ちょっと(?)おてんばな戦女神、セリカに降臨す

みどりいろ@カクヨムで小説連載中です

Prologue その1

 空には黒く低い雲が立ち込めていた。


 今にも泣き出しそうな、そんな雲行きであった。どの場所の空を見ても少しの隙間も無くはりつめている雲は、風もなくただどんよりと動く気配もない。

 その厚い雲のせいで昼間にもかかわらず近くの草木や遠くの山々がほのかに灰色の膜がかかっているかのように薄暗く、そんな景色は見ている者に憂鬱な気分を与えるのに十分であった。


「まるで今のまつりごとのようですなあ」


 空を見上げている馬上の男は呟いた。男の姓はかん、名はとうあざな義公ぎこうという。

 その男は革と金属を組み合わせた鎧をまとっていて、髭はそれなりにたくわえているが見たところ歳は三十代半ばくらいであろうか。いかにも生真面目そうな顔をしているその男の周りには地を踏みしめて歩く兵士たちや馬に乗る兵士たちがいる。


「義公よ、空の雲行きは天の為す事ゆえわしらの如き人の力では払うことはできぬが、政においては今上の帝を取り巻く悪しき『雲』を払う事はわしらでもできる事。いや、今からそれをやろうとしておるのだ」


 韓当のすぐ右隣で見事な白馬にまたがっている赤い戦袍マントをまとった男は同じく空を見上げた。その男は姓をそん、名はけん、字は文台ぶんだいという。韓当とほぼ同じくらいの歳と思われるその顔からはやや性急そうだが闊達な人柄を窺い知ることができる。

 孫堅をはじめとしたその将兵たちは今中央政権を我が物顔で私物化している董卓とうたくという者とその勢力を都から駆逐するため、はるか長江の南から軍を率いてこの地まで来ているのである。

 孫堅は空を見上げていた顔を前に向けて言葉を続けた。


「できれば我が軍が先陣を切って払いたいものだ。なあ仲桜ちゅうおうよ」


「そうですね」


 その言葉に答えたのは戦袍をまとった男の右隣で騎行する『少女』であった。


 仲桜と呼ばれたその十八歳前後と思しき少女は周りの男たちとは全く違う出で立ちで騎行している。頭には白い羽がついた兜をかぶり、胸部を中心に守る鎧は鮮やかな緑色をしていてその下には真っ白な一枚布でつくったような半袖の服を着ており、孫堅が纏っているものよりも更に赤い戦袍をしているその姿、そしてその表情には今から血生臭い戦場に赴く人間の顔とはとうてい思えないような穏和な笑みを浮かべている。

 傍から見ると明らかな場違いに見えるが、周りの男たちは違和感を抱いていないかのように平然としている。


 その少女は、姓をちょう、名は麗香れいか、そして字を仲桜と名乗っている。

 普通、女性の場合はいみなを厳重に秘するものなのだが、何故かこの少女は諱を名乗っている。


「しかし仲桜どのはつくづく不思議なお方ですな。殿もそう思いませぬか?」


 韓当の真面目顔を見た孫堅は呵々と笑った。韓当の発言は、聞きようによっては揶揄とも冗談とも取れなくもないが本人はいたって真剣である。

 韓当の人柄がわかっている孫堅としてはそれがどうにも可笑しくてたまらなかったのである。


「ははは、確かにわしもそう思う。初めて仲桜に出会うた時も、今思えば妙な出会いであったな」


 韓当はあくまで真面目な顔を崩すことなく孫堅に言葉を返した。


「左様でございましたなあ。あれは確か武陵ぶりょうの賊討伐の帰りでしたか」


「そうだな。あれからもう一年近くになるか」


 孫堅は過去の出来事を思い出し、ふっと笑みを浮かべた。




 ある日、孫堅と彼の率いる義勇軍は武陵太守である曹寅そういんという者に武陵の近辺に出没する山賊退治を依頼されていた。


 孫堅義勇軍は船を用いた水上戦を得意としている。今まで多くの賊討伐依頼は河賊や湖族とよばれる者たちが相手であった。

 とはいえ官軍にも劣らないような訓練を重ねており結束も強く士気も高い。陸上に上がっても所詮烏合の衆である賊に、孫堅以下家臣一同皆負ける気はしなかった。

 案の定山賊はあっと言う間も無く蹴散らされ、義勇軍は意気揚々と孫堅の治めている長沙ちょうさの郡都である臨湘りんしょうへと引き上げようとしていた、その帰りのことである。


