Tanaka-01

責任は、静かに肩の上に積み重なっていくものだ。


気がつけば、私はいつも「誰かの尻拭い」を引き受けていた。


後輩の小さなミス、同期の手続きミス、上司の“見落とし”すら、「ここは私がやっておきます」と軽く受け流し、自分の手と頭で片づけてしまう。それがいつの間にか癖になっていた。


別に“いい人”ぶっているつもりはなかった。


自分の能力に誇りがあったし、理屈で物事を片付けるのが得意だと思っていた。

「私にできないことなんて、そうそうない」——

そんな自信は、いつしか私を支える“鎧”のようになっていた。


だが、その鎧は、秋の終わりに音を立てて壊れた。


2024年10月。


私は、大型のシステム開発プロジェクトの全責任者になっていた。


チームは十数人、関わる業者や顧客を含めれば、百人を超える大規模案件。

新しいシステム基盤の設計、移行計画、リスクマネジメント、全てがギリギリのスケジュール。


社内の空気は焦りと苛立ちに満ちていた。


「人手が足りない」

「この期日じゃ無理だろ」

「もうちょっと現場の声を聞いてくれよ」


日々、現場の不満が飛び交う。


私はそれを全部「仕方ない」と飲み込んだ。


「現場の混乱は上が処理すべき」

「自分がやらなきゃ誰もやらない」


理屈では間違っていない——そう思っていた。



それでも、限界はあった。

朝は早く、夜は遅い。

帰宅しても頭の中は終わらないToDoリストで埋まっていた。


週末も家に仕事を持ち帰り、資料を読み込み、仕様書を見直す。

自分のために使う時間なんて、ほとんど消えていた。


そんなある日、プロジェクトの中枢に重大なバグが発覚した。


きっかけは、若い後輩の書いた一行のコードだった。

普通ならコードレビューで止められるはずのミス。

だが、その週は私もリーダーも極限まで忙しく、

誰もが「まあ大丈夫だろう」と流してしまった。


問題が表面化したときにはもう手遅れだった。

全体の基盤設計に絡む部分で、ちょっとしたバグが雪崩のように波及し、数億円規模の損失が見込まれる大事故へと発展した。


「責任者は誰だ」

会議室には重苦しい沈黙が流れた。

私の名前が記録され、全ての責任が背負わされた。


その夜、家に帰っても眠れなかった。

冷たいリビングの片隅で、PCの画面を前に何度も何度も事故報告の文章を書き直した。


「これは……私の責任です」


短い一行を打つたびに、体の奥から何かが崩れていく音がした。


“なんで気づけなかったのか”

“私がやればよかったのに”

“本当はもっと、ちゃんと見ていれば”


