第4話

深い、どこまでも続くかのような闇。音も光も、時間感覚すらも曖昧な虚無の中を、俺の意識は漂っていた。

どれほどの時間が過ぎたのだろうか。一瞬のようでもあり、永遠のようでもあった。

やがて、遠くで微かな呼び声のようなものを感じた。いや、それは声ではなく、もっと原始的な、生きることへの渇望にも似た何かだったのかもしれない。

それに引き寄せられるように、俺の意識はゆっくりと浮上を始めた。


最初に感じたのは、全身を包む鈍い痛みと、そして強烈な寒気だった。

瞼が鉛のように重い。無理やりこじ開けると、ぼやけた視界に映ったのは、見慣れぬ岩肌の天井だった。

「…う……ここは……」

掠れた声が、自分の喉から漏れた。

身体を起こそうと試みるが、全身の筋肉が悲鳴を上げ、思うように力が入らない。

特に、肋骨のあたりが激しく痛む。巨熊との戦闘で負った傷だ。


「おお、気が付かれたかな、若いの」

不意に、すぐ傍からしゃがれた男の声がした。

驚いてそちらへ視線を向けると、焚き火の揺らめく炎の向こうに、痩せた老人の姿があった。

みすぼらしい毛皮を纏い、顔には深い皺が刻まれている。だが、その瞳は年の割に鋭く、俺の様子をじっと窺っていた。

「あんたは…誰だ…? 俺は…」

記憶が混乱している。巨熊との戦い、そして黒いオーラ。その後、意識を失ったはずだ。

「わしはただの通りすがりの猟師じゃよ。あんたが森の中で倒れておるのを見つけてな。この洞穴まで運んできたんじゃ」

老人はそう言うと、木の器に何か液体を注ぎ、俺に差し出した。

「薬湯じゃ。気休めかもしれんが、飲んでおくといい」

疑う気持ちもあったが、喉の渇きは限界だった。俺は震える手で器を受け取り、中身を一気に飲み干す。

苦いが、身体の芯からじんわりと温まるような感覚があった。


「…助けてくれたのか…礼を言う…」

「なに、困った時はお互い様じゃろ。それより、あんた一体何とやり合ったんじゃ? あの辺りじゃ見かけんような、でかい熊の死体が転がっとったが…あれは、あんたが?」

老人の目が、探るように俺を見据える。

隠すべきか、正直に話すべきか。この老人が敵か味方かも分からない。

だが、あの巨熊を倒したことを隠し通せるものでもないだろう。

「…ああ。あれは俺がやった。少し、手こずったがな」

俺の言葉に、老人は僅かに目を見開いた後、ふむ、と一つ頷いた。

「ほう…大したもんじゃ。あの森の主とも呼ばれとった化け物じゃぞ。まさか、あんたのような若者が一人で仕留めるとはな」

その口ぶりには、賞賛よりもむしろ警戒の色が滲んでいるように感じられた。


「あんたの傷は酷かった。肋骨は数本折れておるし、内出血も酷い。普通なら、一週間は寝たきりじゃろうな」

老人は、俺の身体を改めて検分するように見回しながら言った。

「だが…どういうわけか、あんたの傷の治りは異常に早い。まるで、人間じゃないみたいじゃな」

その言葉に、俺の心臓がドクリと跳ねた。

この老人は、何かに気づいているのか?

