第3話 準備

 朝日が昇りだす。


 エイドが牢へ来た時には、ミーニャは起きていた。


 寝床から体を起こし壁際に座っているだけだったが、それは彼女にとって久しぶりの生きる姿勢だった。


 エイドは遠くから、その様子を黙って見守った。


 昨日のやりとりが、ほんの少しだけ彼女を揺らしたのかもしれない。


 いや、たとえそれが思い込みでも構わなかった。


 エイドはそっと距離を保ちながら近づく。


 手には、小さな籠を持って。


「森で採れるのと近い種類の果実だ。君が食べていた木の実に、似ていると思う」


 そう言って、籠をミーニャのそばに置く。


 ミーニャはすぐには反応しなかった。だが、ほんの少しだけ視線を動かし、籠を見た。


 それだけでも、今までと違った。


「これも、人間が作った偽物でしょ」


 低く、冷えた声。


 エイドは首を横に振る。


「違う。これは『黒の森』の奥地でとれたものだ。夜の探索は危うかったが、間に合ってよかった」


 腕や顔にある傷を見て、ミーニャは鼻で笑った。


「......愚かすぎるよ。あなたに木の実これを取ってくる理由が、どこにあるの」


「君が食べられるのなら、それだけで僕が動く理由になるさ」


 エイドの即答に、ミーニャのまぶたが僅かに揺れた。


 そのまま、彼女は籠からひとつだけ実を取り、口に運んだ。


 味見するように、慎重に。

 数秒間噛んだあと、無言で飲み込む。


「……毒は、入ってない」


「当然だろう。僕は君を殺したくて連れてきたんじゃない」


「わかってる。……殺すなら、あの日すぐに殺してたはず」


 初めて、ミーニャがエイドの瞳を正面から見た。


 獣の目ではなく、冷静な鋭い目で。


「私をどうするつもり?」


 その問いは、試すような響きだった。


 エイドは正直に答える。


「わからない。僕自身も……どうしたら君を救えるのか考えている最中だ」


「……弱いのね、人間は」


「そうかもしれない。少なくとも、君ほど強くはない」


 ミーニャは静かに俯いた。


「違う……強くなんかない。私はただ……死ぬのが怖いだけ」


 その言葉はか細く、けれど力が込められていた。


 エイドは、胸の奥で何かが崩れるのを感じる。


 彼女は、ただの強がりでも、ただ拒絶をしていたわけでもない。


 ただただ、生きたい。


 でも、何もかも失った自分にはそれすら許されないと、そう思っているだけだ。


 エイドはミーニャへそっと手を伸ばす。


 決して触れはしない。


 ただ、そこに自分がいることを示すだけ。


「じゃあ……怖くても、君の好きなことを一つだけ教えてほしい」


 ミーニャは一瞬驚いたような顔をして、口を開いた。


「好きなものなんて……」


 言いかけて、黙りこむ。


 長い沈黙のあと、彼女はぽつりと呟いた。


「……川の流れる音」


 エイドは微笑んだ。


「なら、今度は君に本物の川の音を聴かせる。偽物じゃないやつをだ」


「……できるわけない」


「できないかもしれない。でも、やってみる。君がそれを聞くまでは、僕も諦めない」


 ミーニャは、それ以上何も言わず目を閉じる。


 拒絶ではなかった。それにそれは、エイドには十分すぎる最初の対話だった。



 エイドは、書庫から持ち出した地図を広げていた。


 王都を中心に、既に人の手が及んでいない場所などほとんどない。


 わずかに原生林の残る『黒の森』や『魔の森』がありはするものの、すでに周囲から伐採をはじめ開発が進んでいる。


「ミーニャの言う“本物の自然”そんな場所、今の世界にあるのか」


 呟きながら、エイドは深く息をついた。


 不可能かもしれない。


 だが、諦めたくなかった。


 部屋の窓を開けると、夜の空気がひんやりと肌を刺した。


 明日にはミーニャが連れて行かれる。


 焦る気持ちを落ち着かせ、掠れる目を擦って地図を隅々まで見回した。



「ミーニャ! ミーニャ!」


「……何?」


 ミーニャは、薄いタオルにくるまり座ったままエイドを見上げた。もう彼女は、彼の姿を見ても過剰に警戒しなくなっている。


「ミーニャ。君に約束しただろう。川の音を聞かせるって」


 ミーニャは、冷ややかに目を細めて笑う。


「まだ諦めてないのね」


「当たり前だ」


 エイドは、真剣な瞳で彼女を見返した。


「この国の中にはないかもしれない。でも、北の辺境、旧帝国領ならまだ……可能性がある」


 ミーニャは、初めて僅かに眉を動かした。


「旧帝国……?」


「ああ。魔物が跋扈し、帝国の崩壊で人間の支配から離れた地。人は数十年前から冒険者であっても立ち入れていないほど危険だが、そこなら君が求める『本物の自然』が、まだ残ってるかもしれないんだ」


 ミーニャはゆっくりと目を閉じ、考え込んだ。


「……行くの?」


「行く」


 エイドの答えは即決だった。


「君も、ついて来てくれるか?」


 誘いながら、彼は自分でも信じられなかった。

 彼女が頷くはずがない、と。


 だが、ミーニャはゆっくりと立ち上がった。


「……勝手に殺されるより、自分で死に場所を探す方がマシ」


 その目には、わずかだが生きようとする意志が灯っていた。


 エイドは、微笑む。


「じゃあ、決まりだな」


 ミーニャは鼻を鳴らした。


「勘違いしないで。あなたを信じたわけじゃない。……ただ、約束を守られないまま死ぬのは、もっと惨めだから」


 エイドは黙って頷いく。


 それで、十分だった。



 こうして、人間とエルフの危険な旅が始まった。

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