第2話

 雨は――降っていないはずだった。

けれど、朝方。窓を叩く音で目が覚めた。

水滴のような何かがガラスに打ちつけられていて、その合間を縫うように、ねっとりとした風が部屋に忍び込んでくる。


「……なんだこれ。」


寝ぼけ眼を擦りながら、リュカはカーテンを開けた。

空は晴れている。雲ひとつない青空だ。

窓の外の地面も、まったく濡れていない。

なのに――喉が妙に乾く。

頭の奥が重く、肺に入ってくる空気がざらついている。肌の上を撫でる風が、生温くて気味が悪い。

背後では、テアが小さく寝息を立てていた。

ベッドの上でくるんと丸まり、まるで壊れもののように静かに眠っている。


(……寝顔は、こんなに穏やかなのに。)


最近、町の空気が少しずつおかしい。

いつもなら朝の市場は人の声で騒がしいのに、今ではその賑わいが薄れ、かわりに――妙な旋律が時折、風に乗って届いてくる。

それは、《Ekīsia》の劇で使われていた音楽。

明るく、夢のようで、それでいてどこか胸をざわつかせる曲。

昨日も、帰り道に鼻歌でそれを口ずさむ子どもとすれ違った。

おかしいのは町か、自分か。

確かめなければ、何かが取り返しのつかない形で崩れていきそうな気がしていた。


「……ちょっと、出てくる。少しだけだから。」


いつの間にか起きていたテアが、布団の隙間からこちらを見ていた。

弱々しく瞬いたその瞳は、どこか予感めいていた。

リュカは笑って見せようとしたが、唇が震えた。

うまく笑えただろうか。

テアの顔を見ていると、なぜか「置いていくこと」が怖くなった。

けれど、答えは外にある――そう思った。

足は自然と、あの劇場へと向かっていた。


 

途中、通りを曲がったところで、一人の男とすれ違った。

その顔には見覚えがある。

《Ekīsia》の団員だった男。

かつて舞台の上で、派手な衣装に身を包み、客席を魅了していた。

――だが、今の彼はまるで別人だった。

表情が空っぽだ。

リュカの顔を見ても、反応がない。

まるで、自分が存在していないかのように――。


「……あれは、本当に……?」


呼びかける間もなく、男はふらふらと曲がり角の先に姿を消した。

追いかける気にはなれなかった。背筋に冷たいものが走る。


劇場が見えた。外観は昔のままだ。

けれど、明らかに“何か”が違っている。

音が――ない。

鳥のさえずりも、木々のざわめきも、町のざわめきも。

まるで、ここだけ世界から切り取られているかのように静まり返っていた。

劇場の前に立つと、扉の奥から音楽が微かに聴こえてきた。

美しい旋律だ。

完璧な調和。

それなのに、リュカは背筋がぞっとした。

これは、祝福の音ではない。

――何かを捧げる儀式のような。

そんな不穏な響きが、確かに混じっている。


(……やっぱり、ここだけが特におかしい。)


覗き込むつもりだったわけじゃない。

けれど、一瞬、幕が揺れ、舞台が見えそうになる。


(……あまり近づくんじゃねえ。)


低く、冷ややかな声が、思考に割り込んできた。

脳の奥で、焚き火のようにくすぶっていた何かが、強く警鐘を鳴らしている。

リュカは踵を返し、劇場から離れた。胸の鼓動が早い。何も見なかったはずなのに、心の奥がざわざわと落ち着かない。

 


家に戻ると、身体が急に重くなった。

何かが剥がれ落ちるように、力が抜けていく。

足がもつれ、視界がゆらいだ。


「……ただい……」


言い切る前に、玄関の床に膝をついた。

頭が痛い。

心臓が一拍、跳ねるように軋んだ。

あの劇場の空気が――何か、知らないものに触れたせいだろうか。

遠くで、テアが慌てて駆け寄る姿が見えた。


(……守らないと。)


視界がゆっくりと沈んでいく。

意識が、夢の底に落ちていった。





 同じ頃。

劇場Ekīsiaのステージ裏では、団員たちがまるで“演目の最中”のように静かに、だが熱に浮かされたように動き続けていた。

誰も無駄口を叩かず、指先に至るまで、すべての所作が滑らかだ。

振り付け、仕込み、衣装、照明、舞台装置――どれもが完璧に噛み合っていく。

だがその顔には、生気がなかった。

まるで夢の続きを演じているような目。現実との境界が薄れた人形たち。


「昨日ね、聞こえたの。エレーヌさんの声。」


誰かがぽつりと呟く。


「“もうすぐよ”って、そう……。舞台が完成すれば、エレーヌが救われるって。」

「うん……うん。聞いた、私も。綺麗な声だった……」


誰も、疑わない。

それが現実かどうかも、もうどうでもいいのだろう。

《Ekīsia》が再び輝き始めてから、皆は変わった。否、“何かに染まり始めた”。



アベルは、鏡の前にいた。

化粧の途中でも、衣装の準備の最中でもない。

ただ、そこに座っていた。

鏡の中に映る自分は、どこか違って見える。

眼差しの奥に、誰かがいるようだった。


「……もうすぐだよ。あと少しで、君の願いは叶う。」


アベルは静かに語りかける。

まるで鏡の向こうに、愛しい誰かが本当にいるかのように。

鏡の中の“エレーヌ”は、黙って微笑んでいた。

その唇が――動いた気がした。

幻か、それとも……。


『ねえ、アベル。舞台は美しくなった。でも……まだ“足りない”の。』

『そう。完璧な舞台には――“神の器”が要るの。』

「神の器...?」

『私も救えて、みんなも救えたらとてもいいと思うの。そうじゃない?』


その声は、確かに耳ではなく、“心”に響いた。

アベルは、ゆっくりと目を伏せる。

口元に、微かな笑みが浮かんだ。


「……わかってる。君の願いだろう。……私の、すべてでもある。」


沈黙。


『……もう、見つかっているでしょう? “あの子”が。』


――一拍。

アベルの喉が、かすかに鳴った。

そして、ぽつりと。


「……ああ。いたね。」

「神の器に、ふさわしい子が。」

 

 

再び、団員たちの足音が響いた。舞台の支度が進む。

その中心に立つアベルは、かつての“劇団の長”ではなく、舞台の司祭のような気配を纏っていた。

完璧な舞台。

完璧な夢。

完璧な“彼女”のために。

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