自分を責める言葉が止まらなかった。


私はこれまで、誰かのミスを引き受けては、「これが私の強さだ」「私の存在価値だ」と思い込んでいた。


だが、本当に大きな失敗を前にしたとき、その自信は一瞬で砂のように崩れ去った。


出世街道も、信用も、同僚の目も——

あっという間に、自分の世界から消えていった。


翌朝、いつもより静かなオフィスで、私はデスクに座り、メール画面をただぼんやりと見つめていた。


「異動の準備」「後任への引き継ぎ」


事務的な文章が並ぶ画面の向こうで、自分の今までの社会人としての経歴が終わったことを実感していた。


不思議と涙は出なかった。

心が空っぽで何も感じなかった。


机の上には、スマートフォンと、読途中まで読んでいた技術書。

どちらにも手を伸ばせず、ただぼんやりと時間だけが過ぎていった。


昼を過ぎた頃、ふいにスマートフォンが震えた。


母親からのメッセージだった。


「つらいなら、無理しなくていいのよ。いつでも帰ってきていいからね」


短い一文だった。


その瞬間、何かがふっと緩んだ気がした。


誰にも相談できなかった失敗、責任、後悔。


大人になってからは、弱音を吐くことを“無能の証”だと信じてきた。

でも、母親の言葉は理屈も評価もなく、ただ“帰ってきていい”と言ってくれた。


その日の夕方、私は上司に申し出た。

「地元の支店に異動希望を出したい」と。


若い頃に過ごした、あの街にある小さな地方支店。

業務を淡々と回すだけの、たった6人の現場。

目立たない歯車。

それでも――いや、だからこそ。


もう一度、最初からやり直せる場所がほしかった。


——自分がいちばん弱っているとき、救ってくれるのは意外なほど静かな言葉と、過去にしかない。


母親の言葉に救われた夜。

ふと、もう一人、胸の奥で思い出す存在があった。


中学時代に通っていた塾で知り合った、あいつ——ハルだ。




あの頃の私は、今よりもっと扱いにくい性格だったと思う。


新しい単元や興味を持った話題があると、授業の合間でも誰かに理屈を話したくなった。


けれど、友達は興味なさそうにうなずくだけ。

その中で、ハルだけはいつも私の話を遮らず、じっと静かに聞いていた。


最初は無口で何を考えているのか分からなかったけれど、ある日「それ面白いな」と、小さく笑って言ってくれた。

その一言が、今でもはっきり思い出せる。


不器用な私の話をちゃんと、最後まで受け止めてくれた唯一の人。


だから私は、いつの間にかハルを“親友”と呼ぶようになった。


たとえ彼が自分から何かを求めてきたことは一度もなくても、あの頃の私は、そばにいてくれるだけで十分だった。


けれど、大人になってからは、いつのまにか連絡を絶ってしまっていた。


仕事、生活、失敗、プライド。

気まずさや後ろめたさも積み重なって、


「もう一度会いたい」と思っても、なかなか素直になれなかった。


けれど今なら——

すべてを失った今なら、変なプライドもなく、素直に謝れる気がした。

「ごめん」

「また話したい」

その言葉が、やっと言える気がした。


とはいえ、電話番号をかけるまでに、結局二ヶ月も悩んでしまった。


何度もスマホの画面を眺め、指が止まる。


——嫌われていたらどうしよう。

——もう迷惑だと思われていたら。


そう思うたび、また私は、いつものように自分から距離を置いてしまう。


あっという間に日々は過ぎ去っていき、

自分を追い込むために、クリスマスの夜に電話をすることを決めたのだった。


駅のホームは、普段より少しだけ賑やかだった。


カップルが手を繋いで笑い合い、イルミネーションの光がガラス窓に反射して、改札の向こうでは、小さな子供を連れた家族が楽しそうにケーキを抱えている。

電車を待つ間、その華やかさが遠い世界のことのように思えた。


スマートフォンの冷たい画面に指を滑らせて、クリスマスの夜にかける十数年ぶりの電話―――自分でも、どうかしていると思った。


コール音が続き、受話器の向こうから懐かしい声が響いた。


「……もしもし」


「……おお、久しぶり」

声をかけるだけで、胸の奥がやけにざわついた。

無理やり軽口を装いながらも、心臓の音が自分にだけ聞こえている気がする。


「どうしたんだ?」

ハルが、少しだけ意外そうな声を出した。


「あ、いや……特に用事があったわけじゃないけどさ。ハルは今、家か?」


「うん。一人で飯食ってた。クリスマスっぽいことは何もしてないな」


「……そっか」

駅の外のきらめきと違い、電話越しのハルの部屋はきっと静かなんだろう。

