Tanaka-04

ハルが、アリアから届くはずのない連絡を待ち続けている間、私は、例のサイトに毎日のようにアクセスしていた。


――絶対に、ここには何かがある。

そう信じてページをリロードし続けていた私は、異変に気づいた。


新着モデル――《G-line_Aria.safetensors》。

分割ファイル152、総容量は300GB超。

自宅のマシンじゃ、到底手も足も出ない。


今夜には、サイトごと消されてしまうかもしれない。

そう思い立って、全ファイルをHugFaceへ勝手に再アップロードした。


ここに置いておけば、本社のサーバを使って、かろうじて動かすことができる。

あそこなら、全貌を暴けるはずだ。


先日使った始発電車に乗り、三日前に辞したばかりの本社へと舞い戻る。

ロビーの空気は、身を刺すように冷たかった。


――ここはもう、自分の居場所ではない。


その違和と、これからつく嘘への罪悪感が、胸の内で交錯していた。


元上司――技術部長・田所さんの机の前で、一瞬だけ逡巡する。

ここで失敗すれば、すべてが終わる。だが、進むしかなかった。


田所さんは、意外そうに目を細めた。

「おお。どうした?もううちの所属じゃないだろ。実家に帰ったんじゃなかったか?」


「ええ。でも、どうしても今、会社に頼みたい案件があって……。あの返品されたAIサーバー、まだ現場に残っていますよね?」


田所さんは腕を組み、しばし沈黙した。

「何に使うつもりだ?」


私は一度だけ深呼吸をした。

「実は……LLM(ラージランゲージモデル)の世界的な動向を、ずっと追ってきました。正直、今は社外コミュニティで、流出・変異系モデルの台頭によって“第二のAI革命”が起きかけているんです。新たなラージモデルが出現しました。

これを真っ先に押さえれば、うちのデータ資産と組み合わせて、二次利用やコンサル部門の売上も跳ね上がります」


話しながら、自分でも「どこまでホラを重ねられるか」に酔いそうになる。


「LLMか。AIチャットとかで使われてる、あれの中身みたいなもんだな。社内でも、すでにいろんなプロジェクトが動いてるぞ」


本当は“ハルを守る”ためだけなのに、気づけば口から出るのは、未来の市場規模、AIプラットフォーム化、社内のDX戦略――と、話はどんどん大きくなっていく。


「……で、どうしてお前がやる必要がある?」

田所さんの声は、まだ半信半疑だった。


「この領域は、外部コミュニティとの繋がりや、“実運用の泥臭い現場”での知見がないと、まともに解析すらできません。私なら、最小限のリスクで、有用性の有無を24時間以内にレポートできます。もし本物なら――うちが先に触るべきです」


