星とバラの誓い
矢野
第1話 心からの一歩
春のイングランド。柔らかな陽光が、なだらかな丘陵と緑の牧草地を金色に染め上げる季節。リデル子爵家の次女、シャーロット・リデルは、馬車の窓辺に頬杖をつき、遠くの丘を眺めていた。栗色の髪がそよ風に揺れ、エメラルドの瞳には夢見るような輝きが宿る。遠くで羊飼いの笛が響き、野花の香りが窓から漂ってくる。今日は、彼女にとって特別な日だ。婚約者であるクラレンス伯爵家の嫡男、エドワード・クラレンスに会いに行くのだ。
「運転手さん、あんまり急がなくていいわ。ゆっくりでいいから、ちゃんとクラレンス邸に着けてね。」
シャーロットの声は穏やかだが、どこか弾むような響きを帯びていた。御者はにこりと微笑み、馬の手綱を丁寧に操った。馬車の車輪が石畳を軽やかに叩く音が、春の静けさに溶け込む。
エドワード・クラレンス、25歳。端正な顔立ちと落ち着いた物腰で、社交界でも一目置かれる青年だ。両家の取り決めによる婚約は、彼にとって「形式的な約束」に過ぎなかった。しかし、シャーロットの心は違う。「結婚するなら、ただの夫婦じゃ嫌。心から通じ合える、笑顔でいられるパートナーになりたい!」彼女の胸は、そんな純粋な願いで満たされていた。
◇ ◇ ◇
物語は、一週間前のホークスフォード公爵邸の舞踏会から始まる。壮麗な大広間では、シャンデリアの光がクリスタルのようにきらめき、絹のドレスがふわりと揺れる。壁には金箔の装飾が施され、窓の外には月光に照らされた庭園が広がっている。シャーロットは、淡いラベンダー色のドレスに身を包み、まるで春の花のような可憐さで会場に現れた。彼女の笑顔は、周囲を明るくする小さな陽だまりのようだった。
エドワードは広間の片隅で、静かにワイングラスを傾けていた。黒い燕尾服に身を包み、金髪がシャンデリアの光に映える。彼の青い瞳は、どこか遠くを見ているようで、華やかな喧騒に溶け込まない。
「クラレンス卿!やっと見つけたわ!」
シャーロットの声は、弦楽の旋律を縫って柔らかく届いた。彼女は軽やかな足取りで近づき、扇を手に微笑む。優雅だが、どこか無邪気な仕草だ。
「リデル嬢、こんばんは。」
エドワードは丁寧に一礼し、穏やかに答える。
「…何か?」
「何か、なんて!あなたの婚約者なんだから、こうやって話しかけるのは普通でしょ?」
シャーロットは扇で軽く口元を隠し、くすっと笑った。
「ねえ、一曲だけ、私と踊ってくれない?」
エドワードは一瞬、彼女の明るさに目を細めた。貴族の淑女としては珍しい、飾らない態度。しかし、断る理由もない。彼はグラスを置き、彼女の手を取った。
「…では、一曲だけ。」
ワルツの旋律が大広間を満たす中、二人は舞踏場の中央へ進んだ。磨き上げられた床が光を反射し、ドレスの裾が優雅に揺れる。シャーロットの手はエドワードの肩にそっと置かれ、彼女の動きは軽やかで自然だった。エドワードは正確にステップを踏むが、どこか堅い。彼女はそんな彼に、優しく話しかける。
「ねえ、クラレンス卿。あなた、どんなことが好きなの?本?音楽?それとも、馬に乗るのが好き?」
彼女の声は、まるで春風のように軽やかだ。
「私、あなたのこと、もっと知りたいな。」
エドワードは、彼女のまっすぐな質問に少し戸惑う。
「…ダンス中に、そんな話をするのか?」
「だって、婚約者だもの!これから一緒に過ごすんだから、仲良くなりたいの。」
シャーロットは目を輝かせ、笑顔で続ける。
「ほら、教えてよ。どんな本を読むの?」
エドワードは小さくため息をつき、答えた。
「…歴史書が多い。音楽なら、モーツァルトを好む。馬術は…まあ、嫌いではない。」