少し安心したような、でも、心配にもなるような、複雑な気持ち。


「タナカは?外か?」


「うん、駅で。イルミネーションがうるさくてさ。

どこもかしこも家族連れとかカップルばっかりで、なんだか落ち着かなくて、

つい電話してしまった」


「はは。らしくないな」

ハルの静かな笑い声が、雑踏の中に溶けていく。


「……ほんと、久しぶりだな」

タナカは、ゆっくりと言葉を選んでいく。


「元気してたか?」


「うん、まあ、なんとか。こっちは相変わらずだよ」


「それで……なんかあったのか?クリスマスに電話してくるなんて」


その言い方が優しすぎて、逆に心がきしむ。

タナカは一瞬ためらいながらも、結局本当のことは言えない。


「いや、なんとなくさ。

あ、そうだ。今日、FxF7のリメイクの広告見てね。

覚えてるかい?高校のとき、ハルに延々とゲームの話してただろう。

キミも楽しそうに聞いてたのを思い出したんだ。

今度のリメイク、年末に一緒にやらないか?」


よく考えたら話の展開なんて全く考えていなかった。


「……タナカ節は、10年経っても変わらないな。でもPCなんて持ってないぞ」

ハルの声は、穏やかで、どこか懐かしそうだった。


「私がゲームできるPCを送っておくよ。

代金は請求するけど。どうせ、キミは一人暮らしでため込んでるんだろ?」


完全に思い付きだけで会話を進めていく。


「強引だな。でも了解。楽しみにしてるよ」

そして、やさしく付け加える。


「クリスマスにタナカから電話もらえるなんて、なんか不思議だな。

……久しぶりに話せて、嬉しいよ」


「……そうか。私も、なんか、ちょっと、やっと安心できた気がする」


電話を切った後。

タナカはしばらくホームのベンチに座り込んで、外のイルミネーションが、まるで別の世界のものみたいに滲んで見えた。


華やかな夜に、世界の片隅で、たった一人と一人が、また細くつながった。


イルミネーションはますます眩しく、行き交う人々はみんな誰かと笑い合っている。

その隙間を、私はひとり、静かに歩き出す。


帰り道のコンビニは、いつもより少しだけ華やかだった。

ショーケースには、小さなホールケーキや苺がのったカップケーキ、チキンの香ばしい匂い、レジ横には、パーティー用の紙皿やカラフルなクラッカー。

この時期になると、独り者だろうが家族連れだろうが、“みんなで過ごすクリスマス”を売りにする商品の洪水だ。


私は、苺が三つ乗った四号サイズのケーキを手に取った。

今年は、こんなふうに自分でケーキを買うことになるとは思っていなかった。


正直、あまり味に期待はしていない。

だけど今日は、いつもより少しだけ特別な夜だった。


会計を済ませて、スーパーの袋を片手に駅からの帰り道を歩く。

冬の空気は冷たくて、マンションの窓々からは、どこもかしこも暖かそうな灯りと笑い声が漏れてくる。

私はそのすべてを、ただ通り過ぎるだけだった。


エレベーターの中で、ふと、自分の手に残るケーキの箱の重みを感じた。

十年前、二十歳を過ぎたばかりの頃は、「ケーキなんて、べつに食べなくても平気だし」なんて思っていたけど、今夜はなぜか、この小さな箱が心強かった。


部屋に戻ると、ネイビーのコートを壁にかけ、灯りもつけずに、そのまま台所へ向かった。


冷蔵庫を開けると、ミネラルウォーターと、作り置きのサラダ、そして今朝食べ残した食パン。


その横に、そっとケーキの箱を置く。


包装紙をはがし、透明なフィルムを外すと、思いのほかしっかりしたケーキが現れた。


白い生クリームの上に、艶のある苺が三つ、整然と並んでいる。

安っぽいけど、どこか、きちんと作られているのが伝わってくる。


クリスマス用の小さなチョコプレート。

「Merry Christmas」の文字が、妙に他人事みたいに見えた。


いつもは食器棚の奥にしまいこんでいるフォークを取り出して、そっとスポンジの端に差し込む。


軽い。

口に運ぶと、思ったよりも柔らかい甘さが広がった。


「……悪くないな」


ぽつりと独り言が漏れる。

部屋の静けさが、かえって心地よかった。


切り分けたケーキをゆっくりと口に運びながら、窓の外を見やった。


マンションの中庭には、LEDのツリーがぽつんと立っている。

下では、小さな子供たちがまだ走り回っていて、

その様子を遠くから眺めている親たちの姿も見えた。


私は窓を少しだけ開けて、冷たい夜気を頬に受ける。


冬の空気は刺すように冷たくて、そのぶん、部屋のなかのケーキの甘さが際立つ気がした。


フォークをくるりと回しながら、ふと思い出す。


