スマホを落としただけなのに

 緑の魔法少女――テレビやネットで見ない日はない、あのヴォルテックス・エメラルドが、どこか包み込むような、それでいて全てを見透かすような深慮の視線を含んだ優しげな笑顔を浮かべて、ゆっくりと歩み寄ってきた。


 その目に映るのは、目の前の少女――瑠璃の無事を素直に喜んでいるかのような純粋な光。けれど、その奥底には「ただの心配」だけでは片付けられない、何かを慎重に見極めようとするような、トップヒーロー特有の鋭さが潜んでいた。


「君、大丈夫だった?」


 その声は、メディアを通して国民が慣れ親しんだ、太陽のような明るさそのものだった。


 瑠璃は、瓦礫の下敷きになっていた少年のことを思い出し、反射的に問い返す。目の前にいるのが、あの日本最強チーム「九奏ノネット」のエメラルド本人であるという現実感が、まだ胸の中で渦を巻いている。


「あ、あの男の子は……!?」


「あの子なら心配いらないわ。保護チームがもうすぐ到着するから」


 エメラルドがそうこともなげに答えるのとほぼ同時だった。遠くで低く唸るような地響きにも似た車両音が近づき、やがて黒と白の特殊マーキングが施された魔法庁の装甲車両が数台、瓦礫を巧みに避けながら現場へ滑り込んでくる。ニュースでよく見る、魔法災害現場における後方支援専門部隊だ。彼らの迅速な動きは、まるでよくできたドキュメンタリー映像を見ているかのようだった。


 ストレッチャーを携えた隊員たちが、傷ついた少年へ迅速に駆け寄り、手際よく収容していく。彼らの手から放たれる応急処置用の治療魔法の淡い光が少年の体を包み込み、その苦痛に歪んでいた表情がわずかに和らぐのが見て取れた。


「……ほら、ああやって保護チームがしっかり対応してくれるでしょ。それよりも――」


 ヴォルテックス・エメラルドは、再び瑠璃へとその有名な翠色の瞳を戻す。その瞳は先程までの戦闘での輝きとは異なり、穏やかだが、有無を言わせぬ真剣さを湛えていた。彼女の視線が、土埃と擦り傷にまみれた瑠璃の姿をゆっくりと辿る。


「君のほうが、よっぽどボロボロじゃない。まずは自分の心配をしなくちゃね」


 その口調はテレビで聞く親しみやすいものと同じ。しかし、その奥には、決して拒絶を許さない、トップ魔法少女としての確固たる意志の強さが鋼のように感じられた。


「いえ、私は本当に大丈夫ですから……。お騒がせしました。それでは、これで――」


 この場から一刻も早く立ち去りたい。相手は、あのエメラルドなのだ。瑠璃が早口にそう言って踵を返そうとした、その時だった。


「だーめ!」


 一歩踏み出したエメラルドの、鈴が鳴るような明るい声が、しかしその場の空気をぴんと張り詰めさせた。それはテレビで聞くお茶目な彼女の声とは違い、有無を言わせぬ響きを持っていた。


「その怪我で、私たちが見て見ぬふりして帰すわけにはいかないの。途中で倒れられたりしたら、私たちの管理責任問題になっちゃうからね……それに」


 逃げ場を探すように彷徨う視線を捉え、ヴォルテックス・エメラルドは瑠璃を真っ直ぐに見つめ、言葉を続ける。その瞳には、もう先程の測るような色はなく、ただ純粋な懸念が浮かんでいるように見えたが、それすらも計算されたものなのではないかと瑠璃は疑ってしまう。


「……それにしても、生身で変異体に立ち向かうなんて、普通の神経じゃないよ、君」


 ふっと、彼女の表情がわずかに和らぐ。まるで、張り詰めていた糸を少し緩めるように。国民的スターが見せる、一瞬の素顔のような。


「ねえ、君。……本当に、“まだ”魔法少女じゃないの?」


 その一言に、瑠璃の背筋が凍りつく。


 ――来た。核心に、触れられた。よりにもよって、日本で最も有名な魔法少女の一人に。


 なんとかごまかすしかない。けれど、目の前にいるのは、数々の難事件を解決し、多くの人々を救ってきた本物のヒーローだ。逃げ出すには、彼女たちはあまりに近すぎた。


 何かを言おうとしても、喉が鉛のようにこわばり、声にならない息が漏れるだけだ。


 鼓動だけが、まるで全国放送の緊急速報のように耳の奥で不気味に、機械的に響き続けていた。


「いえ、あの……魔法少女とか、そういうわけじゃなくて……ただ、あの子を助けないとって思ったら、気づいた時には体が勝手に……その……」


 しどろもどろな言い訳が、どれほど空々しく響いているだろうか。


 ヴォルテックス・エメラルドは、静かに微笑んだ。それは単なる微笑というより、長年の経験と勘で、パズルの最後のピースがはまったかのような、深い確信に裏打ちされた穏やかさだった。