「…ただ、頑丈なだけだ」

俺は努めて平静を装い、そう答える。

「ふむ…そうかもしれんのう」

老人はそれ以上追及するでもなく、焚き火に薪をくべた。


俺は自分の身体の状態を改めて確認する。

確かに、あれほどの重傷を負ったにしては、痛みはかなり引いている。完全に治癒したわけではないが、動けないほどではない。

人間を喰らったことで得た超回復能力が、ここでも働いているのだろう。

だが、あの黒いオーラを使ったことによる消耗は、まだ身体の奥底に残っているような気がした。

あれは一体何だったのか。俺の力の一部なのか、それとも、何か別の…

そして、あの巨熊の死体はどうなったのだろうか。

喰らうことはできなかった。もし、あの時喰らっていたら、俺は今頃どうなっていただろう。

「あの…熊の死体は…」

俺が尋ねると、老人は肩をすくめた。

「ああ、あれか。わしにはどうすることもできんかったんでな、そのままじゃよ。もっとも、他の獣たちがすぐに嗅ぎつけて、跡形もなくなるじゃろうがな」

そうか…それは、ある意味では幸いだったのかもしれない。

あの巨熊を喰らったとして、人間食のような劇的なレベルアップは期待できないだろう。それは、魔族やホブゴブリンの時に既に経験している。

せいぜい、一時的な体力回復と、飢餓感の僅かな緩和。そして、その後に襲ってくるのは、より強烈な「人間」への渇望だ。

それを考えれば、無理に喰らう必要はなかったのかもしれない。


「あんた、一体どこから来たんじゃ? あんな森の奥で、一人で何を?」

老人の問いに、俺は言葉を濁した。

「…色々あってな。少し、訳ありなんだ」

「ふむ。誰しも、一つや二つは人に言えん事情を抱えておるもんじゃ。無理に聞き出すつもりはないが…あんた、この先どうするつもりなんじゃ?」

どうするつもりか、か。

俺にも、まだはっきりとした答えは出せていない。

魔王を倒す。その漠然とした目標はある。だが、そのためには何が必要で、どこへ行けばいいのか。

「…情報が欲しい。この辺りのこと、魔王軍のこと…何でもいい」

「情報、ねえ…こんな辺鄙な場所じゃ、ロクな情報なんぞ入ってこんよ。わしらが知っとるのは、せいぜい、近くの村が魔物に襲われたとか、そんな話くらいじゃ」

近くの村…そこに人間がいるのなら…

いけない。また、そんなことを考えている。

俺は頭を振り、そのおぞましい思考を追い払った。


「その村は…どこにあるんだ?」

「ここから東へ半日ほど歩いたところじゃな。もっとも、もう誰も残っとらんかもしれんが」

老人は寂しそうに呟いた。

「魔物は…どんなやつらだったんだ?」

「ゴブリンの群れじゃったらしい。最初は家畜を襲う程度じゃったが、そのうち人間にも手を出し始めてな…領主様も兵を出してはくれたんじゃが、焼け石に水じゃったと聞く」

ゴブリンか。それならば、今の俺の力なら対処できるかもしれない。

だが、問題はそこではない。

村に生き残りがいるかどうかだ。そして、もしいるとして、俺はその人間たちをどう見るのか。

助けるべき対象としてか、それとも…


「あんた、もしかして、その村へ行くつもりか?」

老人の声に、俺は我に返った。

「…ああ。少し、確かめたいことがある」

「よしなさい。危険じゃ。ゴブリンどもは、まだその辺りをうろついとるかもしれんぞ」

「構わない。俺は、行かなければならないんだ」

それは、勇者としての使命感からか、それとも、ただの飢餓感から来る衝動なのか。

自分でも、よく分からなかった。


老人は、俺の決意が固いと見ると、それ以上は何も言わなかった。

ただ、黙って焚き火の炎を見つめている。

しばらく、沈黙が続いた。

パチパチと薪のはぜる音だけが、洞穴の中に響いている。

「…あんた、名は?」

不意に、老人が尋ねた。

「…カイだ」