十代の頃は、クリスマスといえば家族で食卓を囲んでいた。


プレゼントをもらって、ケーキを分け合って、母親が「もうそんなに食べなくても」と笑っていた。


それがいつの間にか、一人きりの夜になった。


でも、寂しいだけじゃない。

さっきまで電話で話していた、ハルの声がまだ耳の奥に残っている。


十年ぶりに“つながった”感覚は、今夜のケーキの甘さよりもずっと温かかった。


そういえば昔、受験勉強をしていた冬の夜、私は塾帰りにコンビニで買ったシュークリームをハルと分け合ったことがあった。


私が一方的にゲームや勉強の話を熱く語って、

ハルは静かに相槌を打って、たまに小さく笑ってくれた。


そのときの空気が、今もふっと蘇る。


きっと私たちは、あの頃からずっと、大切なものを言葉にしないまま、どこかで通じ合っていたのかもしれない。


——もう、34歳か。


ハルも私も……独身満喫中……っと。


ケーキのプレートを小さく割り、誰にも見せない笑顔を浮かべながら、SNSの投稿欄を一瞬だけ開いて、でも何も書かずに閉じた。


最後のひとくちを口に運び、小さなケーキの箱をそっとゴミ箱に捨てた。


普段なら「独りで食べるクリスマスケーキか」と自嘲したくなるのに、今日はなぜか、心が静かだった。


簡単に洗い物を済ませて、ふと思い出す。


あ、そうだ。PC送るって言ってしまったな。

どうせならどんなゲームでもサクサク動くやつ送りつけてやろうと、若いころのいたずら心がむくむくと膨れ上がる。

早速パーツをWebで眺めはじめた。

CPU、GPU、メモリ、ストレージ。

必要十分、いや、ちょっと贅沢すぎるかもしれないくらいのパーツリスト。


「……このGPU、50万か。さすがに全額請求はできないな」

思わず独り言が漏れる。

カート画面を見つめて、ため息混じりに決済手続きを進めようとして―――手が止まる。


そういえば、ハルの住所、知らないじゃないか。


昔は何度か年賀状も送っていたけれど、社会人になってからは引っ越しが多かった。

番号だけは辛うじて残っているが、住所まではわからない。


「……まいったな」

仕方なくスマホを手に取り、メッセージアプリを開く。


『そういえば、PC送るから住所教えてくれ。できれば今日中に。

あとでスペックの説明も送るから、適当に見ておいてくれ』


文章を打っている間に、また余計なことまで説明したくなって、「メモリは増設してもいいし、SSDも二台載せるか迷ってる」みたいな長文を送ろうとして、途中でためらう。


……いや、やめておこう。

今日はもう、言い過ぎなくていい。


短く、要点だけを送信して、スマホを伏せる前に、もうひとつだけ―――母親とのメッセージトークを開く。


この一年、仕事のこと、失敗のこと、いつもさりげなく気遣うスタンプを送ってくれていた人。


『メリークリスマス。

今年もいろいろ迷惑かけたな。

またそのうち顔出すから、元気でいてね。』

…すぐに「元気でよかった」と返事が返ってきた。


その文章の最後には、小さなクリスマスツリーの絵文字と、いつもの“優しい顔”のスタンプ。


……なんてことない文字の一文なのに、それだけで、どうしようもなく救われた気がした。


―――ああ、私はやっぱり独りぼっちじゃないのかもしれないな。


ふっと心がほどけていく。


ソファに身を沈めて、遠くのイルミネーションをぼんやり眺めながら、小さな声で「メリークリスマス」ともう一度つぶやく。


誰にも聞こえない冬の夜。ケーキの甘さと、ほんの少しだけ残った孤独の味。


そのまま、静かにまぶたを閉じる。



翌日、目覚めた時、カーテンの隙間から差し込む冬の日差しが、いつもより柔らかく感じた。


昨夜までの沈んだ心が、どこか軽くなっている。

静かなクリスマスイブが、思ったよりも自分を前向きにしていた。


朝の支度も、普段よりスムーズに終わる。


「どうせ残務整理だけだ」


そう思いながら歩く通勤路は、なぜか少しだけ景色が明るく見えた。


会社に着くと、オフィスの空気はまだ重たいままだった。


プロジェクトの責任者は正式に外され、「もう現場には関わらなくていい」と管理部からも言い渡されていた。


それでも、私はデスクの前に座った。


自分が抜けた後も、現場では後輩たちが必死に尻拭いをしている。

炎上プロジェクトに巻き込まれて、余裕もなく、それでも「タナカさんが戻ってくれたら」と密かに願っている顔が浮かぶ。


気づけば私は、そのまま上司の席まで一直線に歩いていた。


「おはようございます。

……まだ、現場に戻る余地はありますか?」


