演出もない。

それでも、胸の奥からじんわりと湧いてくる幸福感に、私はこの上ない満足を覚えていた。


母に報告すると、案の定ニコニコしながら、「そうだと思ったわ」と、相変わらずの謎発言をいただいた。


「だって、あんたねえ。

ずっと“ハルが来ない”って顔してたもの。

これでようやく、扉が開いたわね」


母のその言葉に、私は苦笑するしかなかった。

―――親というのは、どうしてこうも何でも見透かしているのだろう。

そう思いながら、どこか安心もしていた。


ふたりの結婚式は、行わないことにした。

そもそも私もハルも、友人が少ない。

「お披露目」なんて柄でもないし、なにより、三十五にもなって白無垢やドレスを着る勇気はなかった。


「式はいいよな?」と私が聞くと、ハルは「タナカの花嫁衣裳は見てみたかったけどな」と、少しだけ笑った。


結婚を機に、私はNGCPプロジェクトから外れることになった。

半年間、命を削るように取り組んだプロジェクトだったが、未練はなかった。


田所さんや小林は「リモートでなら続けられるだろ?」と何度も食い下がったが、

私はきっぱりと断った。



ハルは、新しい仕事を探し始めた。

かつての職場には戻らず、地元の中小企業で、昔取った杵柄を活かしながら、地道に“生きる道”を選んだ。


私は地元の数少ない友人たちに、ようやく結婚したの? とからかわれた。

「あんたら、十年遅いのよ」と。


そのたびに私は、“人生は何歳からだって、もう一度始められる”

―――そんな言葉を、心の中でそっと繰り返していた。


今は、新居を探している。

子供が生まれてくることを見越して、ちょっと大きめの2LDKにしようと考えているのだが、なかなか理想の物件には巡り合えない。


週末ごとに、ハルと不動産屋を巡るのが、最近の私たちの“夫婦らしい”デートコースになっていた。


「この街はどうかな?」

「通勤には便利だけど、スーパーが遠いな」

「このリビング、陽当たりは最高だけど、家賃が……」

「子供部屋は、やっぱり東向きがいいよね」

「そもそも、ハルが職場決めないと家も決められないぞ」

「……甲斐性がなくてすまない」


他愛もない会話を重ねながら、私たちは少しずつ、未来の“家族のかたち”を思い描いている。


今年の年末は、去年果たせなかった―――“二人でゲームをする”という約束を、ようやく果たせた。


リビングのソファに並んで座り、お互いの好みも気にせず、新しいタイトルを選ぶ。


「これ、難しいな」

「前はもっと上手かったじゃないか」


―――くだらないやり取りが、延々と続く。

画面の中では、ピクセルのキャラクターたちが慌ただしく動き回るのに、

私たちの時間だけが、ゆっくりと流れているようだった。


私は、時折ふと手を止めて、この何気ない瞬間に―――胸の奥からじんわりと湧きあがる、静かな幸福を噛みしめていた。


外は、もうすぐ冬がやってくる。

霜が降り、空気は澄み、夜には星が凛と光る。


私は―――

ようやく、「自分の春」が訪れたことを、心の底から感じていた。


これまで、誰かのために必死で走ってきた。

でも今は、ただ隣にいる人と、小さな未来をひとつずつ積み重ねていくことで、それだけで、満ち足りている。


もちろん、新しい生活は決して特別なことばかりじゃない。

時には喧嘩もするし、家計簿を見てため息をつく夜もある。不安や迷いが、完全に消えたわけじゃない。


でも、それでもいい。これが、“普通の人生”なんだと思える。


もしも、これまでの人生で、一度でも「春なんて来ない」と思った人がいたなら―――私は、そっと肩を叩いて言いたい。


「春は、思いがけない形でやってくる」


それは、誰かと一緒にごはんを食べることかもしれない。

くだらないゲームで笑い合う夜かもしれない。


あるいは、長い冬を越えたその先―――静かに差し込む、朝の光かもしれない。


私たちは、そんなささやかな幸せを抱えながら、これからも歩いていくつもりだ。


「ただいま」

「おかえり」


そのやり取りを、何百回でも繰り返したい。

それが、“ハルへの扉”を開き続ける、唯一の魔法だから。

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