「そっか。でもね――君が言うように“まだ”魔法少女じゃないっていうのが本当なら、正直、君はとんでもない逸材よ。あんな絶体絶命の場面で、恐怖に負けずに動けるなんて、普通じゃないんだもの。……あくまで私の直感だけど、君にはすごい才能が眠ってると思う。魔法少女って、いつでも人手が足りないからさ……君みたいな子、魔法省としては大歓迎なんだけどな」


 そのスカウトめいた言葉を遮るように、もう一人の冷静な声が割り込んできた。


 そこに立っていたのは、黄色の魔法少女――“クロノ・ジルコン”その人だった。


 彼女は先程から一歩引いた位置でるりを値踏みするように観察していたが、その有名な切れ長の瞳には感情よりも理性の光が冷ややかに宿っている。


「さっきの戦闘、出現したのはフェーズ3.5の変異体――通常、非覚醒者がその魔力圧に数秒間曝露しただけで意識混濁、あるいは精神崩壊を引き起こす危険なレベル…」


 彼女は抑揚のない、有無を言わせぬ事実だけを突きつける声で言った。


「あれだけの魔力圧を至近距離で浴びてなお、意識を保ち、逃走反応どころか、逆に積極的に接近していた。……あなた、本当に“まだ”魔法少女として覚醒していない、って?」


 その問いは、ただの質問ではない。日本最高の頭脳と噂される彼女の、鋭い洞察に基づいた確信的な響きがあった。


 淡々と語られる分析結果が、否定しようのない現実感を帯びて迫ってくる。反論の言葉を探そうにも、クロノ・ジルコンが提示する事実は、そのまま動かぬ証拠として瑠璃を追い詰めていた。


「連絡が取れる保護者、あるいは身元を保証できる信頼できる知人はいますか?」


 クロノ・ジルコンは、わずかにトーンを落としつつも、事務的な、しかし逃げ道を与えない口調で尋ねる。


「この状況で、あなたを一人で放置することはできない。魔法庁の規定にも、そして人道的見地からも」


 ……まずい。致命的な問題を今思い出したのだ。


 手元に、スマートフォンがない。相手はあのクロノ・ジルコンだ、下手な嘘は一瞬で見抜かれる。焦りが思考を白く塗りつぶしていく。


「あ、あれー……? おかしいな……さっきまでポケットに入れていたはずなんですけど……た、多分、さっきの戦闘のどさくさで落としちゃった、のかな、なんて……たはは……」


 声が上擦り、冷や汗が背中を伝う。こんな子供だましの言い訳が、日本最強の探偵魔法少女に通じるわけがない。内心の狼狽を隠しきれていないことは、自分でも痛いほどわかっていた。


「これのこと?」


 まるで全てお見通しだと言わんばかりに、クロノ・ジルコンが、自身のコートのポケットから一台のスマートフォンを取り出した。その仕草は、テレビで見る推理ドラマの名探偵のようだった。


 何気ない。しかし、その一連の動作には、どこかこちらの反応を探るような計算された意図が透けて見える。


 彼女は、それをるりの顔の前に、ゆっくりとかざした。


 画面が即座に起動し、待ち受け画面が表示される――顔認証によるロック解除。間違いなく、私のスマホだ。


(……え? ……えええ!? なんで、どうして私のスマホを、あのクロノ・ジルコンが!? )


 混乱が頂点に達する。嫌な予感が、確信へと変わっていく。


「あ、おぉ〜〜! こ、これはこれは……紛れもなく私のスマホ、ですね〜……! いやぁ、助かりました、本当にありがとうございますぅ〜〜! これで連絡もバッチリできますですぅ〜〜! いやもう、感謝しかありません〜〜! じゃ、じゃあ私はこれで失礼しますね! ええ、大変お世話になりましたーっ!」


 半ば強引に、クロノ・ジルコンの手から自分のスマホをひったくろうとした。しかし、その手はあっさりと掴まれ、スマホは彼女の頭上へとひょいと掲げられる。当然、今のるりの体力では届くはずもなかった。


「――興味深い、ね。私がこれを拾ったのは、新宿の大通り、あの事件の直後だったんだけど」


 その静かな一言が、決定的な証拠として、冷たい刃のようにるりに突き刺さった。


 空気が、変質した。


 それは追及でもなければ、糾弾でもない。ただの事実の提示。しかし、日本で最も有名な探偵魔法少女が発するその平坦な響きの奥には、鋭く研ぎ澄まされた矛先が、確かに潜んでいた。


 心臓の鼓動が、先程よりも激しく耳を打つ。


 クロノ・ジルコンの冷徹な視線が、こちらの僅かな反応も見逃すまいと、静かに、そして執拗に観察していた。


 思考が空転し、焦燥感だけが募る。


(今、なんて……? 新宿で……!? やっぱり、あの時から私はマークされてたんだ! いや、そんなことはどうでもいい! 関係ない、関係ない! 今はとにかく、ここから逃げるんだ!!もうそれしかない!!)