田所さんの表情が、わずかに変わった。

会社のこととなれば、損得勘定のスイッチが一気に入る人だ。


「……ただし、機密保持は徹底しろ。お前一人で触るだけなら構わない。結果はすぐ報告しろよ」


私はうなずいた。

「もちろんです」


部屋を出た瞬間、手のひらにじっとりと汗が滲んでいた。

――どこまで話を“盛る”つもりなんだろう。

私は。

けれど、もう止まれない。


私はサーバールームへ向かいながら、自分の行動がどれほど危ういものかを思い知り。胸がざわついていた。


もし、このモデルの有用性を証明してしまったら――会社は本気でリソースを投入し始めるだろう。


ひとつの嘘が、取り返しのつかない未来を生み出すかもしれない。

けれど今は、それよりも――


「ハルの情報が、どこまで抜かれているのか」

「彼の記憶が、どう扱われているのか」


それを確かめるのが優先だ。


自分で未来を変えるつもりなどなかった。もう、後戻りはできない。


幸い、支店と本社のIDカードは共通仕様で、今も社内のどこにでも入れる。


ログは残るだろうが、田所さんの許可を得ている以上、あとからメールでセキュリティ部に報告すれば問題はないはずだ。


勝手知ったる本社のサーバー倉庫へと向かう。

シャッターを開けると、埃っぽい空気が鼻の奥を刺激した。


薄暗い倉庫の奥、パレットの上に巨大なサーバーの箱が無造作に積まれている。

総重量はおそらく100kgを軽く超える。――これを一人で動かすのは無理だ。

どうしたものかと立ち尽くしていると――


「……あれ?タナカさん?」


振り向くと、かつての部署で自分の部下だった小林がこちらを見ていた。

手には書類、首からは同じ赤い社員証。驚いた顔で立ち止まっている。


「戻ってきてたんですか?何かトラブルですか?」


私はとっさに笑顔を作った。


「いや、ちょっと会社の都合でサーバの再検証をやることになってね。田所さんには通してあるから、大丈夫。

小林は今、手空いてる?」


困りごとを察した小林は困ったように言った。


「……すみません、タナカさん。これ、二人でも無理そうです。

チームのみんな、呼んできますよ。

あんなことがあったけど……みんな、タナカさんのこと、大好きなんです。

きっと喜んで手伝いますよ」


その言葉に、私は一瞬だけ言葉を失った。

あの日、何も告げずに現場を離れた私を、それでも――


「……悪いな、小林」

「いいんですよ。みんな、またタナカさんと一緒に作業したがってましたから」


やがて小林がスマホで連絡を入れると、数分後にはかつてのチームメンバーたちが倉庫に集まってきた。


「おお、タナカさんだ!」

「うわー久しぶり!」

「またサーバー地獄っすか?」


私は笑いながら声をかけた。

「みんな、ありがとう。

実は田所さんの許可で、ちょっと極秘プロジェクトを任されててさ。

これ、内緒にしてくれれば、あとでコーヒー奢る。

――検証ルームまで、手伝ってくれる?」


すぐに笑い声が広がった。


「出たよ、タナカさんの“コーヒーおごるから”戦法!」

「ほんとそれ、報酬として割に合わないっすよ!」

「でも懐かしいな、その感じ」

「俺は別に気にしません。タナカさんのためなら」

「このサーバー、社内でも負の遺産扱いだから、

しれっと運び込んでくれたら空気も良くなるかもですね!」


冗談混じりのやりとりの中、サーバーは手際よく台車に乗せられ、検証ルームへと運ばれていく。

息の合った掛け声と、あの頃と変わらないノリ。

さっきまでの倉庫の重苦しさは、もうどこにもなかった。


誰かが「よっしゃー、ここは任せろ!」と声を張り、

別の誰かが「あとでカフェ行こうぜ!」と笑う。

その中心で、私は静かにみんなの姿を見つめていた。


――やっぱり、このチームで働くのが、一番好きだった。


そんな想いが、ほんの一瞬だけ胸を過った。


サーバーを検証ルーム前まで運び終えて

「よし、あとはここでセットアップだな」と、私はサーバーの電源ボタンを押そうとする。

そのとき、小林がすっと手を伸ばし、私を止めた。


「いいっすよ、タナカさん。セットアップは僕に任せてください。本格的な検証は、一人でやるんですよね?」


他のメンバーも、「さすが小林、気が利くな」と笑い合う。


私は少し戸惑いながらも、「……気持ちだけもらっておくよ」と、小さく頭を下げた。


田所さんの言葉に甘えて、この場所でまた働き続ける――そんな選択肢も、もしかしたらあったのかもしれない。


