第3話:電波塔に登ってみたかった

 おばあさんの家を去った後、どこかで寝ようかとも思ったが、妙に目が冴えていて眠る気になれなかった。そうして歩いていると、少し都市部の方に入ってきたようだ。少し高めのビルや建造物が点々と建っている。

 ここはかなり見覚えがある。私が住んでいるのはもう少し郊外の方だが、私の職場があるのもここからもう少し奥に行った方だ。


 それから、私がふと顔を上げると、目の前には補修工事中の電波塔があった。確かあれはこの市で一番高い建物で、電波塔の存在自体もこの市では結構有名だったはずだ。

 私は、いつもその上からの眺めが少し気になっていた。あの電波塔の頂上に登って、その上からの眺めを堪能してみたかったのだ。有名な東京タワーやスカイツリーと比べたら随分こぢんまりとした建造物なのは間違いないのだが、この街にあるからこそ登ってみたいといつも思っていた。


「にゃー」

『よし』


 私は一つ鳴き声を上げて、決意を表明した。せっかく猫になったんだし、あの工事現場の足場をつたって、上に登ってみよう、と。

 猫の姿ならそう難しいことはないはずだ。もし落ちて死んでしまったとしても、それはそれでいい。これから先も猫として生きていける保証なんて無いし、死んだら夢から覚めて人間の姿に戻ることだってできるかもしれない。人間の姿に戻れないかもしれない可能性だってあるけど、だとしても別に構わない。

 だって、別に今までの生に未練なんてないのだから。


 ◇


 私は補修工事のために置かれた工事用の足場と足場を乗り継ぎながら、上へ上へと進んでいく。この工事用の足場は、あまり階段が設置されておらず、電波塔に沿って円形状に設置された足場が何層にも積み重なっている形になっている。作業員はハーネスなんかで昇り降りしているのか知らないが、こちらとしてはあまり嬉しくない話だ。そのせいで、今居る層から上の層に飛び乗る瞬間は、毎回ひやひやする。

 しかし、電波塔の枠組み自体も結構幅が広く、足場を使わずとも枠組みの上をつたって上に登ることも、場所によっては可能だ。

 こんなことをしていると、まるでパルクールをしているかのような気分になる。特に、インターネット上に危険なパルクールの映像を上げているインフルエンサーのそれ。


 そうして電波塔の上に登っていくと、少しずつ風が強くなってくる。カン、カンと工事用の足場が金属音を鳴らして揺れる。風が吹いてくる度に肌寒さを感じる。ここは私の足音と風の音しかしない、静かな場所だった。この高度になると、道路を走る車の音や人の雑踏といった都市の喧騒は聞こえなかった。

 現在の時刻がどのくらいかは分からないが、まだ世界は暗いままだった。ただ、私のはるか上空を思いっきり塗りつぶすように広がる空は、どこかぼんやりとした明るさを帯びており、日の出が近いことだけはわかった。


 大丈夫、まだ登れる。


 私は無心で電波塔を登り続けた。どのくらいの間そうしていただろうか。ふと、私の瞳に眩しい光が入ってきて、目を細める。

 改めてその光がやってきた方向を見てみると、そちらには街の建物と建物の間から少しずつ顔を覗かせる、太陽の姿があった。


 ああ、もうそんな時間なのか。


 そう思うと同時に、どこか安堵している自分が居ることに気がつく。日の出の時間まで落ちずにここまで登ってこれたことへの安心だろうか。


 とにかく、この時確かだったことは――


「にゃー」

『そろそろいいかな』


 この電波塔のもっと上に行こうという気が、なくなってしまったことだった。上を見上げてみても、残りの足場の層はあまり多くなかった。電波塔自体はまだまだ続きがあるが、足場もだんだん狭くなってきたし、登れるのは正直この辺りが限界だと思っていいだろう。


 それから、改めてこの電波塔の上からの眺めを堪能する。

 朝日を浴びて輝くガラス張りのビルの側面、だんだんと暁色に染まる街並み。空を泳ぐ冷たい風も、つんと鼻を刺すような薄ら寒い空気の匂いさえも、今はどこか暖かく、心地よいものに感じることができた。

 月並みな言葉だけれど、美しく、綺麗だと思った。


 ――さて、満足だ。


 私はその冷たい工事用の足場の上に座り込んで、体を丸くした。電波塔の上での朝日の日向ぼっこは、すごく気持ちがよかった。

 しかし、そうして丸まっていると私は段々と眠くなってきてしまった。その睡魔に抵抗しようという気分でもなかった私は、その欲求に身を任せて意識を手放した。


 ◇


 私が目を覚ました後も、私が居るのは高い高い電波塔の上だった。現在太陽はだいたい私の真上に存在しており、時間はおそらく正午のあたりだろう。そういえば起きてから『ここに工事現場の作業員が来たらどうしよう』と少し慌てたのだが、今日は休みなのかなんなのか、誰もここに来ている気配はなかった。上空から地上に居る人々の動向を見て今日が休日なのか判断しようと思ったが、それをするにしてはこの場所は高すぎた。