 瑠璃は反射的に踵を返し、全神経を脚に集中させて駆け出そうとした――が。


「っ……!」


 視界の先に、いつの間にか、先程までとは打って変わった真剣な表情のヴォルテックス・エメラルドが立ちはだかっていた。


 瞬きする間もないほどの動きだったのか、あるいは最初からそこにいた幻影だったのか。瑠璃の唯一の逃げ道を、彼女は静かに、しかし確実に塞いでいる。その姿は、テレビで見るどの勇ましい彼女よりも、今の瑠璃には絶望的に映った。


 終わった。


 絶望が瑠璃の脳裏を支配した。


 身体から一気に力が抜け、糸が切れた操り人形のように膝が折れそうになる。喉の奥が焼けつくように締まり、呼吸が浅く、速くなっていく。


「待って。ほんの少しでいいの。私たちの話を、ちゃんと聞いてほしい。ね?」


 しかしながら、ヴォルテックス・エメラルドの声は、驚くほどに柔らかく、そして優しかった。それは、メディアを通じて国民が知る彼女の温かさそのものだったかもしれない。


 それは警察官が容疑者に向ける詰問のような厳しさもなければ、裁判官が被告人に下す宣告のような冷たさもない。ただ、淡々と、けれど心の奥深くに染み入るように真剣に語りかけてくる。


「私たちは、君を一方的に責めたいわけじゃない。ただ――ちょっと危ない立場にいる君を、安全に保護したいの。それが私たち『九奏ノネット』の任務だから。……そして、もし差し支えなかったら、あなたが契約したというその妖精のこと、そして新宿での出来事について、少し詳しく教えてもらえると嬉しいなって」


 その言葉は、まるで人気魔法少女のファンサービスの一環のようにも聞こえかねないほど、優しい。


 ――優しい言葉は、時として何よりも鋭く心を抉る。


 瑠璃の喉が詰まる。言い訳も、咄嗟の嘘も、口先だけの空虚な謝罪も、すべてが色褪せ、目の前にいるのが日本中誰でも知っているエメラルドとジルコンであるという現実の前では、意味をなさなく感じられた。


「いやっ……私は……あんなつもりじゃ、なかったんです……っ!」


 堪えていた感情のダムが、ついに決壊した。言葉が涙と共に滲み、胸の奥底から熱いものがこみ上げてくるのを、もはや押しとどめることはできなかった。


「本当に……本当にごめんなさい……! あの時、あの……傷ついて倒れていた魔法少女の人を……助けたい一心で、ただ、それだけで……! で、でも、あの惨状から逃げ出したのは、あの状況を作り出した他の誰でもない、わたし、で……!」


 涙で視界が歪み、世界がぼやける。


 嗚咽を漏らしながら、心の奥底にしまい込んでいた罪悪感と恐怖を、洗いざらい吐き出すように声を振り絞った。


「もし……もし、私のせいで誰かが……誰かが傷ついたのだとしたら……私、もう、どう償えば……!」


 足元がおぼつかない。膝ががくがくと震え、その場に崩れ落ちそうになる。


 犯した罪の重圧、未来への恐怖、拭いきれない後悔、そして圧倒的な無力感――その全てが巨大な渦となって、瑠璃の内側を容赦なく引き裂いていく。まさか自分が一事件の犯人になるなんて、テレビの向こうの華やかな魔法少女たちを見ていた頃には、想像もできなかった。


「極刑だけは……お願いです……どうか、命だけは……っ」


 絞り出すようにして口にしたその一言は、まるで深淵に沈みゆく者が最後に伸ばす、か細い救いの手を求めるような、悲痛な懇願だった。


 ……だが。


「そんなことするわけないでしょ!」


 拍子抜けするほど明るく、そしてきっぱりとした声が響いた。


 ヴォルテックス・エメラルドが、少し困ったように、けれど温かく微笑んでいた。そこには嘲りや見下すような色は一切ない。むしろ、そこには親しみが込められ、まるで暗闇に差し込む一筋の光のような、救いの気配さえ感じられた。


「誰も、君を処刑するなんて考えてない、よ」


 クロノ・ジルコンが、静かに、しかし確信を込めて言葉を継いだ。その声にもまた、意外なほどの柔らかさが含まれている。彼女の言葉は、どんなデータよりも確かなものとして瑠璃に響いた。


 ヴォルテックス・エメラルドが、そっと瑠璃の震える肩に手を置く。その手の温もりが、張り詰めていた心にじんわりと沁みていくようだった。


 瑠璃の嗚咽は、深い安堵と共に、少しずつ、少しずつ、静かな夜の空気へと溶けていった。目の前にいるのが、日本で最も有名な魔法少女たちであるという現実が、今は少しだけ、心強いものに感じられた

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