「モーツァルト!素敵ね!私も聴いてみるわ。それと、乗馬!今度、一緒に行きましょう?約束よ!」
シャーロットの声は、まるで子どものように無邪気だった。エドワードは、彼女の純粋さに少し気圧されながら、頷いた。
「…約束、か。」
舞踏会が終わると、シャーロットはエドワードにそっと言った。
「これから、時々手紙を書くわ。返事、待ってるからね!」
彼女の笑顔は、夜空の星のように輝いていた。
◇ ◇ ◇
翌日から、シャーロットの手紙がエドワードの屋敷に届き始めた。リデル家の紋章が押された封蝋、フローラルな香水がほのかに香る便箋。彼女の筆跡は丁寧で、ところどころに小さな花のスケッチが添えられている。
『クラレンス卿、昨日の舞踏会、楽しかったわ。モーツァルトの曲。早速聴いてみるね!お気に入りの曲、教えてくださいな。』
『クラレンス卿、乗馬の約束、覚えててね!私の馬、ルビーはとってもおとなしいの。一緒に走ったら、きっと楽しいわ!』
エドワードは、最初は「面倒だ」と感じながらも、彼女の手紙を読むたびに、どこか心が温まるのを感じていた。彼の返事は短く、そっけない。
『リデル嬢、熱心だな。モーツァルトなら『フィガロの結婚』を勧めよう。』
だが、シャーロットの手紙は止まらない。まるでそよ風のように、彼の静かな生活に新鮮な空気を運んでくる。
ある日、シャーロットは我慢しきれず、クラレンス邸を訪れた。馬車から降りた彼女は、薄桃色のドレスに身を包み、庭のバラを手に持っていた。クラレンス邸の庭は、整然と刈り込まれた生垣と色とりどりの花壇に囲まれ、遠くの噴水から水音が響く。応接間に通されたシャーロットは、エドワードと対面した。
「エドワード様!手紙の返事、いつも短いんだから!」
彼女は頬を軽く膨らませて、笑顔で続ける。
「私、もっとあなたと話したいの。だって、これから夫婦になるんだもの!」
エドワードは、書斎の椅子から立ち上がり、彼女の明るさに目を細める。
「リデル嬢、突然の訪問は……少し、驚くが。」
「驚かせてしまってごめんなさい。でも、私、ほんとうにあなたと仲良くなりたいの。愛とか恋とか、そういうのじゃなくてもいい。ただ、一緒に笑ったり、話したりしたいの。」
シャーロットの瞳は、まるで湖のように澄んでいた。
エドワードは、彼女の真っ直ぐな言葉に、胸の奥がざわめくのを感じた。貴族社会の打算や形式に慣れた彼にとって、こんな純粋な願いは新鮮だった。
「…君は、変わっているな。」
彼は呟き、ふと口元に微笑みを浮かべた。
「変わってる?ふふ、いいわ、それで!エドワード様、あなたも私と一緒に、ちょっと変わり者になってみない?」
シャーロットはバラを差し出し、いたずらっぽく笑った。
◇ ◇ ◇
その夜、エドワードは書斎で、シャーロットの手紙を手に取った。暖炉の火が柔らかく揺れ、部屋に温かな光を投げかける。彼女の描いた小さな花のスケッチに、思わず目を細める。
(婚約は義務……そう思っていたはずなのに。なぜ、彼女の言葉はこんなにも響くのだろう?)
一方、シャーロットは自室で、新しい手紙を書きながら微笑んでいた。窓の外では、夜風がカーテンをそっと揺らし、遠くの森からフクロウの声が聞こえる。
「エドワード様、きっとあなたと、最高の夫婦になれるわ。だって、私、信じてるんだから!」
馬車の蹄の音が遠くで響く中、二人の物語は、静かに、しかし確かに始まっていた。シャーロットの心からの願いは、エドワードの静かな心に、そっと光を灯し始めていた。
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