第20話 月の輪廻
――氷の剣が砕けた。
その刹那、静寂が世界を覆った。
ツキの身体はハクの腕の中で崩れるように沈み、白銀の霧がふわりと立ちのぼる。
胸を貫いた氷の刃は、もう跡形もなく砕け、ただ赤い花弁のような血のしずくが、石畳に染みこんでいた。
「……ツキ……なあ、ツキ……」
ハクの声は震えていた。
言葉が、喉から抜けない。
ただ、腕に残る重みが、絶望よりも静かに心を締めつける。
頬を伝った涙が、ツキの顔に一雫おちた。
そのとき、静寂の中に足音が聞こえた。
「ハク!!!」
「ツキは無事か!?こっちは大丈夫だ!住人たちは皆、教会に避難してる!」
ナキとクロエの声が、風を切って飛び込んでくる。
だが、ハクは何も答えなかった。
ただ俯いたまま、ツキをそっと抱き寄せていた。
その沈黙に、二人はすぐ異変を感じとった。
赤く染まった石畳みを見たと同時に
風が、血と花の匂いを運んできた。
「……おい、嘘だろ…?」
ナキは低く呻くように呟いた。
近づいた彼の目に映ったのは、真紅に染まったツキの胸と、今にも消えてしまいそうなその顔。
クロエは石のようにその場に立ち尽くした。
「…いや…いやだ……ツキ…!」
声が震え、叫びが洩れ、やがて彼女は膝をつく。
ナキもまた、顔を覆うようにして言葉を失っていた。
「ちくしょうっ……」
ナキは医者として、一目でわかってしまった。この傷から、命を取り戻すことは、ありえないと。
街を包んでいた冷気とは別の、深く冷たい絶望が、その場を静かに満たしていった。
その時だった。
――チリ。
ハクのポケットが、震えだす。
「……っ?」
ハクが顔を上げ、手を突っ込むと
指先が熱を持つ感覚。
取り出すとその小さなキーホルダーは、光を溢れさせていた。
浮かび上がり、ツキの胸に、そっと触れた。
すると、空気が変わる。
音もなく、キーホルダーからやわらかな光が溢れ出した。
あたたかい光は、まるで息をしているかのように脈打ち、ツキの身体をそっと包みこむ。
その光に呼応するように、ツキの腕に浮かんでいた鱗の模様が、じわりと広がっていく。
「な、んだ……?」
ハクが目を見開く。
鱗が指先を、腕を、肩を包みこみ、光はさらに強くなっていく。
ツキの身体がゆっくりと、宙へと持ち上げられる。
その小さな胸が、ふたたび呼吸を刻み始めた。
次の瞬間――
ドン、と空が震えた。
白銀の光が一閃し、眩い閃光と共に、それは現れた。
天を仰ぐ、ひとつの影。
白銀の龍――
それは美しく、儚く、どこか悲しげな瞳をした存在だった。
ナキが息を呑み、クロエも声を失う。
「ツキ……なのか……」
ハクが呆然と呟く。
ハクは、ただ見つめていた。
その光が何を意味しているのか、まだ理解はできていなかった。
けれど、確かに感じていた。
あの夜、ツキが初めてこの世界に現れたとき――モクのキーホルダーが、同じように光を放っていたことを。
あれは偶然などではなかった。
ずっと、あの中にいたのだ。
眠り龍の鼓動が、ツキの中で息を潜めていたのだ――。
龍は、空へ舞い上がった。
美しく、透き通るようなその身体は、まるで月光がそのまま形を持ったようだった。
鱗は星の粒のように輝き、瞳は深い深い海のように澄んでいた。
その姿は恐れではなく、ただ静けさをまとっていた。
――けれど確かに、そこには生の息吹があった。
空を舞う白銀の龍は、しばらくのあいだ、何もせずに街をただ見下ろしていた。
冷え切った家々。教会に集まる人々の灯り。
恐れと祈りとが入り混じった、そのぬくもり。
まるで、自分がそのすべての外にいる存在であることを、確かめるかのように。
一滴の涙が、龍の目からこぼれ落ちた。
その雫は空を裂き、地上へ届く頃には、あたたかな春の風へと変わっていた。
氷は静かに崩れてゆく。
龍が“赦した”ように、街はふたたび息をしはじめる。
白銀の鱗が舞い落ちるたびに、凍った街が溶けていった。
商店のガラスから氷がほどけ、
広場の噴水が音を立てて流れ出し、
凍った時計台が、再び時を刻み始める。
街は――生き返ったのだ。
「すげぇ……」
ナキが、ぽつりと呟いた。
「ツキ、なんだよね……」
クロエもまた、瞳を見開いたまま見上げていた。
ハクは、何も言わなかった。
ただ、ただ、その姿を見つめていた。
その目には、言葉にできないほどの想いが詰まっていた。
やがて――
白銀の龍は、静かに降りてくる。
広場の中心、かつて凍りついた噴水の傍らに、ふわりと降り立つ。
その足が地を踏むと、鱗が一枚、また一枚と剥がれていく。
きらきらと空気の中に溶けて、光の粒になって舞い上がった。
やがてその姿は、少女の輪郭を形づくる。
鱗が所々に残るものの、そこに立っていたのは紛れもなく――ツキだった。
「……ただいま」
声は細く、震えていた。
けれど、その一言が空気を変えた。
ハクが、そっと歩み寄る。
「……おかえり」
言葉少なに、ただそれだけを言って、ツキを強く抱きしめた。
クロエが、泣きながら微笑む。
「ったく…心配かけすぎだよ!ばか!!」
ナキも涙をこぼしながらツキとハクを抱きしめる。
「……よく帰ってきたな。あまりおじさんを驚かさないでくれ……」
と、ぽつりと呟いた。
ツキは、小さく笑った。
その目には、ほんのひと粒、涙が滲んでいた。
空には、まだ銀色の月が浮かんでいる。
けれど、空気はどこまでも穏やかで、あたたかかった。
そう、すべてが、戻ったのだ。
……そう、思っていた。
その時だった――
ギシィ……
空気を裂くように、地面の氷がきしんだ。
ハクが、ツキの前に立つ。
「……来るぞ」
冷たい風の中、氷の粒が舞い上がる。
その中から、ゆっくりと、ひとつの影が現れた。
闇を纏い、無表情のまま歩いてくる青年
ヨル――
その目に宿るのは、燃えるような怒りだった。
「……おかえり、ツキ」
吐き捨てるような声が、広場に落ちた。
強大な闇が歩み寄るとき
空では、銀色の満月がただ黙って
彼らを照らしていた。
希望か、絶望か
答えは、まだ誰にも分からなかった。
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