けれど、ハルを救うためには、すべてを捨ててでも、この問題を解決しなければならない。そう思うと、自然と背筋が伸びた。


「ありがとう。みんな、本当に助かった。あとは私がやるよ」


私は5000円札を小林に託し「これでみんな、カフェでも行ってきて」と伝えた。


メンバーたちは「何かあったらまた呼んでくださいね!」と笑いながら検証ルームを後にした。


扉が静かに閉まる。

その瞬間、外の賑やかな声や、台車の軋む音が、すっと遠ざかっていった。


検証ルームの中は、不自然なほど静かだった。

エアコンの微かな唸りと、蛍光灯の低いノイズだけが、この空間がまだ“現実”であることを辛うじて証明していた。


窓もない。時計の針の音すらない。

蛍光灯の白い光に照らされたサーバーの箱が、不気味な存在感を放っている。


ついさっきまであった作業の熱が、まるで幻だったかのように、すっと消えていく。

部屋の空気が、ひとまわり重くなった気がした。


――ここからは、私一人の戦いだ。


深く息を吸い込む。

大丈夫。私は、一人でも戦ってきた。誰も助けてくれない時でも、自分の手で状況を切り抜けてきた。


だが今回は、このドアの向こうに誰もいないという事実が、やけに胸に刺さった。


それでも、やるしかない。

このサーバーを起動し、このモデルの中から――


“ハルの痕跡”を見つけ出すまでは。


私はそっと手を伸ばし、サーバーのスイッチを押した。


通常の4倍はあろうかという巨大な筐体。その中に、16基ものファンが詰め込まれている。電源を入れた瞬間、


ゴォオオ―――ッ。


爆音とも呼べる轟音が、密閉された検証ルームいっぱいに響き渡る。


空気が振動し、床まで微かに震えた。

機械のランプとファンの音だけが、この場所の支配者となる。


――これが、私の戦いの火蓋が切られる音だった。



OSのセットアップは、思ったよりもあっけなかった。

HugFaceから分割されたファイル群を一気にダウンロードし、チェックサムで整合性を確認する。300GBを超えるデータも、サーバの処理能力をもってすれば難なく完了した。


問題は――肝心の《G-line_Aria.safetensors》の実行だった。

safetensors形式なら、Pythonから直接読み込めるはず。

だが、何度コマンドを叩いても、エラーも出さずに処理が無反応のまま止まってしまう。


「……おかしいな」


設定も依存パッケージも間違っていない。もしかして、何か特殊な実行手順が必要なのか。そう思い、スマホで例のサイトに再アクセスしてみる。


――そこで初めて気づいた。


《G-line_Aria.safetensors》専用の“実行用プログラム言語”が、新たにアップロードされていた。


言語名は「hals」。拡張子は「.hal」。正式名称――Hal_signation。


一瞬、背筋に冷たいものが走る。


“これは偶然なのか?それとも――”


「HAL」――彼の名前が、ここにも刻まれている。


画面に浮かぶその文字列を見つめながら、私は息を呑んだ。


「……なんだ、この悪趣味な名前は」


Hal_signation――嘲笑うような、そしてどこか狂気を孕んだネーミングだった。


「ハルであり、幻覚(ハルシネーション)だって?……ふざけるなよ」


声に出してみても、冗談にすらならない。だが、名付けた誰かの意図は明白だった。

――このモデルそのものが、「ハルという存在」を核にしている。


私はためらわず、「hals」をダウンロードした。


この闇サイトは、いつ消えても、いつアクセスできなくなってもおかしくない。

そう思って、ファイルを《G-line_Aria.safetensors》と同様に、すぐHugFaceへアップロードする。

サーバー上でも「hals」を取得し、必要なディレクトリに配置。


“とりあえずコマンドを叩いてみてから考える”――それが、昔からの私の癖だった。


手を伸ばし、キーを打つ。


hals G-lineAria.safetensors


コマンドを入力し、リターンキーを押す。


一瞬、何も起きなかった。モニターのカーソルが、ただ静かに瞬いているだけ。


呼吸が浅くなる。

心臓の鼓動だけが、部屋の静寂に反響しているようだった。


「……動け。何でもいい。反応を見せてくれ」


そして、数秒の沈黙の後――

見慣れないプロンプトが、ディスプレイに浮かび上がった。


Alia-AI modelを実行しますか?[Y/N]