 洞庭湖どうていこのほとりを孫堅義勇軍の先頭で騎行していた孫堅らの視界に集落が見えた。その時、孫堅の隣で兵の先頭にいた韓当があっと声をあげた。


「殿、集落から微かながら煙が出ておりますぞ」


 よく目を凝らして見ると集落から微かに黒煙が出ているようにも見えたので、孫堅は不穏に思い兵を急がせた。

 煙は徐々に多くなっていくが、まだ大火というわけではなかった。大急ぎで消火すれば被害は少なく済むだろう。

 集落に近づくと、賊らしき男たちが集落から逃げるようにこちらに向かってきた。孫堅は何故かと少々困惑したが、 逃げる賊を蹴散らしつつ兵士たちに消火や賊討滅を手際良く命じていった。

 集落に入りあらかた賊退治が一段落ついた頃合に孫堅は韓当ら数名の部下とその兵士たちを連れて集落の中央へ向かったが、その途中で一行は目を疑う光景に出くわしたのである。


 一行が見たものは複数の賊を相手に齢二十もいかないような少女が剣や楯を持ち馬に乗って大立ち回りを演じている姿であった。

 その少女はまるで馬上で華麗に剣の舞を踊っているようだったがその剣さばきや手綱さばきに一部のぶれや隙が無い。馬をまるで自分の身体の一部かのように操りながらも右手に持つ剣は容赦無く賊の身体を斬り、左腕にはめた楯は賊の攻撃を容易に遮っていた。


 孫堅らが見とれているうちに、その場にいた賊は少女の手により退治されてしまったのである。

 孫堅は少女に近づくと、その少女はこちらを向いた。少女は見た目齢二十どころか十六から十八歳ほどだと思われた。黒く長い髪はこのあたりでは見かけないような結び方をして髪の先端あたりを赤い紐で結んでいる。埃や返り血で少々汚れているおり、また漢民族に異民族の血が少し混ざっているかのような顔であったが端整で美しいというより可愛らしいことはすぐわかった。孫堅は馬上で声をかけた。


「わしは、長沙太守の孫文台である。女子おなごながら見事な剣さばきであった」


 少女は馬を下りて剣を鞘に収め拱手をした。その顔は先ほどの険しくも凛々しいものとはまったく違う穏やかなものであった。


「貴方があの孫文台様でございますか。御高名は行きずりの方からお聞きしました。わたしは涼州は酒泉しゅせん禄福ろくふくの産まれにて姓を張、名は麗香、字は仲桜と申します」


 孫堅は一瞬耳を疑った。婦女子にとっていみなは、たとえ終生寄り添うことになるであろう夫でさえも明かすことがほとんどないのが普通であるからだ。孫堅自身も自分の妻の諱を知らないほどであった。

 しかしこの少女は堂々と諱である『麗香』を名乗っている。


 孫堅はその少女を気に入った。それは男が女に対する情とは決して無縁ではないかもしれないが、それ以上に一目見ただけでわかるほど卓越した剣の腕前や馬を操る巧みさ、そして賊や自分たちにも決して物怖じしないその態度が気に入ったのである。孫堅は呵々と笑った。


「そうか、酒泉の張仲桜か。よき名前だ。では張仲桜とやら、我が軍はこの近くで今日は野営するゆえ、そこにてここで起こった事の仔細を聞こうではないか。よいかな?」


「わかりました」


 その少女は穏やかにそう答えた。すると、隣にいた韓当が眉を少々ひそめて小声で異議を申し立てた。


「殿、幕舎に素性の知れぬ者を入れるというのは・・・」


「まあよいではないか。どちらにしてもここで何が起こったかを聞かねばならぬ」


 かくて、孫堅一行と張麗香と名乗る少女はすでに騒ぎの収まった集落を出て、すでに準備が整っている野営に向かった。




「集落が賊に襲われていると思って向かったら賊共が一人の女子に退治されていたんだ。思い出しただけで笑えてくるわ」 


 孫堅は一瞬相好を崩したが、再び空を見上げた時には普段の表情に戻っていた。


 その頬をなでる空気は湿気を帯び始め、そして視界には果てしなく鉛色の雲が続き乾いた地面が遠く地平線近くまで続いている。

 遠くの方で更に黒い雲がありそのあたりは雨が降っているようで、時折髭をなびかせる淀んだ風は更なる天候の悪化を予感させるものであった。

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