「カイ、か。わしはギドじゃ。ただのしがない猟師のギドじゃよ」

ギドと名乗った老人は、そこで初めて僅かに笑みを浮かべたように見えた。

「カイ殿。もし、その村へ行くというのなら、一つだけ忠告しておこう」

「忠告?」

「ああ。決して、油断するな。そして…決して、自分を見失うな」

ギドの言葉は、どこか意味深長に響いた。

彼もまた、俺の異様さに気づいているのだろうか。そして、俺の行く末を案じているとでもいうのか。


夜が明け、俺はギドに別れを告げ、洞穴を出た。

身体の傷は、まだ完全には癒えていないが、動くのに支障はない程度には回復していた。

ギドは、俺に干し肉と水筒を渡してくれた。

「気休めにしかならんじゃろうが、ないよりはマシじゃろ」

その言葉に、俺は素直に感謝した。

たとえ一時しのぎにしかならないとしても、今の俺にとっては貴重な食料だ。


東へ向かって歩き始める。

ギドの言った通り、半日ほど歩けば村に着くだろうか。

道中、魔物と遭遇する可能性も考えなければならない。

だが、今の俺には、それよりもっと大きな問題があった。

飢餓感だ。

巨熊との戦いで力を使い果たしたせいか、あるいは単に時間が経ったせいか、あの忌まわしい渇きが、再び俺の内側から鎌首をもたげ始めていた。

干し肉をいくら食べても、この飢えは満たされない。

俺の身体は、もっと「本質的」な何かを求めている。

人間の生命力を。


もし、村に生き残りがいたとして、俺は彼らを前にして平常心でいられるだろうか。

彼らを「食料」として見てしまうのではないか。

その考えが頭をよぎるたびに、自己嫌悪と恐怖で身が竦む。

だが、この飢餓感は現実だ。抗いがたい本能の叫びだ。

俺は、この衝動とどう向き合っていけばいいのだろう。


しばらく無言で歩き続けていると、不意に前方から話し声が聞こえてきた。

それも、複数人の。

俺は咄嗟に身を隠し、様子を窺う。

茂みの向こうから現れたのは、三人の男たちだった。

身なりは粗末だが、腰には剣を下げ、手には粗末な槍を持っている。傭兵か、あるいはただの武装した農民か。

彼らは何やら言い争いながら、こちらへ近づいてくる。

「だから言っただろう! あの村はもうダメだって!」

「しかし、食料が尽きちまったんだ! 少しでも残ってりゃあ儲けもんだろ!」

「ゴブリンどもに見つかったらどうすんだよ! 俺はまだ死にたくねえぞ!」

どうやら、彼らもまた、あの村を目指しているらしい。

そして、彼らは…人間だ。

俺の飢餓感が、一気に増大するのが分かった。

喉が鳴り、唾液が湧き出てくる。

視界の端が、赤く染まっていくような感覚。

まずい。これは、本当にまずい。

理性が、本能の濁流に押し流されそうだ。


俺は、必死でその衝動を抑え込もうとした。

彼らは敵ではない。ただの、食料に困った人間たちだ。

俺が彼らを襲う理由など、どこにもないはずだ。

だが、身体の奥底から響いてくる声は、そんな理屈など聞き入れようとはしない。

「喰らえ」と。

「彼らを喰らえば、お前はもっと強くなれる」と。

「世界を救うためだろう? そのためには、多少の犠牲は必要なのだ」と。

悪魔の囁きだ。


男たちが、俺が隠れている茂みのすぐ近くまでやってきた。

彼らは、俺の存在にはまだ気づいていない。

どうする? このままやり過ごすか?

それとも…

俺の指が、無意識のうちに剣の柄を握りしめていた。

その感触が、妙に馴染む。

まるで、それが俺の身体の一部であるかのように。


「おい、なんだありゃ?」

不意に、男の一人が俺が隠れている茂みを指差した。

どうやら、俺の気配を僅かに感じ取ったらしい。

まずい、見つかったか。

「何かいるのか?」

「分からん…獣か…?」

男たちが、警戒しながらゆっくりとこちらへ近づいてくる。

もはや、逃げることはできない。

ならば…!


