第17話 陽だまりの食卓
その日、アリア・クレシオンは夢を見ていた。
凍えるような路地裏で、硬くなったパンをふたつに分け合い、汚れた膝を優しい手で拭ってくれた、名も知らぬ誰かの夢。
寂しそうな笑顔が、陽炎のように揺れていた。
「――起きなさい、アリアさん。朝ですわよ」
凛とした、しかしどこか朝露を含んだように柔らかな声が、アリアを夢の淵からそっと引き上げる。
目を開けると、視界に飛び込んできたのは、純金のように輝く美しい髪と、心配そうにこちらを覗き込む瞳だった。
「リゼット……さん……?」
「ええ。あなた、またうなされていたようですわよ」
リゼットはそう言うと、アリアの額に浮かんだ汗を、ためらいがちに、しかし驚くほど優しい手つきで、白いハンカチで拭った。
清らかな百合の花の刺繍と、清潔な石鹸の香りがした。
あの日、ユリウスの前でみっともなく泣きじゃくった夜から数日。
アリアの世界は、まるで魔法にでもかかったかのように一変していた。
リゼット・フォン・アルベインによる、一方的かつ絶対的な『食事管理』という名の支配。
それは、アリアのささやかな抵抗などまるで意に介さず、有無を言わさぬ優雅さで始まった。
リゼットが、アリアの枕元に置かれた合鍵を手に取り、くるりと指先で弄ぶ。
「この鍵を預かったのも、貴女がまともに食事を摂っているか、わたくしが監視するためですもの。夜中に抜け駆けして、また妙なものを口にするような真似は、決して許しませんわ」
しかし、その瞳には、アリアへの気遣いが滲んでいた。
朝、アリアが自室で目を覚ますと、どこからともなく現れたリゼットが、アルベイン家の紋章が入ったバスケットを手に立っている。
中には、湯気の立つ温かいコンソメスープと、ふわりと小麦の香る焼きたてのパン、新鮮な果物。
夜は、一日の訓練で消耗した身体を労わるように、消化の良い魚料理や煮込み料理が、やはり彼女の手で運ばれてくる。
「あ、あの、リゼットさん! わたし、自分でできますから! こんな、リゼットさんのお手を煩わせるわけには……!」
そう言って固辞しようとするアリアに、リゼットは眉を寄せ、まるで出来の悪い妹を諭す姉のような、厳しくも憂いを帯びた表情を浮かべる。
「お黙りなさい。あなた、ご自分がどれほど痩せているか、分かっていないのでしょう? 骨と皮ばかりの身体では、わたくしの
その口調は、どこまでも高慢で、アリアを見下しているかのようだった。
けれど、その瞳の奥には、嘘のつけない真剣な光が宿っていた。
昼休み。
勇者育成学院の広大な食堂は、生徒たちの喧騒で満ちている。
アリアが、申し訳程度に配給のパンをかじっていると、そのテーブルに、すっと影が落ちた。
「失礼いたしますわ」
そこに置かれたのは、銀のドームカバーがかけられた豪奢な一皿。
アリアは、周囲の視線が、一斉に突き刺さるのを感じる。
「ほら、始まったわ」
「金色のリゼット様と、敗北者のアリア」
「一体どういう関係なのかしらね」
好奇心、嘲笑、嫉妬、そして困惑。
様々な感情が渦巻く中で、リゼットはまるで舞台女優のように優雅な仕草でカバーを開けた。
現れたのは、美しく焼き上げられた若鶏のローストと、彩りも鮮やかな温野菜のソテー。
食欲をそそるハーブの香りが、ふわりと立ち上る。
「さあ、お食べなさい。これも訓練の一環ですわ。まずは、まともな食事で資本となる身体を作ること。それができぬ者に、剣を握る資格などありません」
「は、はい……いただきます……」
アリアがおずおずとナイフとフォークを手に取ると、リゼットはアリアの向かいの席に、音もなく腰を下ろした。
そして、自分のためではない、アリアのためだけに用意された紅茶を、そっとカップに注いでくれる。
