第19話
「……今日は照明の演出を、数秒遅くしてみたの?」
誰もいない袖に向かって、アベルが問いかける。
誰にともなく、けれど確かにそこにいる“誰か”へ向けて。
「貴女がそんなミスをするなんて……珍しいね。」
薄く笑みを浮かべたまま、空っぽの空間をじっと見つめる。
まるでそこに、エレーヌがいるかのように。
「え……違う?……エレーヌは、何もしてない?」
表情が微かに歪む。
目の奥に、焦燥が滲む。
少し空気が冷たくなる。
次の瞬間、舞台装置を操作する団員へと向き直り、声の調子をほんの少しだけ強くする。
「――次からは、全体的に照明を早めてください。間が悪くなると台無しになるので。」
それは、指示というより“強制”に近かった。
団員は戸惑いながらも、小さくうなずくしかなかった。
アベルは気づいていない。
自分の中にある“基準”が、すでに現実のものではなくなっていることを。
あのエレーヌが演出していた“完璧な美”を――無意識に、なぞろうとしている。

稽古終わり、舞台袖の空気が妙に重たいのは、最近ではもう日常になりつつあった。
「なあ……団長、また誰もいないとこに話しかけてたよな。」
「あれ、もう“癖”なんじゃない?……でも、たまに返事してるみたいな時ない?」
冗談のように言った若手の団員が、笑いかけた口元をすぐに引き結ぶ。
笑えなかった。誰一人。
別の団員がぽつりと漏らす。
「それに……あの“男”、団長が紹介してからずっと、誰かと話してるとこ見たことないよな。」
「何してるかもよくわかんない。けど、いつの間にか舞台裏にいて、団長のそばにいる。」
「……あれ、ほんとに“新団員”なんだよね?」
口には出さないが、皆が思っている。
――あれは、何者なのか。
――そして、団長は、本当に“大丈夫”なのか。
照明係のひとりは、稽古中ふとしたミスを叱責されたあと、舞台袖の隅で呟いた。
「……あんな風に言われたの、初めてかも。前は……“良くなる方法”を一緒に考えてくれたのに。」
手のひらを強く握りしめながら、目を伏せる。
「最近の団長、“正解”だけを求めてる気がする……それが、なんだか……こわい。」
その言葉に、周囲は何も返さなかった。
ただ、誰かがそっと視線を向ける。
舞台中央で誰もいない空間に微笑みながら指示を出す団長の方へ。
その視線の先、見えない何かと“会話”するアベルの姿が、あまりにも自然で、異質だった。
誰かがぽつり、
「……団長が話してる“誰か”ってさ……エレーヌさん、じゃないよね?」
空気が凍る。
数人の団員が一斉に視線を逸らした。誰も、それを否定できなかった。
「……ありえないだろ。エレーヌさんは……もう、」
「でも、団長の目……あれ、昔よく彼女に向けてた時と、同じじゃん。」
「ほら、“ちょっと笑ってるけど寂しそうな目”。……俺、ずっと忘れられなくて……」
誰かが、ぎゅっと袖を掴んだ。
もう何年も共にやってきた古株の団員だった。
その手は微かに震えていた。
「……じゃあ、団長は――ずっと“そこにいない彼女”と話してるのかよ……?」
「そんなの、おかしいだろ。ちゃんと、前に進もうって、皆で……」
誰も続けられなかった。
前に進もうとするたびに、団長だけが遠ざかっていく。
彼が目を向けているのは、過去か、幻想か――いずれにせよ、もう誰の手にも届かないものだった。
そしてその日、リハーサルで一瞬だけ照明と音響がズレた。
誰のせいでもない、ほんの小さなミス。
その夜。
鏡の前で、アベルはひとり、己の顔を見つめていた。
「違う……こんなんじゃ……!」
ふいに、低く呟いた声が熱を帯びる。
「こんなんじゃ……ダメなんだ……!!」
拳が鏡にぶつかる寸前で止まる。
その震えは、怒りか、それとも恐怖か。
--大丈夫よ。
ふっと気配を感じて振り返る。
そこには、誰もいない。
けれど、彼の視線の先に――何かが、いた。
「……うん、大丈夫。わかってる。次は、きっとうまくやるよ。」
語りかける声は、優しくて、どこまでも穏やかで。
その表情はまるで、誰かに慰められているかのようだった。
そうして、アベルは静かになった。
そんな日が、何度も、繰り返された。
男が団内に加わってからというもの、徐々にEkīsiaはかつてないほど滑らかに、華やかに、回り始めた。
舞台はいつもより鮮やかで、演出はまるで観客の感情を先読みしているかのよう。
照明、音響、演者の動き――すべてが、あまりに、完璧だった。
けれど、その“完璧”は、どこか異様だった。
「……なんか最近、団長の演出……すごすぎて、逆に息が詰まるっていうか……」
ぽつりと、若手の団員が呟く。
「前はさ……もっと、余白があったじゃない。団長の舞台って。」
古株団員は無言で首を縦に振った。
感じている。みんな、薄々気づいている。
この劇団のどこかが、変わり始めている。
アベルは、いつもと変わらぬ微笑みを浮かべて舞台を指揮する。
けれどその瞳は、どこか焦点が合っていないように見える瞬間がある。
稽古の合間、誰もいない空間へふと向けられる視線。
そこに微笑みかけるような仕草。
「あ……また、だ。」
誰かがそう呟いたとき、舞台袖の暗がりから、ひときわ目立つ男がこちらを見ていた。
口元に張りついたような笑み。
嘲るでもなく、喜ぶでもなく――ただただ、楽しそうに。
その笑みを、誰もが忘れられなかった。
表面上は変わらない。
団長も、団も、客も、誰もが満足している。
けれど、その裏で確かに何かが狂い始めていた。
まるで、華やかな仮面の裏に塗り込められた、見えない歪みのように。
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