第37話『小夜の笑み、初めての春』
夜明けの風がやわらかく吹き込み、湯宿・水戸屋の庭には小さな桜の蕾が揺れていた。
小夜は朝早くから動き回っていた。花見の準備のために竹籠を抱え、川沿いの桜並木へ向かう。昨夜の雨で地面は湿っており、草の匂いが強く香っていた。雨上がりの空は澄んで、遠くの山の輪郭がはっきりと見えていた。
川の流れる音が耳に心地よく響き、桜の枝の間から零れる光が水面を揺らす。小夜はその光を見つめながら、小さく息を吐いた。自分がここでこうしていることが、まだ少し不思議だった。
小夜はかつて、追われる立場だった。剣を握り、常に背後を気にして生きていた日々。そのころの自分は笑うことも、誰かと肩を並べて桜を見ることもなかった。
◇
村の子どもたちが走ってきた。「小夜姉ちゃん、手伝うよ!」小さな手が、桜の枝を揺らして花びらを落とす。小夜は驚いたように振り返ったが、すぐに目を細めた。
「危ないから、走るときは気をつけるんだよ」
その言葉に子どもたちは笑いながら、「はーい!」と答え、また走り回った。桜の花びらが風に舞い、川面へと流れていく。小夜はそれを見ながら、小さく笑った。
笑った自分に気づき、少しだけ戸惑った。笑うことを忘れていた自分が、今こうして自然に笑っていることが不思議だった。
◇
花見の準備を終えたころ、春日が近づいてきた。彼は薪を抱え、ふと立ち止まって小夜を見た。
「笑ってたな」
その言葉に小夜は振り返り、目を見開いた。
「……見てたの?」
「うん。いい笑顔だった」
小夜は頬を赤らめ、視線を逸らしたが、その口元には笑みが残っていた。春日は小さく笑い返し、そのまま薪を抱え直して歩き出した。
◇
花見の日、湯宿の庭は桜で彩られ、村人たちの笑い声が響いていた。小夜は花びらを拾う子どもたちを見守りながら、そっと桜の木に触れた。その桜はまだ若く、枝は細く、風に揺れていた。
「小夜姉ちゃん、一緒に遊ぼう!」
子どもたちの声に、小夜は少し考えてから頷いた。そして子どもたちと一緒に走り、花びらを掴もうと手を伸ばした。
笑顔が自然と溢れていた。桜の花びらが風に舞い、小夜の髪に触れる。その時、小夜は初めて、自分が笑っていることを心から嬉しいと思った。
◇
夕暮れが近づくと、桜の下で村人たちは湯宿の膳を囲みながら笑い合っていた。光圀が杯を持ち上げ、「春は人の心を解かす」と語ると、周囲から笑い声が起きた。
小夜はその声を聞きながら、遠くで川の流れる音に耳を澄ませた。春日が隣に立ち、空を見上げていた。
「この音は、春の音だな」
春日の言葉に、小夜は小さく頷いた。
「うん、春の音だね」
桜の花びらが川面に落ちて流れていく。その流れを見つめながら、小夜は心の奥で、これからもこの場所で笑っていたいと思った。
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