その一連の、水が流れるように滑らかで、洗練された仕草。
アリアは、目の前の食事よりも、リゼットという存在そのものに見惚れてしまっていた。
陽光を受けてきらきらと光る髪も、すっと通った鼻筋も、真剣な眼差しで自分を見つめる瞳も、何もかもが、自分とは違う世界に生きる人のものだと思った。
そんな人が、今、自分のためだけに時間を使ってくれている。
その事実が、アリアの胸をあたたかいもので満たした。
「……おいしい、です」
ぽつりと漏れたアリアの言葉に、リゼットは表情を変えずに「当然ですわ。アルベイン家の料理人が腕によりをかけていますもの」とだけ答える。
けれど、彼女の口元が、ほんの一瞬、優しく綻んだのを、アリアは見逃さなかった。
その小さな変化を見つけただけで、心臓が、きゅっと甘く音を立てる。
その時だった。隣のテーブルから、わざとらしいほどの大きな溜め息が聞こえた。
「へぇ、リゼット様は随分と、ご熱心なことで。噂通り、この学院は平等という言葉を知らないらしい」
低く、ねちっこい声が聞こえる。
アリアは、思わず身を強張らせ、そちらに視線を向けた。
見慣れない男子生徒が、不愉快な笑みを浮かべてこちらを見ている。
アリアが、思わず立ち上がりそうになった。
目の前で、リゼットを悪く言われている。我慢ができなかった。
その腕を、リゼットの冷たい指が掴んで制止する。
リゼットは、変わらぬ優雅さで紅茶をひとくち飲んでから、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳が、侮蔑を込めて男を射抜く。
「あら、誰かと思えば、アスター家の
リゼットの声は、ひどく静かだった。
だが、その言葉には、研ぎ澄まされた刃のような鋭さと、絶対的な威圧が込められていた。
男子生徒は、一瞬たじろぎ、顔色を変える。
「わたくしが個人的に誰を庇護し、誰に力を貸そうと、それはわたくし個人の判断。それをわざわざ、公衆の面前で下劣な言葉で嘲笑するとは、アスター家の教育は随分と荒んだものですこと。貴族としての品格を疑われますわよ。それとも、わたくしのすることに、何か不満でもおありかしら? ああ、もしかして、あなたもアリアさんと同じく、まともな食事を摂れていないのかしら。それならば、分けて差し上げてもよろしくってよ。ただし、貴族の嗜みとして――まずは跪いて、わたくしにその無礼を詫びなさい」
凍えるような、しかし揺るぎないリゼットの眼差しと、嘲りを含んだ声音。
男子生徒は言葉を失った。
周囲の生徒たちも、その迫力に息を呑み、誰も何も言えない。
「……けっ」
男は、それだけ吐き捨てると、椅子を蹴立てるように立ち上がり、逃げるように去っていった。
アリアは、ぽかんと口を開けて、その光景を呆然と見送った。
リゼットは、涼しい顔で再び紅茶に手を伸ばしている。
周囲を支配していた緊張が解け、ざわめきが戻り始める。
だが、二人のテーブルの周りだけは、まるで時が止まったかのような静寂に包まれていた。
リゼットは、ことさら優雅にティーカップをソーサーに戻すと、ふぅ、と小さなため息をついた。
そして、真っ直ぐにアリアを見つめる。
その瞳には、先程までの鋭い光とは違う、どこか気まずそうな、複雑な色が揺れていた。
「アリアさん」
静かな声で呼ばれ、アリアは我に返る。
「先ほど、わたくしは『才ある者が与えられ、無能な者は淘汰される』と言いましたわね」
「は、はい……」
「かつてのわたくしは……あなたに対しても、同じような、いいえ、もっとひどい言葉を投げつけました。『無能』、そして、『出来損ない』と」
リゼットは、自らの過ちを告白するように、はっきりとした口調で言った。
その言葉は、アリアの胸にかすかな痛みを走らせる。