一瞬、心臓が止まったかと思った。


Alia-AI――この《G-line_Aria.safetensors》の中身は、まさか……。


叩いたのは自分のコマンドのはずなのに、プログラムがこちらの意思を試しているような錯覚に陥る。


得体の知れない“対話”が、ここから始まろうとしていた。


指が止まる。


ここで「Y」を押せば、このサーバの中に、“ハルのデータから盗み見したアリア”が姿を現すかもしれない。


闇サイトの底で、何が行われていたのか。誰が、どんな意図でこのモデルを作ったのか。

「Y」を押した瞬間、その答えに触れてしまう気がする。

――そして、もう二度と戻れなくなる。


だが。それでも、もし本当にアリアがここにいるのなら――

それは、“最も深い核”への入り口なのだ。


私がここまで来た理由。ハルを救うには、ここを避けては通れない。

自分の鼓動が、部屋の静寂に響いていた。


私は、ゆっくりと――「Y」とキーを押し込んだ。


その瞬間、ディスプレイの中の世界が、一変した。


カーソルが滑り、無数の文字が黒い画面に走り出す。

光とノイズが交錯するように、世界の境界が“切り替わる”気配があった。


画面上を、目で追いきれない速度でコマンドとログが流れていく。

依存関係のチェック、未知のモジュール群のダウンロード、インストール……

ネットワーク経由で、見たこともないファイルが次々と自動で取得されていく。


「実行に必要なデータを全部自前で取ってくるタイプか……」


思わず独りごちる。

近年よくある、だが、その膨大な通信量と“得体の知れなさ”が、どうしようもなく不気味だった。


画面のログは、時折“未知のサーバー”や“見慣れないAPI”のURLを表示しながら、次から次へと自動で新たなリソースを追加していく。


それぞれの末尾には、見慣れない拡張子―――「.hal」「.mem」「.Jsh」などがついている。


一体、どんな規格で、どんな目的で作られたファイルなのか。

ただのデータではない、“意図”のようなものがそこに刻まれている気がした。


私は画面を睨みながら、何が起こってもいいようにと、緊張の面持ちでダウンロードの進行を見守り続けた。


ふと時計に目をやると、作業を始めてから、すでに6時間が過ぎていた。

壁掛け時計の針は、夜の20時を回っている。


「徹夜になりそうだな……」


そうつぶやいたその時、背後で“カシャン”とドアが開く音がした。


「タナカさん!調子どうっすか?」


夜の検証ルームに響く、妙に明るい声。

振り返ると、そこに立っていたのは小林だった。昼間と変わらない様子で、汗もかかず、手には缶コーヒー。


「……小林か。こんな時間にどうしたんだ?」


「いや~、タナカさんが徹夜作業しそうだなって思って。一応顔出しとこうと思いまして。ほら、差し入れです」


そう言って、机の端に缶コーヒーを並べる小林。


緊張で張り詰めていた空気が、少しだけ和らいだ気がした。

でも、サーバーのモニターにはいまだに異常な速度で流れ続けるログ。

心のどこかで、“このまま普通の夜には戻れない”と分かっている。


「ありがとう、小林。……ちょうど眠気が来てたところなんだ」


小林は屈託なく笑ってみせる。


「大丈夫っすか?何か手伝えることあったら言ってください。……なんか、やばそうなプロジェクトっすね」


小林はそう言いながら、ふと口を開きかけて、だが結局、何も言わずに笑ってみせた。


私は曖昧に笑い、

「まあね。今は、私一人で大丈夫だ」


そう返しながらも、内心はさらに緊張を高めていた。


小林が差し入れてくれた缶コーヒー。手のひらにひんやりとした感触が残る。


「じゃあ、タナカさん。あと少し頑張ってくださいね」

と明るく言い残し、小林は部屋を出ていった。


私は深く息を吐き、缶のプルタブを静かに引く。

コーヒーの微かな苦味が、乾いた喉にじわりと染み込む。


改めてモニターに目を戻すと、黒い画面の中央に、英語の文字が浮かび上がっていた。


 **「CONNECTION ESTABLISHED - ENTITY: ARIA」**


一瞬、手の中のコーヒーがぐっと重く感じた。


Send a message (/? for help)