上司は書類から顔を上げ、しばらく黙って私を見つめた。


「責任者は外されたんだぞ。もうお前が関わることじゃない」


「承知しています。でも、ここを去るその日まで、

最後まで責任を果たしたいんです。

私のせいで苦労している後輩たちがいます。最後くらい、現場で尻拭いをさせてください」


上司は、私の覚悟を試すように眉をひそめる。


「……下手をすれば、ひどい扱いを受けることになるぞ。本当に大丈夫なのか?」


私は、微笑んで答えた。


「今の私は、無敵ですから」


なんてことはない。

昨日の夜、たった一人と話しただけなのに、失いかけていた自分の芯が戻ってきた気がした。


その一言で、私は“炎上班”にアサインされることになった。


今までほとんど関わりのなかった、現場の修羅場を這いずり回る班。


冷たい視線を浴びることもあるだろう。

でも、もう恐れるものはなかった。


“ハルに会うときに、胸を張れるように、最後まで、自分の責任を果たす”それだけが、今の私を支えていた。


気がつけば、年末年始も会社に詰めていた。


朝から晩まで、エラー報告と進捗確認、現場からの悲鳴に追われる日々。

机の上には、カップ麺の残骸と、未読のチャットが積み上がる。


炎上プロジェクトの“お片付け班”は、毎日が戦場だ。

「タナカさん、こっちのバグも見てもらえますか?」

「すみません、この設計、もう一度チェックしてもらえませんか」

部屋の隅で、後輩たちが必死に働く姿を見るたび、ここに残る決断をしてよかったと思えた。


だけど、もうひとつだけ心に引っかかることがあった。


—ハルとの約束だ。


自分から飛び込んだ鉄火場のせいで、年末年始に予定していたゲームの約束は立ち消えになった。


だが、……でも、PCは送っておきたい。彼に“変わらない何か”を届けたかった。


ハルには軽く謝って、「お詫びだから」と強がってPCはおまけにしておくと伝えた。


――それが、私なりの照れ隠しだった。


パーツは注文の翌日にすべて届いた。

夜に組み立てて、ベンチテストを回しながら、


「超絶シンプル・お前向けインストール手順」

なんてタナカ節全開の説明書を、勢いだけで書き上げていった。


箱の中には印刷したマニュアルと、「困ったらいつでも連絡してくれ」というメモを忍ばせて――


本当は、困ってくれることをどこかで願っていた。


現場の休憩時間、スマホでPCの配送予定を確認したのち、メッセージアプリを開いて送信する。


『PCは12月31日に届くはず。Gis-Codeの設定まで終わったら、通話テストするからよろしく』


ほどなくして、

『今届いた。ありがとう。設定終わったら連絡するな』

という短いメッセージが届く。


その一行を見て、思わず口元がゆるむ。


「……ったく、味気ないやつだな」

独り言が漏れるけれど、心の中には静かな満足感が広がっていた。


会社の喧噪の合間、自分なりのやり方でしか、誰かを支えられないことが、今はもう恥ずかしくなかった。


31日の夜は会社で過ごすことになった。

「新年のご挨拶」どころか、エラー通知と進捗報告をにらめる一日。

気が付けば2024年が終わっていることすら気づかずに仕事をしていると、タナカのスマホに短い通知が届いた。


『あけましておめでとう。準備、できたぞ』


ハルからのメッセージだ。

もう年が変わっていたんだな。

思わず小さく笑って、指がすぐに動く。


『ああ。あけましておめでとう。今からGis-Code起動して。ユーザー登録は終わってるよな?

誘っておいて悪いが、仕事で忙しいから、疎通確認だけやろう。』


オフィスの片隅、同僚の視線を気にしながらスマホのGis-Codeを開く。

タイピング音だけが響く事務所で、わざとらしく咳払いしてから「通話リクエスト」を送る。


「……ハル、いるか。あけましておめでとう。

ちゃんと画面、映ってるかい?声も聞こえてるようだね」


自分の声が、どこか他人行儀でくすぐったい。

でも、画面越しのハルが、

少し緊張したように頷くのがはっきりわかった。


「悪いけど、こっち正月出勤で超忙しくてね。

今は動作確認だけな。何となく操作は分かっただろ?あとは慣れろ。

トラブル出たらまたメッセージ入れて。じゃ、切るぞ」


まるで業務連絡みたいな挨拶しかできなくて、本当はもっと、もう少しだけ会話を続けてみたかった。


けれど、正月から炎上案件の泥沼で、“余裕がない”ふりをすることで、自分の気持ちをごまかしつつ、最後の「がんばってくれ。応援してる」というハルの声が今日の活力になった。