 私は足場の上で大きく伸びをしてから、ひとまず地上に降りることにした。なにせ、ここに居ても景色を堪能する以外にすることなんてないのだから。


 降りるときは登るときよりも少しだけ緊張感が薄れていた。もう既に慣れたということに加え、重力に任せて降りることができたからあまり力まずに済んだのが理由だろう。あるいは、単に寝ぼけているだけなのかもしれないけれど。


 ともかく、ほどなくして私は地上に降り立った。この電波塔は公園の中央に土台が設置されており、私が降り立ったのも公園の芝生の上だ。とはいえ下の部分は工事現場でよく見るあのシートで覆われており、私が降りてくる姿はほぼ誰にも見られていないだろう。

 もし見られていようものなら、その人物から熱い視線が送られてくることは間違いないだろうけど。私だって電波塔の上から降りてくる猫が居たら絶対に驚いて見つめてしまう。


 ともかく、そうして地上に降り立った私を一つの問題が襲った。

 それは――


「にゃん」

『お花摘みにいきたい』


 とてつもない尿意だった。さっきから少しばかり我慢していたのだが、そろそろ無視できない。

 いや、普通に考えて猫の状態なら野でするのが当然なのだが、乙女心としてはひっじょーに、やりたくない。やりたくないのだが、やるしかないのだろう。


 しかし都市部という人の目があるところでするのはさすがに嫌なので、もう少しだけ我慢して郊外の方に言って、自然が豊かな場所で私はお花を摘みたい。

 私はそう考えて、工事現場のシートをくぐって外に出る。急いで郊外の方へ向かおう。

第四話

 私は見覚えのある場所へ戻ってきた。猫になった時、私が最初に居たあの場所だ。

 私の家もこの辺りにあるし、やっぱりここは落ち着く。


 が今は余韻を感じている場合ではない。この辺りなら家と家の隙間にそれなりに目立たないかつそこまで汚くない茂みがいくつかあるはずだから、そこでお花を摘んでこよう。

 私がキョロキョロと周囲を探していると、すぐに条件に合致する茂みが見つかった。私はそこに駆け寄ると――


 ◇


「にゃう」

『すっきりした』


 私は満足げにそう鳴いた。

 いやしかし、自分で言うのもなんだが随分猫の生活が染み付いてきてしまったな。食事も水分補給もトイレも済ませてしまっては、まるで立派な野良猫みたいじゃないか。


 なんだか運命に弄ばれているような気分になってきて少し嫌な気持ちになりながら、私は次の行き先について考えていた。

 そこで最初に思い浮かんだのは、埠頭だった。今日が休日なら、釣りをしているおじいちゃん達が居るだろうし、彼らの傍に擦り寄れば魚を恵んでもらえるかも知れない。あるいは邪険に扱われたとしても、隙を見て魚を奪えばそれで今日の食料は事足りる。


 そんな私の薄汚れた欲望とはまた別に、純粋に私はこの町の埠頭が好きだという部分もあった。

 よく埠頭に座り込んで水平線の向こうを眺めては、私の汚い部分も全て洗い流してくれることを望んだものだ。ただの水分子の運動でしか無い海の波に求めることにしては、レベルが高いのかもしれないけれど。


 ◇


 塩の匂いの混じった風の吹く、コンクリート製の埠頭の上。私は座っていた。目の前には青々とした水平線が広がっており、横の方に目をやると漁船がいくつも並んでいた。

 埠頭をもう少し歩いたところには、釣りをしている男性が居たが、その傍にはまた別の猫が居た。先約が居ることに加えて、その釣り師はかなり猫を邪険に扱っているようだし、彼から魚をもらうのは難しいだろう。


 私は立ち上がり、別の場所で他の釣り師が居ないか探すことにした。そうして私は歩き出したのだが、埠頭の辺りを歩いていると何か奇妙な視線を感じた。

 視界の端に映ったその視線の主は、どこかの高校の指定ジャージらしき服を着た、一人の若い女の子だった。ラケットケースを持っているところを見るに、彼女はバトミントン部所属の高校生なのだろう。

 そんな彼女は、どうにも好奇心を抑えられなさそうな表情でこちらを見つめていた。大方、私を撫でてみたいとかそういう感じのところだろう。


 しょうがない、私は女の子には甘いのだ。背中を軽く撫でるくらいなら許してやろう。


 そう思って私は目を合わせないようにしながらも、わざと彼女の方に寄るようにして歩いていった。

 そうして近づいていくうちに、彼女は慌ててジャージの上着のポケットやズボンのポケットを探ると、何かを取り出した。遠いせいかぼやけていてよく見えないが、小さな何かの袋のようだ。