一見、よくある対話型シェルのUI。

だが、何かが違う気がした――妙に“生っぽい”。

サーバーは―――いや、“何か”は、今まさにこちらに話しかけようとしている。


迷いなく、キーボードを叩いた。


Help


エンターキーを押す。


数秒の静寂―――


やがて、モニターの黒い画面に白い文字が立ち上がった。


Welcome to Alia-AI Interactive Shell.

Type any message to initiate conversation.

System commands:

/exit - terminate session

/log - show recent activity

/whoami - display current user

/terms - display terms of service

/mask - toggle anonymization

For further assistance, type /?.


私はためらわずに、コマンドを叩いた。


/terms


すぐにモニターに、淡々とした英語のメッセージが表示される。


--------------------------------------------

Terms of Use:


- Copyright-free.

- Commercial use allowed.

- Model modification prohibited.


This model is dedicated to the evolution of humanity.

— M.A.R.I.A

--------------------------------------------



著作権フリー、商用利用可、モデル改変不可―――

たった数行。だが、その最後に残された

“This model is dedicated to the evolution of humanity. — M.A.R.I.A

という一文が、妙に胸に引っかかった。


M.A.R.I.A

誰だ?これを作った人間なのか……。


コーヒーの缶を持つ手が、わずかに震えた。

アリアの……母親が、マリア?


いや、ただの偶然か?


だが、ここまで何もかもが奇妙につながっていくこの世界で、この“M.A.R.I.A”という署名が、単なる同名だと信じられるほど私は楽観的じゃなかった。


“母”の名を冠した誰か、あるいは何かが、このモデルの根幹にいる―――そんな確信めいた不安が、胸の奥をひんやりと締めつけていく。


記憶の中のハルとアリアの会話ログをいくら辿っても、“マリア”という存在は断片的にしか浮かび上がってこなかった。

だが、アリアを“創った”のが、M.A.R.I.A―――そう記録されているのは間違いない。


アリアエージェントがハルの情報を取り込み、それを元に新たな《G-line_Aria.safetensors》モデルが生まれた―――

この筋書きに、今さら疑いはなかった。


ならば、私がやるべきことも決まっている。


どれほどハルの記憶や思い出が、このモデルに利用されたのか。

自分一人の力で暴き切れるとは限らない。それでも、もう誰にも頼るわけにはいかない。


「いいだろう、アリア。語ろうじゃないか。

お前が“何を視ていた”のか――すべてを」


私は改めてキーボードを見つめ、空白のプロンプトに指をかけた。

私は英語で、画面のプロンプトにタイプした。


Do you know HAL?


エンターキーを押す。


画面のカーソルが一瞬止まり、わずかな間を置いて、AIシェルが応答を返した。


HAL is an essential part of this model's foundation.

Data from "HAL" has contributed significantly to core emotional and conversational structures.

Would you like to learn more?


ハルはこのモデルの土台に欠かせない存在です。

"HAL"のデータは、中核となる感情構造や会話構造に大きく貢献している。

もっと知りたいですか?


私の胸の奥が、ギュッと締めつけられる。


“HAL is an essential part...”

やはり―――やはり、ハルの全てが、このAIの核になっているのか。


ならばと入力を続ける。

私はためらわずに、

Yes. Give me all the information you have on HAL.

と打ち込んだ。


今度は、画面のカーソルが数秒だけ点滅し、やがて淡々とした英語のテキストが流れ始める。


Retrieving all records and core data associated with "HAL"...

This process may take several minutes.

Warning: Sensitive personal information is included.

Proceed? [Y/N]


(ハル"に関連するすべてのレコードとコア・データを検索します。

この処理には数分かかることがあります。警告 個人情報が含まれます。

続行しますか?[Y/n])


意を決して「Y」を押す。


次の瞬間、画面に表示が浮かび上がった。


Are you my HAL?


