第27話『毒の正体──薄紅の花』

春日の寝息は、かすかに不規則だった。


 奥の湯治場の離れ、湯けむりに煙る囲炉裏の奥で、彼は静かに横たわっていた。小夜と睦月が見つけてから丸一日が過ぎた。脈は浅く、呼吸は弱々しい。唇に触れると、微かな熱がある。


「やっぱり、これは……毒だね」


 そう呟いたのは、薬草の知識に長けた紗枝だった。彼女は木箱を開き、数種類の乾いた葉や根を取り出している。


 「正確な種類は分からない。でもこれは──油に混ぜられたものだと思う。皮膚から吸収される類いの……」


「皮膚?」


 小夜が問い返す。


 紗枝は頷く。「椿油だよ。傷薬として使われるの、知ってるでしょ。あれに混ぜられてた。春日さんの肩の傷跡、丁寧に手当されてたけど……そこから吸収された可能性が高い」


「なら、誰が油を……?」


 睦月の問いに、場の空気が凍った。


 それは、内からの犯行を示唆する言葉だった。


 だが、光圀が静かに首を振る。


「……油はここで調達したものではない。あの夜、春日が湯に入る前、自分の荷物から取り出して塗っていた。いわば、自らが持ち込んだ毒だ」


「それじゃ、誰かがその油に……」小夜の声がかすれる。


「混入させたのだ。春日が知らぬまま、信じて使ったものに」


 しばし、沈黙が囲炉裏を包んだ。


 遠くで、川の流れがごうごうと音を立てている。まるで、誰かの怒声が押し寄せるような圧力をもって。


「光圀様……犯人に、心当たりは?」


 千代が問う。


 光圀は、囲炉裏の火に手をかざしながら、小さく息を吐いた。


「……春日はかつて、“ある密命”を受けていた。だが、その任務の中で……一人の藩士を処断した。名は、皆川忠正。彼は無実を訴えていたが、春日は命を奪った。藩命だった、という理由でな」


「その遺族、ですか……」


 小夜が呟く。


 「娘がいた。皆川茜。春日の報告書には、“娘は京都の寺に預けられた”とあった。だが、後年、その寺は火事で焼け落ちた。遺体は見つからなかった」


 睦月が短く息をのむ。「では……その娘が、春日を?」


「確証はない。ただ……この椿油に使われていた瓶は、“伏見の香具師”が扱う独特の作りだ。しかも──油に混ざっていた毒は、“紅玉草”という西国でしか採れぬ稀少な花から抽出された成分だ」


 紗枝が頷いた。「紅玉草……私も名前だけは聞いたことがあります。山陰の深くでしか育たない、花びらに毒を含む植物。量を誤れば、自分も死ぬ」


「復讐だ……」


 誰ともなく、そう呟いた。


 「春日様が殺した者の娘が、十余年の時を経て、毒を仕込み、信じた椿油に……」


 小夜は口元を押さえた。


 光圀は、囲炉裏の火をじっと見つめたまま、ぽつりと呟く。


「復讐を、咎めることはできぬ。だが、償いを阻むことも、また罪だ」


 睦月が静かに問う。


「……我らは、どうすればよいのです?」


 光圀はふと目を閉じた。


「生き残った者にできるのは、ただ、背負うことだ。春日が抱えた命令と苦しみを、皆川の娘が抱いた怒りと孤独を……我らが引き受けるしかない」


 夜が更ける。


 春日はまだ目を覚まさぬ。


 だがその寝息は、さっきより少し、穏やかだった。


     ◇


 明け方、睦月が部屋を離れると、廊下に小さな紙切れが落ちていた。


 拾い上げて広げると、震える筆跡でこう記されていた。


《わたしの名を知る必要はありません。


 あの方が償いを選び、生きようとしているのなら、


 それで、もう十分です。


 ただ、父の名を穢したと、言わないでください。


 父は、誇り高く生きました。


 そして、わたしもまた──自分の道を生きます。


 風のように。


 名もなく。香もなく。ただ、春の花のように》


 睦月はそれをそっと畳むと、懐にしまった。


 その時、外から椿の花が、ひとひら、風に舞ってきた。

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