 私、こんなに視力悪かったっけな。普段は裸眼なんだけど。


 そんなことを奇妙に思いながらも近づいてみると、その袋は猫用のお菓子であることが分かった。あらゆる猫に大人気のチューブ状のお菓子だ。

 ほう、それを私にくれるというのか、なかなかいいやつだな。


 ……というかお菓子を持ち歩いているのはなぜなんだろうか。この町は野良猫が多い方だし、自分の手で野良猫にお菓子をあげてみたかったとかの理由なのかね。ともかく、私にとってはありがたい話だ。

 その女子高生とあと数メートルという距離になったところで、彼女の方からもそろりそろりと近づいてきた。私はそれに今気付いたフリをすると、袋をガン見しながらとてとてと彼女の方に走り寄った。彼女はどこかワクワクしたような表情を浮かべながら、しゃがみこんでその袋を地面に近づける。


 女子高生とはいえ、やはり人間は体が大きいもので、近づくにつれ恐怖感が少しずつ出てくる。だが、彼女の無邪気なその表情を見ていると、そんな気分はすぐに吹き飛んだ。

 改めて近くで彼女の顔を見てみると……可愛いなきみ。どうやら、なかなかの顔整いのようだ。

 しかし、この状況っていわば中身成人女性が女子高生に餌付けをされているものなわけで……いや、考えるのはよそう。


 私はそんな思考を振り切って、目の前に差し出されたチューブ状のお菓子を舐め取った。あんまり乱暴にやるのも良くないかと思って控えめにぺろぺろと舐めているのだが、当の女子高生は非常に満足げな表情を浮かべていた。さらに恐る恐る私の頭の上に手を伸ばすと、私のことを優しく撫で始めた。


「よーし、よしよし……んー! ほんとに可愛い……」


 正直私よりきみのほうが可愛い気がしてならないけどね。猫の身になってすら女子高生に可愛さで負けるのか、とどこか敗北感を覚えながらも私はチューブ状のお菓子を咀嚼し続けた。


 それにしても、これが撫でられるという感覚なのか。頭と背中は毛づくろいしにくいし、そういうところの毛並みが整えられる感覚は……ふむ、悪くない。

 そんな風にお菓子を咀嚼しながら撫でてもらっていると、意図せず自分の喉が鳴っていることに気がついた。あ、猫ってこんな感じでゴロゴロ鳴くんだなぁ。


 しばらくそうしていると、お菓子が底を尽きてしまった。ああ、残念。でもめちゃくちゃ美味しかったのでありがたい。人間の時で言うなら安めのショートケーキくらいの美味しさはあった。

 やっぱり、猫になると味覚も変わってしまうのだろうか。キャットフードだってそこそこ美味しく感じてしまったし。


 そんなことを思っていると、彼女はカバンから小さなビニール袋を取り出してそこにお菓子の袋のゴミを放った。


「初めて猫にお菓子あげられたー! 嬉しい〜! 猫ちゃんもありがとね」


 彼女はそうやって優しく微笑むと、また私の頭を撫でた。このこの、可愛いやつめ。

 『初めて』という発言からして、おそらく彼女は普段から猫に餌やりをしてみたくてお菓子を持ち歩いていたのだろう。ただ、この町の猫は都心の野良猫よりは人馴れしている気がするが、それでも自分から近づいたりずっと見つめていたりすると逃げてしまうことが多い。そんなところに、全く逃げない私が来たから、彼女はここまで喜んでくれているのだろう。

 まあ、こちらとしてもそう悪い気分ではない。


「あ! やばいそろそろ帰らなきゃ! じゃあね猫ちゃん!」


 彼女はスマホを取り出して時間を確認するような仕草をすると、私に軽く手を振ってそのままどこかへ走り去っていってしまった。

 可愛かったなぁ、あの子。


 ともかく、私としては今日の食料も確保できたし、撫でてもらえたしで大変満足だ。そんな風にしてしばらく走っていった彼女を眺めていると、どこか眠たくなってきてしまった。

 美味しいものを食べたせいだろうか。


 まあ今日これ以上どこかへ散策するのも面倒だし、埠頭の辺りで眠ってしまおう。

 今日は日差しも暖かいし、日向ぼっこしながら眠れば最高の気分になれるだろう。


 なんだかんだ、この町には猫に餌をくれる人間が多いらしい。だから、これからもそう食料に困ることはないのかもしれない。水に関しては、まあ水たまりを頑張って探せばいいし、そんなに苦労することもないだろう。

 私は、猫になってもそれなりにうまく生きていけるのかもしれない。


 そう思うと、今までの不安が少し和らいだような気がした。


 さて、今日はもう眠ろう。疲れた。

 私は潮の音が響くコンクリートの埠頭の上で、燦々と輝く太陽の光を浴びながら眠りについた。

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