俺は、覚悟を決めた。

いや、それは覚悟などというものではない。

ただ、飢餓感に突き動かされた、本能の暴走だ。

俺は茂みから飛び出し、男たちの前に立ちはだかった。

「なっ…! き、貴様、何者だ!?」

男たちは、突然現れた俺の姿に驚き、慌てて武器を構える。

その目には、恐怖と警戒の色が浮かんでいた。

無理もない。今の俺の姿は、血と泥に汚れ、どこか人間離れした雰囲気を漂わせているだろうから。


俺は、何も答えなかった。

ただ、飢えた獣のような目で、彼らを見据える。

一番手前に立っている男が、一番栄養がありそうだ。肉付きもいい。

そんなことを、冷静に分析している自分がいることに気づき、愕然とする。

俺は、本当に化け物になってしまったのか。


「ひっ…! こ、こいつ、目が…!」

男の一人が、俺の瞳に何かを感じ取ったのか、怯えたように後退る。

その反応が、まるで引き金になったかのように、俺の身体は勝手に動き出していた。

考えるよりも早く、一番近くにいた男に飛びかかる。

「うわあああああっ!」

男は悲鳴を上げる暇もなく、俺の振るった剣によって、その胸を深く切り裂かれた。

鮮血が舞い、男はその場に崩れ落ちる。

残りの二人は、仲間があっという間に殺されたのを見て、完全に戦意を喪失していた。

顔面蒼白になり、武器を取り落とし、ただ震えている。


「た…助けてくれ…! 何でもするから…!」

一人が、必死の形相で命乞いを始めた。

その姿は、哀れだった。

だが、今の俺には、その言葉は届かない。

俺の頭の中は、ただ一つの欲求で満たされているのだから。

人間を喰らいたい、と。


俺は無言で、命乞いをする男に近づいた。

男は、恐怖のあまり失禁し、その場にへたり込む。

その瞳には、絶望の色だけが浮かんでいた。

俺は、その男の首筋に手を伸ばし…そして、力任せに引き寄せた。

抵抗する力は、もう残っていなかった。

最後に聞こえたのは、ゴクリという、何かを飲み込むような音だけだった。


二人目の男を喰らい終えた時、俺の身体には、再びあの力が満ち溢れていた。

ロナの時ほどではないが、それでも、一体の人間を喰らった時よりもずっと強い力だ。

やはり、数は力になるのか。

そして、質も重要なのかもしれない。この男たちは、先の兵士よりも若く、生命力に溢れていたのだろう。


残るは、あと一人。

そいつは、仲間二人が目の前で喰われるという地獄絵図を目の当たりにし、既に正気を失いかけていた。

焦点の定まらない目で虚空を見つめ、意味不明な言葉をぶつぶつと呟いている。

もはや、人間としての尊厳は、どこにも残っていなかった。

俺は、そんな彼に何の感情も抱かなかった。

ただの「食料」として、その命を処理するだけだ。

俺は、その男の背後から近づき、一撃でその首を刎ねた。

苦しませる必要も、もう感じなかったから。


三人の人間を喰らい終え、俺はその場に立ち尽くした。

口の周りについた血を、手の甲で無造作に拭う。

満腹感は、ない。

ただ、あの強烈な飢餓感は、一時的にだが、確かに薄れていた。

そして、身体の奥底から、新たな力が湧き上がってくるのを感じる。

傷は完全に癒え、身体能力も、先程よりもさらに向上している。

これが、俺が求めていたもの。

これが、魔王を倒すために必要な力。


だが、この胸に残る虚しさは何だ?

力を得るたびに、俺は何か大切なものを失っているような気がしてならない。

人間としての、心を。

ふと、ロナの顔が脳裏をよぎった。

彼女は、今の俺を見たら、何と言うだろうか。

悲しむだろうか。それとも、軽蔑するだろうか。

分からない。

もう、確かめる術はないのだから。


俺は、その場に転がる三つの亡骸に一瞥もくれず、再び歩き始めた。

目指すは、ギドの言っていた村。

そこに、まだ生き残りがいるのかどうか。

そして、もしいたとして、俺は彼らをどうするのか。

まだ、答えは出ていない。

ただ、俺の足は、まるで何かに引き寄せられるように、その村へと向かっていた。

それが、運命の導きなのか、それとも、ただの飢えた獣の本能なのか。

今の俺には、それを判断することすら、もう難しいのかもしれない。

思考が、徐々に鈍磨していくのを感じる。

ただ、身体だけが、次なる「糧」を求めて、機械的に動き続けているような。

このままでは、本当に、ただの人喰い人形になってしまう。

そんな恐怖が、心の片隅で警鐘を鳴らしているが、それもすぐに、より強い渇望によってかき消されてしまいそうだった。

誰か…誰か、俺を止めてくれ…。

そんな弱音が喉まで出かかったが、俺はそれを必死に飲み込んだ。

止めてくれる者など、いるはずがない。

この道は、俺が自分で選んだ道なのだから。

たとえそれが、破滅へと続く道だとしても。

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