夏の来な処で君を語る

裃左右

第1話 止まぬ蝉時雨

 蝉の声が、遠い。

 薄い絹を一枚、また一枚と重ねた向こう側から、じわじわと響いてくるように、現実感のない記憶が鼓膜を揺らす。

 確か、茹だるような暑気に当てられたはずだ。でも、肌を撫でる風はひんやりと冷たい。温度も曖昧な不思議な感覚だった。

 目の前には、鬱蒼と茂る木々。葉の一枚一枚が、陽を吸い込んでは淡く発光しているように見える。鮮やかな緑。

 踏みしめる土の感触は、水面を歩いているかのように頼りない。


「待って!」


 自然と声が出た。俺は誰かを呼ばなければならない。

 誰かを追いかけなければならない。胸の奥から、燻る焦燥感が俺を急き立てる。

 ふと、視界の端に白い影が映った。


 ――いつの間にか、木陰の下に彼はいた。

 自分よりも小柄な少年が、陽の光を避けるように木陰に佇んでいる。色素の薄い髪が、時折吹く奇妙な風にさらさらと揺れていた。

 白いシャツに、膝丈のズボン。肌は驚くほど白く、磨かれた磁器のよう。

 顔立ちは、靄がかかったようにはっきりとは見えない。けれど、その存在だけは俺を惹きつけてやまない。


「……やっと来たね」


 幼く声は澄み切っていた。近づきたいのに、足が思うように動かない。泥でもがいている気分だ。

 少年の細く、白い指が差し伸べられた。

 その手のひらに、何か黒いものが描かれているのが見えた。文字だろうか。滲んでいるけど、「はやと」と拙い字で俺の名前が。

 視界に走るノイズ。


『これで、ずっと一緒だな!』

『――うん、ずっと』


 懐かしいような、胸が締め付けられるような、甘く切ない響き。

 この手を……手を繋がなければ。あの手に、触れなければ!

 必死に手を伸ばそうとした瞬間、足元の地面がぐにゃりと歪んだ。視界が暗転し、深い穴に落ちていくような浮遊感に襲われる。


「あっ! ダメだ、まだ! アイツにまだっ」


 叫びは音にならず、喉の奥で空回り。

 最後に見たのは、こちらを見つめる少年の――悲しげな、なにかを諦めてしまったような、そんな瞳だった。


「……俺はっ!」


 俺は、勢いよく上半身を起こした。

 心臓が、警鐘のように激しく脈打っている。全身にびっしょりと汗をかいていた。荒い息を整えようと、深く深呼吸を繰り返す。

 見慣れた天井。放り出された机の上の教科書。好きなバンドのポスターは壁に貼られる。

 窓の外は、まだ薄暗い。ほんのり明けが差す、街が目覚める寸前の静寂だ。

 俺の部屋だ……間違いなく、俺の。


「はあ、またあの夢か」


 ここ最近、決まって見る夢だった。

 内容はいつも断片的。けれど、後に残る胸のざわめきと、言いようのない喪失感だけは、妙に生々しい。

 夢の中の少年。

 顔も名前も思い出せないのに、ひどく懐かしい。そして、どうしようもなく切ない。どこかにとても大切なものを置き忘れてきたような、感覚に囚われる。


「誰なんだよ、あいつ。……クソ」


 悪態まみれの声は掠れていた。

 俺は、汗に濡れた前髪を乱暴にかき上げると、ベッドの端に腰掛け、しばらくの間、暗い窓の外をぼんやりと眺めた。

 何も聞こえない、静かな都会の朝。

 なのに、耳の奥ではまだ、あの蝉時雨が鳴り響いているような気がした。



****



 アスファルトの照り返しが、熱となり揺らめく七月の初め。

 俺、草下 隼人くさか はやとは、リビングのソファに深く沈み込み、スマホの画面を漫然と眺めていた。とてもじゃないが、外なんて出歩こうと思えなかった。

 成績のこと、部活のこと、友人のどうでもいい噂――全部ぜんぶ思考の表面を滑って消える。

 最近、見てる夢のせいで、なににも身が入らない。

 それが断ち切られたのは、親父の一声だった。


「隼人、ちょっといいか?」


 親父の、いつもより改まった声色に、俺は億劫になった。食卓に、母さんがどこか申し訳なさそうな顔で座っている。

 嫌な予感がした。


「なんだよ、親父」

水楢みずならのばあちゃんなんだが……じいちゃんが亡くなってから、ずっと一人だろ?」

「ああ、まあ。そうだな」


 水楢村。親父の実家がある、山間の小さな村。最後に訪れたのは、いつだったか思い出せないほど幼い頃だ。

 祖父の顔も、ぼんやりとした影のようにしか記憶にない。


「でな、ばあちゃん、最近は足腰も弱ってきてるらしい、いろいろと大変でさ」

「いろいろって?」

「土地の管理とかそういうの。早めにおれに譲るって言うんだ」

「あー……山持ってるんだっけ?」

「そうそう。で、母さんと相談して、こっちの仕事は畳んで、水楢に戻ろうと思う」

「は? マジで?!」


 もうスマホをいじってる場合じゃない。冗談じゃないのは、親父の真剣な眼差しが物語っていた。


「んん、ばあちゃんの世話もあるしな。おれも仕事、なんとかなると思うし。しばらくは向こうが拠点になる」

「ちょ、待てよ! なんで俺まで!」


 思わず漏れた不満の声に、親父が眉間に皺を寄せた。


「当たり前だろう、家族なんだから」

「でも、学校は……」

「手続きはこっちでする。あっちの高校に転校だ」

「わかるけど! 友だちだっているのに……」

「ああ、それは……悪いな。でも、昔は水楢で楽しそうにしてただろ? 虫捕りとか、川遊びとか。小さい頃、じいちゃんやばあちゃんに懐いてたじゃないか」


 俺には幼い頃、母さんが長い闘病生活に入ったせいで、祖父母の家で暮らしてた時期がある。

 だが、それが良い思い出だったのか、悪い思い出だったのかすら今となっては判然としない、霞のように微かな記憶だった。


「そんなの、覚えてねえよ……」


 ようやく返せたのはぶっきらぼうな返事。でも、本心だった。

 ただ、小さな棘が引っかかっているようで、憂鬱な気分になった。

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