第16話 誰でもないわたし





詩織は、灯の髪を梳いていた。


柔らかな髪を、丁寧に、ゆっくりと。


窓の外では雨が降っていた。静かに、絶え間なく。


「……詩織、わたし、夢を見たの」


灯が、ぽつりと呟く。


「夢の中で、わたし……男の子だった。名前は……」


「言わないでいい」


詩織の指が、灯の唇にそっと触れた。


「あなたは、灯。わたしの灯。それ以上でも、それ以下でもない」


灯は頷いた。まるで、自分の意志ではないかのように。


身体はすっかり変わってしまった。

顔も声も、記憶の中にある「光」とは似ても似つかない。


街ですれ違う誰も、灯のことを「光」だとは思わない。

家族でさえもそうだった。


「……あのね、詩織。最近、夢の中のわたしが『助けて』って言ってくるの」


灯は空を見上げるように言った。


「……でも、その声、もう誰の声か分からないの。自分の声なのか、他人の声なのか」


詩織は髪を梳く手を止めた。


「――それは、あなただよ。あなたの心が、そう言ってるだけ」


「……心、って……わたし、まだ心が残ってるのかな」


「残ってるから、苦しむの」


詩織の手が、灯の頬を撫でる。


「でも、それもすぐに消えるわ。全部わたしが消してあげる。苦しみも、名前も、過去も」


灯は首を横に振らなかった。


詩織の言葉に、救いを感じたからだ。


それは正しくはなかったかもしれない。

でも、それ以外の道が見えないから、そこに沈むしかなかった。


その夜、詩織は灯の手を取った。


冷たい指先。震えていた。


「あなたに、新しい名前を贈る」


詩織が告げたその音は、柔らかく、けれど灯の中の何かを壊す響きだった。


「あなたはもう、灯ですらなくていい。すべての名前から自由になって、ただわたしのものになるの」


「……うん」


「言って」


「……わたしは……わたしは、詩織の……もの」


涙が落ちる音が、畳に染み込んでいった。


灯の中にある“かつて誰かだった記憶”が、もう声をあげなくなっていた。


それからの日々は、静かだった。


詩織は優しかった。以前よりもずっと、穏やかで、手を取ってくれた。

灯は部屋にいて、外に出ることもなくなった。

記憶も、感情も、すこしずつ削ぎ落とされていった。


それが不幸かどうか、灯にはもう分からなかった。


ある日、詩織は灯に言った。


「あなたがこれから誰にも見つからないように、わたしが守ってあげる」


「うん……詩織がいれば、わたしは……」


その言葉の続きを、灯は言わなかった。


ただ抱きしめられて、目を閉じた。


そして、最後の夜が来た。


部屋には雨の匂いが漂っていた。

灯はすっかり痩せて、髪も長くなっていた。


詩織はその髪を撫でながら、ひとことだけ囁いた。


「――もう、終わりにしようか」


「……うん」


灯の声は、ほとんど聞き取れないほど細かった。


「でも、その前に……詩織」


「なあに?」


「最後に、名前を呼んで。わたしの……本当の、名前を」


詩織は少しだけ、目を伏せた。


しばらくの沈黙のあと、彼女はそっと耳元で囁く。


「――光」


灯のまぶたが、わずかに震えた。


そして静かに、笑った。


涙は流れなかった。


「……ありがとう」


その声は、もう灯でも光でもない、誰かの声だった。


詩織は目を閉じて、その体を抱きしめた。


誰でもない少女を、そっと、壊さぬように。


雨は夜が明けても止まなかった。


誰のものでもない朝が来て、

誰のための未来も訪れない部屋で、


すべてが、静かに終わりへ向かっていた。


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