「あの時のわたくしは、あなたのことなど何も見ようとせず、ただ表面的な評価だけで、あなたを断じ、傷つけた。……本当に、ごめんなさい」
そう言うと、リゼットは、アルベイン公爵家の令嬢としてのプライドも何もかも投げ捨てて、テーブルの上で、アリアに対して深々と頭を下げた。
陽光を浴びて輝く金色の髪が、さらりと揺れる。
「えっ……!?」
アリアは息を呑んだ。
信じられない光景に、思考が追いつかない。
「リゼットさん、頭を上げてください! お願いです!」
慌ててアリアが言うと、リゼットはゆっくりと顔を上げた。
その頬は、かすかに赤く染まっている。
「あなたは、決して無能などではない。むしろ、わたくしにはない、強い心を秘めている。それを認めもせず、傲慢な言葉を……。許して欲しいとは、申しませんわ。でも、これだけは伝えたかったのです」
真摯な瞳が、アリアを真っ直ぐに射抜く。
アリアは、胸が熱くなるのを感じながら、ぶんぶんと大きく首を横に振った。
「そ、そんな……! わ、わたし、全然気にしてませんから! むしろ、リゼットさんにそう言われて、悔しくて、もっと頑張ろうって思えたんです。だから、謝らないでください!」
「アリアさん……」
「でも、もしよければ、ひとつだけ、お願いがあります」
アリアは、にこりと、精一杯の笑顔を作ってみせた。
「うまくいかなかった人や、なかなか結果が出ない人にも、もう少しだけ、優しくして欲しいかなって。リゼットさんは、すごく強くて、正しいから。リゼットさんに、才能がないっ言われたら、本当に何もできなくなっちゃう人も、きっといると思うんです。だから――」
リゼットは、しばらく言葉を失っていた。
やがて、ふっと息を吐くと、照れを隠すように、しかしはっきりと頷いた。
「肝に銘じますわ」
その声は、まだ少し硬かったが、確かな誠実さが滲んでいた。
そして、照れ隠しなのか、いつもの厳しい指摘。
「アリアさん。背筋が曲がっていますわ。背筋を伸ばしなさい。その方が消化にもよろしいですし、何より、見苦しい」
「は、はいっ!」
けれど、その言葉には、不思議なあたたかみがあった。
誰も、アリアにそんなことは教えてくれなかった。
『勇者の娘』というだけで、哀れまれ、あるいは石を投げつけられ、誰もがアリアという人間の中身を見ようとはしなかった。
けれど、リゼットは違う。
彼女は、アリアを『アリア・クレシオン』として見てくれている。
真正面から向き合い、叱り、そして、育てようとしてくれている。
その厳しさは、アリアに向けられた、真っ直ぐな期待の光だった。
「――リゼットさん」
アリアは、ナイフとフォークをそっと置くと、リゼットの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「わたし、リゼットさんの期待に応えられるように、もっと、もっと強くなる。いつか必ず、あなたと対等に戦えるくらい、強くなってみせます。だから――見ていてください」
その言葉は、誓いだった。
初めてできた、たったひとりの大切な友人への。
そして、自分自身への。
アリアの真摯な眼差しを真正面から受け止めたリゼットは、一瞬、瞳を大きく見開き、そして、次の瞬間には、今まで見たこともないくらいに、顔を真っ赤に染め上げていた。
リゼットは、勢いよく立ち上がると、アリアに背を向ける。
「なっ……! き、期待など、しておりませんわ! わたくしは、ただ、合理的な判断に基づいて……! か、勘違いも甚だしいですわ!」
早口でそれだけを言い残し、逃げるように去っていく。
その金色の髪が揺れる後ろ姿は、しばらくアリアの目に焼き付いて離れなかった。
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