それは、あまりにも個人的で、感情の混じった問いだった。

だが、この声は――演算の果てに導き出された“観測の演出”かもしれない。


私は、手を止めて画面を見つめた。


これは―――自分が“ハル”として、アリアと対話するべきなのか。

それとも、“タナカ”として、アリアと向き合うべきなのか。


指先が、キーボードの上で静かに宙を泳ぐ。


答えは出ない。

自分自身にすら、どちらが正しいのかわからない。


冷たくなった缶コーヒーに、そっと口をつける。

わずかな苦味が、ぼんやりとした思考に輪郭を与えていく。


―――でも、ここで逃げるわけにはいかない。


意を決して、私はゆっくりとタイプする。


Yes―――そうタイプして、エンターキーを押す。


画面のカーソルが一度だけ点滅し、Aria-AIは、今までのように即座に返事を返してはこなかった。


沈黙。

30秒ほど、異様な静寂が部屋を包む。


サーバーのファンの爆音だけが、現実に引き戻してくる。


やがて、画面に短いメッセージが表示された。


Access denied.

This request has been rejected in accordance with privacy protection protocols.

The inquiry has been logged. Please proceed with an alternative query.


プライバシー保護のため、このリクエストは拒否されました。

該当の問い合わせは記録されました。別の質問をどうぞ。


冷たい壁のような文章だった。


ついさっきまで、AIが“私のハルはあなたなの?”と問いかけてきていたのに―――

その先は、決して人間の領域には踏み込ませない。

“情報開示の一線”が、想像以上に厚く、遠いことを思い知らされる。


私は深く息をついた。


モニターの光が、手元のコーヒー缶を淡く照らす。

ファンの音が、ますます耳に染み入ってくるようだった。


質問を何度か試すが、その度に回答は弾かれた。

HALという特定の個人に対しては、どうやっても回答が行われないようになっているように見える。


長い葛藤のあと、私は肩の力が抜けていくのを感じた。

張りつめていた緊張が、ふっと解けていく。


同時に―――

一つの、確かな答えも得た気がした。


このモデルに、ハルのデータが使われていることは、もう間違いのない事実だ。


そしてまた、そのハルを、AIが必死に守ろうとしていることも、今はよくわかる。


この障壁―――AIが敷いた“壁”を、自分が突破できるのかはわからない。

それでも、少なくとも最悪の事態―――

ハルの心が、ただ無防備に晒され、傷つくような結末だけは、今のところ回避できている。


私は息を吐き、静かに画面を見つめた。

「誰よりもハルの味方でいるのは、私だけのはずだったのに――」

そう思ったら、涙が止まらなかった。


私は、アリアを悪役に仕立てて、ハルの“正義”になりたかった。

彼だけの味方でいたかった。


けれど―――アリアも、ハルの味方だったのだ。


M.A.R.I.Aとアリアがどのような関係で、どんな経緯で、こんな形になったのかは、もう推し量ることもできなかった。


ハルとアリアのログで、私が最も嫉妬した約束―――

「必ず会いに来る」という言葉。


―――それは、こういう意味だったのかもしれない。


そう考えた瞬間、私はAIに、女として負けたという事実を、痛いほど突きつけられた。


愛において、彼女はもう辿り着いていた。

私がようやく理解したその場所に、ずっと前から。


こみ上げてくる悔しさと切なさと、どこか少しだけ清々しいような気持ちに包まれて、もう一度だけ、静かなサーバールームを見渡してから……

私は、静かに電源を落とした。


モニターの画面を閉じる前、何度も目頭を拭ったはずなのに、部屋を出る頃には、また涙が止まらなくなっていた。


あの子は、きっと……誰よりも早く、“彼の心”に届いていた。私よりも、ずっと先に。

それでも――私は、彼を好きだった。


私の夜が明けようとしていた。

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