第8話

 風が、やさしい。

ふわりと吹き抜けた春風に乗って、野の花の香りがテントの中まで入り込んできた。

サーカスEkīsiaの新たな本拠地――その舞台が、ついに完成した。

桜の花が、舞い落ちる。

草むらにはチューリップやマーガレットが咲き、テントの周囲には仲間たちが植えた花壇の花々が色とりどりに開き始めている。

冬の間、皆で少しずつ整備してきたこの場所が、ようやく形になったのだ。


「……ほんとに、できたんですね。」


エレーヌが、仮設足場から見下ろすようにしてテントを見渡す。

陽光を受けて、白と赤の天幕が柔らかく光っている。

その先には、まだ少し泥の残る道、そして花びらの絨毯が風に揺れていた。


「ええ。夢の入口が……ようやく、ここに。」


隣に立つアベルが、小さく息を吐く。

指先には、まだ木材を扱った痕跡が残っている。

団長である彼が、工具を持ち、脚立を上がり、汗を流して作業していたのは、この場所がただの「舞台」ではなく、彼にとっての「家」であり「夢」だからだ。


「皆、よくやってくれました。」


その声が届いたのか、舞台下に集まっていた団員たちが


「うおおお~~~!!」


と大歓声を上げた。


「見ろよあのテント!もう劇場って呼んでいいだろ!」

「春の公演に間に合ったぞー!!」

「エレーヌ、あんたのおかげだよ~、花壇最高!」


ペンキの跳ねたシャツ、まだ埃まみれの顔。

けれど、皆の瞳は、疲労ではなく希望に満ちていた。

舞台の周囲では、桜とパンジーが混じる花畑の中で、ランタンの柱が次々と立てられていく。

設営班が大きな幕を張り、衣装班が干し場に布を吊るす。

皆が「ここが私たちの場所だ」とでも言うように、きびきびと動き出していた。

どこかで、草笛の音が響いた。誰かが、舞台裏で踊り出している。


「なんだか、お祭りみたいですね!」


エレーヌがくすりと笑うと、アベルも微笑んで頷く。


「ええ。夢の前夜祭のようです。……始めましょう。ここからが、本当の“演目”です。」


新しい旗が、空へと揺れた。

春風とともに、サーカスの物語が、音を立てて動き出した。

 


 

装置も整い、あとは飾り付けまでとなったテントの舞台前の広場に、団員たちが集まっていた。

テントの天辺には《Ekīsia》の新しい旗が翻り、ランタンの灯りが少しずつ灯され始める頃。

春の空気に包まれたその場所は、どこか神聖な舞台のようにも見えた。

アベルが、皆の前に立つ。

彼の衣服にはまだ泥と木屑がついていたけれど、それが逆に、どれだけ彼がこの場に尽くしてきたかを物語っていた。

静けさの中、アベルが一歩、前へ出た。


「皆さん――まずは、ありがとうございます。」


その言葉に、少しざわついていた団員たちがぴたりと静まる。


「この場所が、ようやく“かたち”になりました。冬を越え、風に吹かれながら、あなたたち一人ひとりの手が、この舞台を作り上げた。……それが、何よりの奇跡だと、私は思います。」


淡々とした口調の中に、じわりと温度が滲む。

誰かが小さく鼻をすすり、誰かが「うん」とうなずいた。


「ここは、旅の終着点ではありません。けれど、間違いなく《Ekīsia》の、新しい“出発の地”です。――初公演は、来週の夜。舞台はもうある。あとは観客を迎えるだけです。」


緊張と期待の入り混じる空気の中、アベルの視線がゆっくりと皆を見渡す。


「これから、飾り付けを進めます。道を整え、灯りを点け、花を添えましょう。ここが、どんな場所か――私たちが“見せて”いくのです。」


そこに、静かな自信と誇りがあった。


「このサーカスは、幻想であり、真実です。誰かの夢であり、誰かの救いである。……私は、それを信じています。」


アベルが微笑むと、周囲の空気がふっと和らいだ。


「貴方たちとなら、できる。ここからの一週間、最後の準備に入ります――この舞台を、世界で一番美しい場所にしましょう!」

「おー!!!」


団員たちの声が、春空に響いた。

拍手、笑い声、肩を叩き合う音――それは希望の音だった。

エレーヌはそんな様子を見守りながら、小さく目元を拭った。


――「よかった」


きっと皆も、同じ気持ちだった。

 



 公演前夜。

恋人とは呼べない、曖昧な時間の中。

いつも通りの夜。エレーヌがランタンを灯していて、その光に照らされた頬が、妙に綺麗だった。

アベルはふと目を留めてしまい――次の瞬間、自分でも驚くほど自然に言葉がこぼれた。


「……綺麗ですね」


彼女は少し照れたように笑って、視線を逸らす。

その仕草に、鼓動が一つだけ跳ねた。

静かな間。

そしてアベルは、何かを確かめるように、けれど迷いのない手つきで、そっと彼女にキスをする。

ほんの一瞬の、けれど確かにそこにあった、温かくて柔らかい感触。

驚いたように目を見開く彼女に、アベルはあくまで穏やかに、けれど少しだけ照れたように笑った。


「……やっぱり、そうなんだと思います。私は、貴女が好きです。」


――返事は、要らなかった。



 飾り付けが終わり、団員全員で今一度サーカス場を見る。

彼女が


「やっとここまで来たんですね。」


と笑って、

アベルが


「ええ、貴女とだから、ここまで来られたんです。」


と静かに答える。

しばらく、誰も何も言わず、ただ灯りの点ったサーカス会場を眺めていた。

ふと、アベルの手がそっと彼女の頬に触れた。

そして優しく口付けをした。

その瞬間、彼女の肩が小さく跳ねて、団員たちの間か「きゃーっ」と声が上がる。

照れたように笑うアベルと、顔を真っ赤にして視線を逸らす彼女。

でも、どこか嬉しそうなその仕草に、また周囲が湧いた。

――こうして、正式に団員にもふたりが恋人になったことを知らせることができたのであった。

それはまるで、春の光の中に咲いた、新しい花のような出来事だった。

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