第7話『罪に罰を、そして“居場所”を』

早朝、まだ陽が昇り切らぬ水戸屋の裏庭に、風に揺れる白い湯巻きと、干された雑巾が並んでいた。

 鶯が遠くで一声鳴き、どこか気まずそうな沈黙が場を支配している。


「……そこ、もう一回絞って」


 睦月の冷静な声が飛ぶ。


「わ、わかってるって……!」


 ぎこちない返事とともに、小夜時雨は縁側の桶に腰を落とし、顔をしかめながら雑巾を絞っていた。


 その手つきは、元盗人とは思えぬほど不慣れで、手の甲にはすでに赤く擦れた跡が幾つも見えている。


 睦月は隣で、まるで忍びの訓練かのように無駄のない動きで雑巾を畳み、順に並べていく。


 二人の間に流れる空気は、例えるなら水の張られた杯。波立たせれば即座に溢れそうな、微妙な緊張感が続いていた。


 


 ──小夜が水戸屋に“残った”翌日、光圀はこう言い放った。


「この者には、雑用係を命ずる。食事、寝床、そして名は与えよう。されど、それは“奉公”によって得るべきものと心得よ」


 事実上の“保護観察”。


 盗人として罰を受けず逃がすのではない。“器の罰”として、この宿で人と共に生きることが、小夜に課された償いであった。


 


 最初の数日は、睦月と一緒に朝の掃除。

 次に、千代と台所で食器洗い。

 昼は薪運びと畑の草むしり、夜は火の番と、囲炉裏の灰掻き──。


「……これは、まさか……忍びの訓練よりキツい……!」


 ぼやいた小夜に、睦月がひと言。


「ならば、修行が足りなかったということ」


「むきぃ……!」


 眉を吊り上げる小夜に、睦月はふと目を細め、問いかける。


「そなた、“忍び”とは何か、考えたことは?」


「……隠れて生きること。人の目に映らず、生きるために動くこと。そう、教わった」


「ならば、今のそなたは“忍び”か?」


「……え?」


「姿を見せ、名を名乗り、人と飯を食べ、器を洗い──それでも、なお“忍び”か?」


 小夜は、答えに詰まった。


 そのとき、縁側の方から声がした。


「ねえ、二人とも、お昼にしましょうか」


 台所から顔を出したのは、柔らかい笑顔の女中──千代だった。


 ふわりとした小柄な体躯、結い上げた髪に手拭を巻き、手には湯気をたてる籠を持っている。


「千代さん……」


「小夜ちゃんも、よく働いたねえ。はい、おにぎり二つと、お漬物。これ、今日のお昼ね」


「えっ、あ、ありがとうございます……」


 まさかの“褒美”に戸惑いながらも、小夜は受け取った。


 睦月も一礼してから縁側に腰を下ろし、静かに箸を取る。


 千代はそんな二人の姿を見て、やんわりと笑った。


「ね、小夜ちゃん」


「は、はい」


「この前、器のこと……少しだけ聞いたけどね。……あれって、“盗んだ”んじゃないよね?」


「……」


「“戻しに来た”んでしょ? ……思い出を、戻しに」


 


 その言葉に、小夜の手が止まった。


「それってさ……きっと“生きる手段”だったんだと思う」


「……生きる……?」


「そう。生きるって、戦うことだけじゃないよ。思い出を信じるとか、誰かをもう一度想うとか。そういうのも、きっと“生きる手段”なんだって、あたしは思うの」


 


 小夜は、視界が滲んだのを感じた。


 けれど、涙を見せるのが悔しくて、俯いて、おにぎりにかぶりついた。


「……おいしいです……」


「ふふ、よかった」


 


 その昼下がり、小夜は初めて“笑いかけられたこと”に対して、素直に返事をした。


 


 日が傾いた頃。光圀は囲炉裏のそばで、帳面に筆を走らせていた。


 そこへ、小夜が遠慮がちにやって来た。


「あの……旦那様」


「うむ?」


「……“主”って、呼んでいいでしょうか」


 光圀は目を上げ、静かに笑んだ。


「よいぞ。“主”など久しく呼ばれておらぬゆえ、耳に心地よい」


「……ありがとうございます」


 


 そして、小夜は口ごもった後、問いを投げた。


「……私を、許してくださったのは、どうして……」


「理由か?」


「はい。だって……器のために、ってだけじゃ──」


 光圀はしばし沈黙し、筆を置いた。


「そなた、常陸に伝わる“時雨の伝説”を知っておるか?」


「……え?」


「山の民が語る昔話じゃ。春を告げる時雨に濡れた竹は、節目が増えるという。つまり、雨に打たれてこそ、人もまた節を増す。──そう信じておる」


 小夜は、息を呑んだ。


 そのとき、彼女の脳裏に、かつての任務で耳にしたある話が蘇った。


 ──“徳川光圀”。水戸の副将軍。

 ──自ら城を出て、諸国を行脚し、民の声を聞いたという、あの老中。


 まさか──まさか、あの“黄門様”が、目の前のこの──


 


 小夜の顔色が、みるみる変わった。


「……と、徳川……光圀、様……?」


 睦月がふっと目を上げる。助角も、それとなく様子を伺っていた。


 光圀は、にやりと笑う。


「その名は、もう置いてきた。今のわしは、ただの“湯宿の主”じゃ」


「で、でも、でも……!」


「構わぬ。そなたが器を守り、ここに在る限り、わしもまた、名を伏せて在り続けよう」


 


 小夜は震える膝で座り直し、深く深く、頭を下げた。


「……もし、それが、嘘でないなら──こんな殿様に、私は……仕えたいと思います」


 


 その声に、囲炉裏の火が、ひときわ高く揺れた。


 睦月がその様子をじっと見つめ、初めて言葉を落とす。


「……ようやく、同じ場所に立てたようですね」


 


 水戸屋にはまた一つ、“生きる決意”が加わった。


 少女が背負った罪は、器とともに宿され、

 その罰は、人と共に生きる“居場所”として結び直されていく。


 


 そう──罪の終わりは、償いの終わりではない。


 そこから始まる、“人と共にある日々”こそが、本当の罰であり、

 そして──それこそが、生きる“救い”だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る