第8話 忘れられた劇場へ
不思議な静けさだった。足音がやけに響く。
歩き慣れないはずの街の中で、ツキの足はまるで自分の意思ではないように動いていた。
目に映る景色はぼやけて、誰の声も届かない。
混乱と焦りの余韻の中で、ただ、心のどこかが呼ばれているような気がした。
気づけばそこに、古びた劇場が佇んでいた。
___"The Forgotten Theater"
この文字も半分は崩れ落ち、読めなかった。
この名の通り、誰にも思い出されないまま朽ちていくはずの場所。扉も南京錠で封鎖されて入れない。
はずだった___
ツキが近づくと
南京錠が金色に光り、鎖もぼろぼろ崩れてゆく
扉が重苦しい音を立てて開いた。
まるで___待っていた。と言わんばかりに。
恐る恐る中に入ると、空気が一変する。
冷たく、閉ざされ、沈黙だけが支配する劇場。
ゆっくりとスクリーンに近づいていく。
ジジ、ジ___
ふっと、目の前が明るくなり
それは当時のように上映されてゆく。
それは、過去だった___
崩れかけた街。
割れる空、崩壊する時計台、逃げ惑う住人たち
画面の中では、赤髪の少年が叫んでいた。
その瞳は、どこまでもまっすぐで
この世界に太陽を取り戻そうとでもしているかの様だった。
傍らには、パンダの様な大きな男の人もいて
懸命に人々を庇い、少年の後を追う。
そして、突如___
白銀の獣が咆吼した。
巨躯の狼男。
その瞳は赫く、狂気に染まり
怒りと恐怖が混じり合い、何もかもを引き裂いてゆく。
ツキは言葉を失った___
直感で、それが誰なのかを理解してしまったからだ。
「……あれは、ハク……?」
その瞬間、背後から声がした。
「やあ、来てくれたんだね」
ツキが振り返ると、舞台袖の闇から
ヨルが現れた。相変わらずの、柔らかな微笑みを浮かべて。
「君なら来ると、分かっていたよ」
どこか演技がかった口調。
けれどその目は、酷く冷たい。
「どうだった?知りたかった事は、全部知れたかい?」
ツキは言葉を発せず、ただスクリーンの中の
暴走する白銀の獣を見つめていた。
「この世界は、かつて崩壊しかけたんだ。」
ヨルはゆっくりと舞台の中央へ歩み寄る。
「きっかけは___たった一人の"本能の暴走"」
その言葉が、ツキの胸に突き刺さる。
スクリーンの中の狼が、自分の知る優しいハクと重ならないはずなのに、どこか否定できない
「今もこの世界は綱渡りのようなものだよ。」
「本能が薄れれば、世界はまた壊れていく。
君も、きっとそれを感じてるんじゃない?」
嘘だ___と、叫びたかった。
けれど、心の奥底で、何かが騒めく。
ヨルは右手をそっと差し伸べた。
「君の中の力も、もう目を覚まそうとしている」
その言葉に呼応する様に、ツキの足元から薄氷が広がった。
冷たく、儚く、美しく。
けれど、それは明らかに何かを侵食していく力だった。
闇に操られるように、
スクリーンに触れたツキの指先___
その瞬間、映像の一部が凍り始める。
ガキッ
バキッ
音を立てて、フィルムが凍りつき世界が止まる
それはまるで、過去すら封じ込めようとする様だった。
ヨルの声が低く、甘く響く。
「どうだい?気持ち良いだろう?」
「その力は君の中に眠っていたんだ。
さあ、もっと委ねてごらん。」
冷気が暴れ始めた。
意思とは裏腹に、氷は劇場内に広がる。
床を這い、椅子を呑み、壁を凍てつかせていく
まるで劇場全体を支配し、永久に閉じ込めようとするかのように。
ツキの瞳が僅かに赫く光り、
髪も凍りつく様に淡い白になってゆく。
本能の力が加速する。
___氷城が完成しかけたその時、
天井の高窓が砕け、何かが鋭く飛び込んで来た
キィィィンッ!
ガラスの破片がヨルの頬を食い破る。
一筋の赫が、彼の白い頬を染めた。
ヨルが眉を顰める。
「……おや、邪魔が入っちゃった」
ヨルの視線の先___そこにいたのは
冷たい氷の床を踏み締める、白銀の狼のような青年だった。
罪と痛みを纏いながらも、静かにツキを見つめる
(………ハク……)
ハクの姿を見て、ツキの意識はふわりと浮いていく。
暴走による氷の中心部
ツキの元へゆっくり近づき、懐からモクのキーホルダーを取り出した。
そっと、ツキの手にそれを置くと
キーホルダーから仄かな光が広がった。
それはまるで、誰かの手のぬくもりを思い出させるような、優しい月明かりの様な光だった。
それはツキの身体を包み込み、
暴走する氷を柔らかく溶かしていった。
ガラガラと音を立てて崩れ落ちる氷の城。
冷たさの中に、僅かな温もりが戻ってくる。
ツキは、フッとハクの腕の中で気を失う。
ヨルは静かに舌打ちをした。
「まったく……。つまらないな。」
そのまま、闇に溶ける様に消えていった。
ハクは一度も振り返らず、ツキを優しく抱きしめ
氷の瓦礫の中を歩いていく。
スクリーンはすでに割れ、映像は止まっていた
劇場にはもう、誰もいない。
残されたのは、淡い月の光と、凍てついた記憶だけ。
その残響を、ただ月の光だけが静かに見つめていた。
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