第19話『睦月の仮面、夜の月』

夜の帳が落ちた《水戸屋》の廊下に、影がひとつ忍び寄る。


 睦月──湯宿の裏を支える“護衛”の少女が、廊下の柱に身を伏せたまま、音ひとつ立てずにじりと前へ進んだ。今日、客帳に名を記さなかった“あの青年”は、夕餉の後も部屋に戻らず、ずっと外の空気を吸いに出たままだった。


 「──気配、消えていない……このあたりだ」


 睦月の目は、まるで闇に慣れた猫のようにわずかな灯を拾う。目印は、男の履いていた雪駄の裏。歩き癖か、左の外側がすり減っていた。


 湯宿の裏庭を抜けて、林の縁へ。そこから先は、村人の使わぬ小道。里を囲む裏手の斜面へ続く獣道である。


 「“偶然”にしては、道を知りすぎている……」


 睦月の直感が告げていた。あの男は、ただの旅人ではない。客室に忍ばせていた見張りの針に一切引っかからなかったのも不自然だ。音も気配も残さず、外出した時点で、何らかの訓練を受けていることは明らかだった。


 ──だが、その先が問題だった。


 尾行していたつもりの睦月の背に、いつの間にか気配が現れたのは、ほんの一瞬前だった。


 「動くな」


 囁くような声と同時に、喉元に冷たい金属の感触。


 睦月の瞳が細くなる。男の手は迷いなく、反撃に備えた体勢をとっていた。武芸の型、それも“間合い”の取り方と姿勢が、どこか自分の師範と似ている。


 ──これは、ただの旅人がする構えではない。


「やはり、そなたも“同門”か」


 睦月は言葉を選んで呟いた。男は僅かに息を呑み、喉元から刃を下げる。


 「同門、か……懐かしい響きだな。だが俺は、もう“あちら側”には戻らん」


 男は睦月から距離をとると、木の陰に背を預けた。彼の姿勢は敵意こそなかったが、警戒は解かれていなかった。


 「なぜ、“水戸屋”に来た」


 問いかけに、男は小さく笑った。


 「この宿の名を聞いたとき、懐かしさに足を止めた。それだけだ。看板に“水戸”とあったろう。……俺が、かつて仕えていた家だ」


 「水戸藩……では、あの香も……」


 睦月の胸に、紗枝が語っていた“椿の香”の記憶が蘇る。それは昔、ある女のために光圀が調合させたといわれる香だった。


 「名は……?」


 「名乗ってどうなる。俺は今、名を捨てて旅している。昔の名を語れば、命を狙われるだけだ」


 「通行手形が、偽造だった。水戸藩の様式に酷似していたが、印が違っていた」


 青年の表情が初めてわずかに歪んだ。


 「……見られていたか。だが誤解しないでくれ。俺は水戸を欺くためにここへ来たのではない」


 「では、何のために?」


 その問いに、男は長い間口を開かなかった。木々の間から覗く月が、雲間に差し掛かり、二人の姿を照らす。


 「昔、俺には兄がいた。武芸に優れ、心も清廉で、水戸の某家に仕えていた。だがある日、“お上の意に背いた”として斬首された」


 睦月の心がわずかに揺れる。


 「俺はそのとき、まだ十三。何もできず、ただ、兄の遺体にすがって泣くだけだった」


 「──光圀様の、御名を知っているか」


 男は頷いた。


 「水戸の副将軍。……だが、俺にとっては兄を奪った元凶だった」


 「では、なぜここに」


 「兄の死を受け入れたくなかった。だが、年月が経つ中で、“なぜ斬られたのか”を知りたくなった。そして辿り着いたのが、この宿だ」


 彼の目はまっすぐに睦月を捉えていた。感情はあったが、復讐の気配は不思議とない。


 「俺は知りたいだけなんだ。あのとき、何があったのか。兄は何を訴えて、何を信じて死んだのか。それが──生き残った俺の役目だと思っている」


 ──風が吹いた。冷たい空気のなかに、遠くで湯の湯気が立ち昇る匂いがした。


 「ならば、光圀様に会え」


 睦月はそう告げた。


 「剣も、仮面も要らない。名も、肩書きも、要らぬ。……ただの“客”として、今を語るのだ。それが、あの方が望む“宿”のかたちだ」


 男は、長い間目を閉じ、そして深く息をついた。


 「わかった。……だが、それでも俺は、明日、去るつもりだった。もうひとつだけ確かめれば、いい」


 睦月は首を傾げる。


 「何を」


 男は微笑んだ。


 「“自分が、何者になれるか”を」


 ──翌朝。


 客間を掃除に入った千代の手が止まった。


 机の上に一枚の紙。


 通行手形と、印が添えられた。


 ──水戸藩・旧家臣団に伝わる本物の印。そのすぐ横に、小さく筆で綴られた言葉。


 「兄の声は、風に溶けた。だが、宿の湯煙の中に、確かに残っていた。ありがとう」


 そして──それとともに、部屋の畳の隙間から見つかったのは、一枚の布。


 椿の香りをほのかに残す、古びた手ぬぐい。


 千代はそっとそれを懐にしまうと、笑みを浮かべた。


 「……旅人か。いい客人だったじゃない」


 その日、《水戸屋》の煙突から立ち昇る湯煙は、どこかいつもより高く、長く、そして暖かかった。

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