第2章:『偽りの客と、欠けた灯──名もなき悲しみの夜』

第17話『宿帳の余白、空白の名前』

 水戸屋の湯煙が、春先の風にふわりと昇った。

 寒さが残る山の空気を裂くように、早朝から薪を割る音が庭に響いている。

 睦月が手際よく薪を積み、小春が湯殿の掃除を終えると、紗枝が香の調合をしながら顔を上げて言った。


「今日は……風が、花の香りを混ぜてる」

「どの花のことだ?」


 小夜が問うと、紗枝は首を傾けてから、目を閉じて静かに香りを吸い込んだ。


「……椿。けれど、それだけじゃない。椿の奥に、誰かが落とした記憶のにおいがする」


 言葉の意味は曖昧だったが、その数刻後、誰もが彼女の感覚が“正しかった”ことを知ることになる。


 昼過ぎ、門の前に一人の客が現れた。

 淡い鼠色の羽織に、控えめな裾の仕立て。

 旅装束ではあるが、背筋が伸び、歩く姿に乱れがない。

 その男は、門の前に立つと、軽く頭を下げて言った。


「湯を借りたい。……一晩、泊まれれば尚、ありがたい」


 光圀が玄関で迎えると、その男は穏やかに礼を述べ、宿帳に筆を取った。

 が、光圀はその動きをじっと見ていた。

 筆を取る手に、一瞬のためらい。

 そして、書かれた名はただ一言──『旅人』。


「お名前は?」

 小春が問いかけると、男は柔らかく微笑んで首を横に振る。


「名乗れる名は、今は持たぬ」


 小夜がその男を玄関先から湯殿へと案内するあいだ、どこか目を細めていた。

 その仕草、その足運び。

 「何か」を見たような気がする──けれど、それは掴めぬまま霧の中に消えていく。


 その夜、宿の囲炉裏端で、客の男は湯から上がったあとも他人と交わらず、手元の巻物を解いていた。

 内容は、どうやら古文の一節であり、筆跡は練達者のものだった。


 光圀は、目の前の茶を啜りながら声をかける。


「そなた、学があるな。どこかの藩校で修めた口か」


「……昔の話です。今は、ただの旅人」


 その言葉に嘘はなかった。

 だが、何かを“伏せた”響きがあった。

 光圀はそれを追及しようとはせず、むしろそれを肯定するように小さく頷いた。


「旅というのは、名を捨てるものでもある。余も若いころ、そうであった」


 青年は少しだけ目を見開き──やがて微かに笑った。

 その顔は、美しかった。が、それ以上に「整いすぎている」印象を、小夜は強く感じていた。


 その晩、睦月はさりげなく青年の部屋の戸口を確認し、ふと足を止める。

 床にわずかに置かれた手巾(てぬぐい)から、香が立ち上っていた。

 椿香──かつて水戸藩で特別に調合された、数少ない品種の香。

 かつて、ある女のために光圀が求めさせた香だった。


 そして、それを愛用していた男も、確かにひとり、いた。


 その名を、睦月はすぐには口にできなかった。

 ただ、手巾のほつれに指をあてたとき、その縫い目に見覚えがあることを確信する。

 縫ったのは──間違いなく、かつての水戸屋敷の針子。


 翌朝、小夜が早朝の庭で草を摘んでいると、その男が静かに現れた。

 彼女は驚くそぶりを見せず、むしろ自然に声をかけた。


「お早うございます。湯加減、いかがでしたか」


「……とても、温かった。ひとを“戻す”湯ですね」


 その言葉に、小夜の手が一瞬止まった。

 あの言葉は、光圀がかつて語った“水戸屋の理想”と同じものだった。

 なぜ、この男がそれを知っているのか──。


「お顔を、どこかで……」

「人違いでしょう」


 笑って否定されたその顔に、なお既視感は消えなかった。

 だが、それ以上追及すべきではないと本能が告げていた。


 宿帳の名前の欄は、まだ空白のままだった。

 けれど、名も、過去も、必要ではない客もまた、この宿の“一部”なのだと、小夜は少しだけ思った。


 光圀が、囲炉裏に薪を足しながら、誰にともなく呟いた。


「名を持たぬ者ほど、深く根を張っておるものだ。……さて、今宵の湯加減も、少しぬるめにするか」


 湯宿・水戸屋は、静かにまたひとつ、心を迎え入れた。


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