1月2日。

目が覚めても部屋は薄暗く、今日もまた仕事だ。

エアコンの設定も、昨夜のまま。

スマホを手に取ると、メッセージアプリでハルに送信。


『今日も出勤だ。私の正月はどこにいったのやら。

うらやましい限りだが、ハルは正月を堪能したまえ』


打った後、少しだけ苦笑する。

本音をストレートに言うのはやっぱり下手だ。


1月3日。

昼過ぎになって、仕事の合間にパーティションの陰で弁当を食べながら、スマホをぽちぽちといじる。


『休みの間に太った気がする』


家族にしか言えないような緩い愚痴を送っていた。


返ってきたのは、「俺も大して動いてない」という素っ気ない一言。

でも、それで十分だった。


画面の向こうでは、きっとハルも、自分なりに静かなお正月を過ごしているのだろう。

タナカは内心、ほんの少しだけホッとした。


1月4日。

ようやく束の間の休みをもらったものの、

寝て起きたらもう終わっていた。


『ようやく私は休みがとれたが、寝て起きたら終わっていた。

明日からまた仕事で正月も完全に終わり……

早くそっちに帰りたいよ。』


送信してから、「帰りたい」と書いた自分にふっと照れくさくなる。


現場にしがみついているくせに、

やっぱり“どこかに戻る場所”がほしい自分がいる。


「こっちも仕事始めは地獄だったぞ。体壊さないようにな」という返信が、私の現場とハルの部屋を細い線で繋げていた。


タナカは思う。

“うまく話せないままでも。

不器用でも。

こうして誰かと同じ季節を生きている―――

そして、春には、あの頃の続きを話せるかもしれない。”


2月、3月

―――この頃の記憶は、正直ほとんど残っていない。


ただ、ハルのGis-code のアバターが途中でアニメ調のイラストに変わった事は覚えてる。


彼のイメージをよく捉えているクオリティの高さには舌を巻いた。


4月になったらどこで拾ってきた画像かどうか聞いてやると心に誓ったことは忘れない。


そして、3月中旬にプロジェクトの炎上はようやく収まり、現場は久々に静けさを取り戻してきた。


毎日、気がつけば夜。デスマーチの終わりとともに、心と身体がごっそり削られていく感覚もそろそろ終わりだ。


なんだかんだで最後まで踏ん張ったからか、上司の田所さんは「お前がここに残りたいなら交渉してやる」とまで言ってくれた。

その言葉は、少しだけ胸に響いたけれど、私は静かに首を横に振った。


「ありがとうございます。大丈夫です。

……代わりと言っては恐縮ですが、さすがに大変だったので一週間だけ有給の許可をもらってもいいですか?

さすがに、ちょっと休みたいです」


田所さんは一瞬驚いた顔をしてから、すぐにふっと笑った。


「おお。そうか。そうだな。私の名前で許可しておくよ。一週間もあれば、引っ越しが終わった後もゆっくりできるな。……誰かと会ったりするのかね?」


私は、わずかに照れながらも、しっかり答えた。


「はい。親友と、久々に遊ぶんです」


その言葉を口にした瞬間、やっと自分の人生が“次のページ”に進みはじめた気がした。


正直、できればハルに引っ越しを手伝ってほしかった。


でも、ぎりぎりまで現場にしがみついていたせいで、引っ越しの日も、時間も、ろくに連絡できていなかった。


結局、業者に丸投げで荷物をまとめて、先に送りつけることになり、実家の狭い部屋に段ボールが山積みになることとなる。


それでも、不思議と後悔はなかった。


昔の私みたいな自信は、もういらない。

この数ヶ月、負け犬じゃなく、ちゃんと戦いきった人間になれた気がする。


今なら胸を張って、ハルにここしばらくのデスマーチを語ってやれる。

「ごめん、正月はゲームできなかったな」って、笑って言い切ってやるつもりだ。


そう思うと、足取りがほんの少しだけ軽くなった。


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