第34話『睦月、風を見る』
春の風が山を撫でる朝、睦月は水戸屋の屋根から山の稜線を眺めていた。雪解け水で川が膨らむ音が遠くに響き、木々の間を渡る風の匂いが冬の硬さを洗い流していた。
この宿に来てから、睦月の任務は変わった。かつては隠密として命を奪うために動いていたが、今は水戸屋とその周囲を見守り、人々が安心して湯に浸かり、笑顔で飯を食べる時間を守ることが自分の役目になった。
だが、その朝の風は、どこかにわずかな濁りを含んでいた。
睦月は静かに屋根から降りると、小夜に目配せをした。
「風が変わった」
小夜は一瞬だけ目を見開き、そして頷いた。
「村外れを、見に行くの?」
「……ああ」
◇
山道には、春の泥濘がまだ残っていた。踏み固められていない地面に、小さな草の芽がいくつも顔を出していた。その中を、睦月と小夜は音を立てぬように歩いた。
鳥が鳴き、風が木の枝を揺らす。その音の中に混じって、僅かに衣擦れの音があった。
「右手、崖下……」
小夜がささやく。
睦月は目を細め、崖下の茂みを見つめた。草を踏み分ける小さな音。人の気配があった。
やがて姿を現したのは、粗末な旅装の若い男だった。背は高くはなく、やせ細った体を小さな風呂敷包みだけで覆っていた。
「ただの旅人……に見えるけれど」
小夜の呟きに、睦月は首を横に振った。
「旅人がこの時期、この道を歩く理由がない」
水戸屋へ向かう道は別にあり、この山道を使うのは猟師か、何かを隠す者だけだ。
男は周囲を警戒するようにきょろきょろと見回しながら、山の奥へ進もうとしていた。その歩みは速くなく、むしろ何かに怯えるような足取りだった。
「追う?」
小夜が睦月を見た。
「追う。だが姿は見せるな」
◇
木々の間を縫うように男を追いながら、睦月は呼吸を整えた。小夜は木の影から影へと音もなく移動し、その目は鋭く男の動きを捉えていた。
やがて男は開けた場所に出た。そこは冬の間閉ざされていた小さな祠の跡だった。雪解けで崩れた石が転がり、祠の屋根は壊れていた。
男は周囲を見回すと、小さな風呂敷を地面に置き、中身を取り出した。小さな包みの中には、布に包まれた何かがあった。男はそれを石の上に置くと、何度も頭を下げていた。
「何をしているの……?」
小夜の呟きに、睦月は目を細めた。
「墓参り……いや、供物か……」
風が吹き、男の帽子が飛ばされた。慌ててそれを追いかける男の顔が、一瞬だけ見えた。その顔に刻まれた深い皺と、恐怖と後悔が入り混じった表情を、睦月は見逃さなかった。
「水戸屋へ戻る。光圀様に伝える」
「……わかった」
二人は音もなくその場を離れた。木々の間を渡る春の風が、また少し変わったように感じられた。
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