第15話 合鍵と非合理な推論

 

 夕刻。

 それは一日の活動時間がその終わりを告げ、世界が夜間へ移行する境界の時間帯。

 職員会議は長引いているが、勇者育成学院の廊下は静寂に支配されている。

 そんななか、リゼット・フォン・アルベインは、ただ一点、会議室のドアを凝視し、思考を巡らせている。


 彼女の目的は、この学院における唯一にして最大の戦略的価値――ユリウスという男の、適正な運用方法を確立することにある。


 彼の戦闘能力と戦術理論は、疑いようもなく超一級品だ。

 一年ほど前の教師選抜トーナメントで、ユリウスの戦闘が芸術の域にまで昇華されたものであることを、リゼットの網膜は正確に記録している。


 ――本来、彼の指導を受けるに最も相応しいのは、このわたくしだ。


 それが彼女の偽らざる本音だった。

 最高の指導者には、最高の生徒を。

 そのことは、論理的思考力を持つ者ならば自明の理であろう。

 だが、現状の彼がその提案を即座に受諾する可能性は低い。


 ならば、次善の策。

 クラスの有志に対する放課後の合同指導。

 それが、リゼットが用意した、ユリウスの教育者としての責務と、彼女自身の目的を両立させるための妥協案だった。

 無論、彼の負担となる懸念も想定済みだ。

 その場合、「まずはわたくしをサンプルとして、指導の効果測定を行うべき」と提案する手筈になっている。

 これは断じて、個人的な感情に起因するものではない。

 あくまで効率的な実証実験の提案に過ぎない――リゼットは、自身の思考をそう結論付ける。


 長らく閉ざされていた会議室のドアが開き、ユリウスが姿を現した。

 周囲の空気が、数度下がったかのような錯覚。

 職員会議は、近々予定されている課外活動に関する打ち合わせだったらしく――彼の纏う雰囲気は、常にも増して無機質だった。


 ユリウスは、誰に視線を合わせることもなく、目的地へ向けて最短ルートで歩き出す。

 その歩行速度は、明らかに速い。

 リゼットは、自身の心臓が発する警告音を意志の力で鎮め、その背を追った。


「お待ちください、ユリウス先生!」


 早足で追いすがり、ようやくその隣に並ぶ。

 ユリウスは視線すら向けずに、ただ「何だ」とだけ返した。

 その声からは、感情の起伏が削ぎ落とされている。


「先日の模擬試験の件、そして、その後の個人指導について、先生にご提案が――」


「後にしてくれ。急いでいる」


「そんなに急いで、どちらへ向かわれるのですか?」


 リゼットの問いに、ユリウスは初めて、わずかに視線を彼女に向けた。

 その漆黒の瞳には、何の感情も浮かんでいない。


「アリアのところだ」


 その返答は、リゼットの思考を一瞬止めた。

 これだけ待っていた自分より、あの子が優先される――そんな邪念は、無駄な思考としてすぐに振り払った。


「アリアさんの……? ですが、もう日も落ちています。トレーニングには暗すぎるのでは?」


 暗いからこそ、できることがある――ということもあり得るだろうか。

 起こり得るすべての状況を事前に経験しておくことが重要だ、とか。この男なら考えそうなことだ。

 ただ、ユリウスは、トレーニングではない、と答えてから、


「アリアの部屋に行く」


 アリアの。

 部屋に。


 その単語は、リゼットの思考回路に、これまで経験したことのないレベルのエラーコードを叩き出した。


 教師が、

 日没後に、

 女子生徒の、

 部屋を、訪れる。


 その一連の事象が示す可能性。

 それは、彼女がこれまで遵守してきた貴族としての倫理観、そして学院の規律体系そのものに対する、明確な挑戦であった。


「……っ! お待ち、なさい! ああっ、あなたは、ご自分が何を口にしているのか、理解しておいででして!?」


 リゼットの声は、自分でも驚くほど上擦っていた。


「教師と生徒が、そのような……そのような不適切な、不適切と、ごかっ」


 落ち着け。冷静に。「誤解されるような、いえ、誤解されかねない関係を持つなど、断じて許されることではありませんわ! 万が一、何かあった場合、あなたは責任を取れるのですか!」


「責任の所在は、すべて俺にある」


 ユリウスの返答は、即時かつ平坦だった。「俺は、彼女の指導者だ。すべての事象に対し、全責任を負うのは当然の義務だ」


「ああもう、ああもうっ! そういう次元の話ではありません! そんな、こんな、遅くなってから――」


 指導者としての責任。

 彼の言うそれは、おそらくアリアの戦闘能力に関するものであろう。

 だが、リゼットの脳裏をよぎるのは、より世俗的で、生々しい男女間の問題である。

 この致命的な認識の齟齬が、リゼットの感情を限界まで揺れ動かす。


「何も心配する必要はない」


 ユリウスは、まるで故障した機械をなだめるかのように、事実だけを告げた。


「合鍵も、持っている」


「あ、……え?」


 リゼットの思考が、完全に停止した。

 かぎ……? あい、かぎ……?

 数秒間の沈黙の後、彼女の白い頬が、沸騰したかのように一気に赤く染まる。


「なっ、ななな、何を考えていらっしゃるのですか、あなたは!? なぜ、あなたが、アリアさんの部屋の鍵など! 何のために!? ああもうああもう!」


 羞恥、怒り、そして理解不能な焦燥感。

 それらが渾然一体となり、彼女の精神を飽和させる。

 教師と生徒の、不適切な関係。それは言語道断で破廉恥なスキャンダルだ。万が一、万が一にも、そんなことが公になれば、この学院の名にどれだけの傷が――いや、それ以前の問題! 人として!


「――最低ですわっ!!」


 リゼットの絶叫が、静まり返った廊下に響く。

 アリア・クレシオンを守らなければならない。

 同級生として。同じ舞台で競う戦友として。好敵手として。

 許せない……! 何が許せないのかは、もはや論理的に説明できないが、とにかく! 断じて、許せない!


「わたくしも同席させていただきます!」


 羞恥と怒りの奔流が、彼女の論理的思考を完全に洗い流していく。

 もはや、この男を一人で行かせるわけにはいかない。

 それが、彼女が導き出した、唯一の結論だった。

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