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動物病院の裏手にある薄汚れた小さな銭湯は、三崎の言うとおり本当にもう開いていた。
こんな時間に客なんかいるわけない。そう思っていたけど、男か女か定かじゃない老人が私たちを追いこし男湯の暖簾をくぐっていった。じゃあなーと、手を振って老人に続く三崎の背中を見て、私は馬鹿げた不安にかられる。
三崎が溶けて出てこないんじゃないかと。
背骨の曲がった老婆の隣に座って、熱いお湯を浴びた。ごしごし頭を洗い身体を洗い、小さな鏡で身体のどこにも三崎が痕をつけていないことを確認する。裏のほうまで丹念に見る。
「あんた、どっか痛いんか」
隣から尋ねてくる老婆の腕は、肉がそげて皮膚が乳房のように垂れさがっている。私は強張った頬のまま笑って、首を振った。
阿久津にこのことがばれたら、三崎は阿久津に殺されるかもしれない。
でも阿久津は興奮して女を殺しかけるだけだから、男を殺したりはしないか。でもラリッたり酔っていたりしたらわからない。男とやれるのかどうかも知らない。どうしよう?ばれようがないはずなのに不安になる。
殺される三崎を案じたわけでも、殺す阿久津を案じたわけでもなくただ、私は三崎に死んでほしくなかった。
私が阿久津と付き合っているのは、イレギュラーで死ねる可能性が高いと思っているからだ。でも自分が生きているうちは、まだ三崎と一緒にいたかった。
だって、阿久津が帰ってくる前にみんなで白浜に行くのだ。
文化祭で下手な軽音サークルをひやかしながらラーメンを食べるし、年越しは帰省なんかせず炬燵で飲んだくれる。ぎゅうぎゅうのバンに乗ってみんなで和くんの地元のスキー場に行く。お花見だってする。今までどおり三崎も一緒に。
ああ、なんでセックスなんかしちゃったんだ。
曇った鏡を見ながら私は、ゆるやかに死にたくなっている。男湯の暖簾をくぐった三崎の背中までもが、死の気配に包まれていく。
私たちは不文律を守りきれなかった。
おちおち湯に入る気にもなれず、「つからんのあんた」と言ってくれる老婆におざなりな返事をして浴場を出た。
慌てて脱衣場で身体を拭き、ティーシャツと短パンを着て、ドライヤーは迷ったけどやめて、さっきまでの服を詰めこんだトートバッグを握りしめて脱衣所を出る。待合処もない銭湯の出入り口のそばで三崎を待った。でも三崎は出てこないような気がした。入ってさえいないような気がした。三崎はそういう男だ。きっと黙って溶けてしまう。
男湯の暖簾を睨みながら十数分立ちつくしていると、三崎はあっさりそこから出てきて、に、と私に笑いかけた。湿った髪がさらにくるくる。
くすぐったかったな。
思い出す。胸を舐められていたときは鎖骨のあたりが、股を舐められていたときは内腿のあたりが、くすぐったかった。
「どう?小さな石鹸カタカタ鳴ってる?」
おどけた三崎が、神田川の歌詞をなぞって聞く。
「石鹸なんか持ってへん」
「冷たいね」
「……夏やし。冷たない」
「ノリわる。せっかく神田川してんのに」
三崎が溶けちゃうとか殺されちゃうとか、そうじゃなくてもそんなんじゃなくてももう一緒にいられない気がするとか、セックスひとつでセンシティブになっている私の不安なんて当たり前だけど三崎は知らない。
なあ三崎、このまま反故にできる?ノリでやっちゃっただけ、でまたもとに戻れる?
「乾」
私の顔を覗きこんで三崎は聞いた。
「怒ってんの?」
私の涙を舐めて、私の額に優しく額をぶつけてキスをした三崎のことを思い出す。三崎は今ここにいるのに、もうそれは戻ってこない過去だ。
「怒ってへん」
後悔してるだけ。三崎、死なんといて。殺されんといて溶けんといて消えてしまわんといて。生きてるあいだは、適当に楽しくに一緒にいよう。もう二度とセックスなんかしいひんから。
だけど今私が泣いたら、三崎はまた私の涙を舐め、額をぶつけてキスをするだろう。とても優しい。
どうしたらいい?泣けばいいのか堪えればいいのかわからず眉間に力を入れていると、三崎は私の額を手のひらで一度だけ撫ぜた。
「グリコして帰ろっか」
なんでそんなに優しいの?
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