第34話『睦月、風を見る』

春の風が山を撫でる朝、睦月は水戸屋の屋根から山の稜線を眺めていた。雪解け水で川が膨らむ音が遠くに響き、木々の間を渡る風の匂いが冬の硬さを洗い流していた。


この宿に来てから、睦月の任務は変わった。かつては隠密として命を奪うために動いていたが、今は水戸屋とその周囲を見守り、人々が安心して湯に浸かり、笑顔で飯を食べる時間を守ることが自分の役目になった。


だが、その朝の風は、どこかにわずかな濁りを含んでいた。


睦月は静かに屋根から降りると、小夜に目配せをした。


「風が変わった」


小夜は一瞬だけ目を見開き、そして頷いた。


「村外れを、見に行くの?」


「……ああ」



山道には、春の泥濘がまだ残っていた。踏み固められていない地面に、小さな草の芽がいくつも顔を出していた。その中を、睦月と小夜は音を立てぬように歩いた。


鳥が鳴き、風が木の枝を揺らす。その音の中に混じって、僅かに衣擦れの音があった。


「右手、崖下……」


小夜がささやく。


睦月は目を細め、崖下の茂みを見つめた。草を踏み分ける小さな音。人の気配があった。


やがて姿を現したのは、粗末な旅装の若い男だった。背は高くはなく、やせ細った体を小さな風呂敷包みだけで覆っていた。


「ただの旅人……に見えるけれど」


小夜の呟きに、睦月は首を横に振った。


「旅人がこの時期、この道を歩く理由がない」


水戸屋へ向かう道は別にあり、この山道を使うのは猟師か、何かを隠す者だけだ。


男は周囲を警戒するようにきょろきょろと見回しながら、山の奥へ進もうとしていた。その歩みは速くなく、むしろ何かに怯えるような足取りだった。


「追う?」


小夜が睦月を見た。


「追う。だが姿は見せるな」



木々の間を縫うように男を追いながら、睦月は呼吸を整えた。小夜は木の影から影へと音もなく移動し、その目は鋭く男の動きを捉えていた。


やがて男は開けた場所に出た。そこは冬の間閉ざされていた小さな祠の跡だった。雪解けで崩れた石が転がり、祠の屋根は壊れていた。


男は周囲を見回すと、小さな風呂敷を地面に置き、中身を取り出した。小さな包みの中には、布に包まれた何かがあった。男はそれを石の上に置くと、何度も頭を下げていた。


「何をしているの……?」


小夜の呟きに、睦月は目を細めた。


「墓参り……いや、供物か……」


風が吹き、男の帽子が飛ばされた。慌ててそれを追いかける男の顔が、一瞬だけ見えた。その顔に刻まれた深い皺と、恐怖と後悔が入り混じった表情を、睦月は見逃さなかった。


「水戸屋へ戻る。光圀様に伝える」


「……わかった」


二人は音もなくその場を離れた。木々の間を渡る春の風が、また少し変わったように感じられた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る