5月20日 (奇跡の真実)




 リビングには、母さんと俺、ふたりきり。


 窓から差し込む夕方の光が、レースのカーテン越しにやわらかく広がっている。


 ポットのお湯がかすかに湧く音、時計の秒針がコツコツと刻む音。


 さっきまで何気なかったはずの生活音が、妙に鮮やかに耳に届く。



 母さんは、湯のみを手にソファに腰を下ろしていた。

 その横顔は穏やかで、でも少しだけ疲れているようにも見えた。




「本当、奇跡よね。あんなに元気になるなんて」



 葵の背中を目で追いながら、母はふっと微笑む。


 ぽつりとこぼしたその声は、誰に言うでもない独り言のように、空気に溶けた。




 ……奇跡。



 その言葉が、心の奥にしずかに触れた。




 胸の真ん中に、小石を落としたみたいに、波紋が広がっていく。




 ――奇跡。




 それは、俺にとってはもう、あまりにも重たい言葉だった。




「……ああ、そうだな」


 かろうじて返した声は、少し掠れていた。

 自分でも、うまく出せていないのがわかった。




 母はそれ以上、何も言わなかった。


 秒針の音だけが、静かに部屋を満たしていく。


 俺は、小さく息を吐いた。




 “奇跡”のままで終わらせるなら、それでもいいのかもしれない。

 でも――


 このまま母が、何も知らずに「奇跡だった」と信じて過ごしていくことを思うと、どうしても胸が軋んだ。


 何も知らないまま微笑んでいる母に、すべてを打ち明けるべきではないのか。





 “命”が動いた本当の理由を。






「……なあ」



 声が自然に漏れた。




「ちょっと、話があるんだけど」




 母は湯のみを置いて、ゆっくりとこちらを振り返る。



「なに?また何かしたの?」


 そう軽く笑って言った。



 その何気ない冗談が、まるで心に突き刺さるようだった。



 無防備で、穏やかで、いつも通りのその笑顔――


 何も知らずに目の前にいる母が、今この瞬間だけは、どこか手の届かない場所にいるように感じられた。


 俺がこれから伝えることは、その笑顔の奥にある安心や日常を、たしかに崩してしまう。

 わかっている。


 それでも、伝えなければならないと思った。






「……落ち着いて聞いて欲しいんだけどさ」




 そして、ゆっくりと、言葉を選びながら話し始めた。


 時折、言葉が喉につかえて、沈黙が挟まる。

 それでも、逃げずに伝えた。


 父のノートのこと。


 湖畔の小屋にいた、ジャノンという名の不思議な老婆のこと。



 そして――


 自分の寿命を差し出して、葵の命を救ったこと。



 ひとつひとつ、声にするたびに、胸の奥が締めつけられる。


 信じられない話だと、自分でも思う。


 だけど、これは紛れもなく、俺の選んだ現実だった。




「……どういう……こと?」


 その声は、かすかに震えていた。


 湯のみの縁に手を添えたまま、母の指がかすかに揺れているのが見えた。


 目には涙が溜まっている。

 その一滴を見るだけで、胸の奥がじわりと痛んだ。



「だから……俺は葵に、寿命をやったんだ」



 しばらくの沈黙のあと、ようやく口にした言葉だった。

 母は息を呑み、小さく首を横に振った。



「ジャノンっていう人の話では、葵は天寿をまっとうできるらしい。……だから、良かったよ」



 そう言いながらも、自分の声の冷たさに、吐き気がしそうだった。

 納得なんてしていない。けれど、他に道はなかった。




「そんなの、許されるわけないでしょ……!」




 怒気を含んだ母の声が響き渡る。

 その目は俺を、責めていた。



「だったら、私の寿命を使って!あなたの代わりに、私が行く。今すぐに、私をジャノンの元へ連れてって!」



 目の前の母は、まるで全身で懇願しているようだった。


 ……頼むから、分かってくれ。

 この期に及んで、取り消すなんて道は、もう残されていないんだ。



「……母さんがいなくなったら、葵はどうなるんだよ」



 言いながら、頭の中では親父の顔が浮かんでいた。


 親父がいなくなったあの日から、母は泣くのを我慢して生きてきた。

 それなのに、今度は息子を失おうとしている。



「父さんを失って、今度は蓮まで? そんなの……そんなの、私は絶対に認めないから!」



 泣きながら、叫ぶ。

 言葉が、心の奥に突き刺さる。



「……やめてくれ」


 声がかすれた。



 一瞬、母の涙が視界をにじませた。まるで、自分の意志が揺らいでいく音が、耳の奥で鳴った気がした。



 もうこれ以上、自分の覚悟が揺らぐのが怖かった。



「俺はこれで……満足してるんだよ」



「満足って……なにが」



「見てわかるだろ。前よりずっと、俺の顔は清々しいって思わないか? 皮肉だけどそれは、“旅立ちの日”が決まったからなんだ」



 母は絶句した。

 そして、嗚咽を押し殺すように、ぽつりと漏らした。



「信じられない……」



 俺も信じたくなかった。

 でも、それでも伝えなきゃいけないことがある。



「……それから、父さんもな。実は……俺と同じ選択をしてたんだ」



 母の目が、静かに見開かれる。





「え……?」


 表情が、静かに揺れていた。




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