第7話
朝が来た。
けれど、いつもの朝ではなかった。
夜の冷気は去ったはずなのに、テントの中には冷たい空気が漂っている。
団員たちは口を閉ざし、誰もが静かに、ただ動いているだけだった。
昨夜の喧騒が嘘のように、今は鳥の声すら聞こえない。
燃え残ったキャンドルの香りだけが、まだかすかに漂っている。
誰かが幕を閉じ、誰かが朝食を作り、誰かが黙って掃除をしている。
それはまるで、何かを“なかったこと”にしようとしているような静けさだった。
エレーヌの姿はどこにもなかった。
それだけで、サーカス団はまるで色を失ったようだった。
「……団長は?」
「まだ……あの場所から動いてないって。」
小声の会話が、テントの隅で交わされる。
誰もが、彼女の死をどう扱っていいのかわからなかった。
喪失感、疑念、恐怖。けれどそれを言葉にすれば、何かが壊れてしまいそうで。
アベルは、まだ口を開かなかった。
誰が声をかけても、ただ小さく首を横に振るだけだった。
目の下には深い隈が浮かび、まるで何かを追い詰めるような視線を持っていた。
彼は昨夜、あの舞台で“何か”を見た気がしている。
けれど、それが何だったのか、はっきりとは思い出せなかった。
ただ、夢を見ていた。とだけしか考えられなかった。
白んだ朝の光が、舞台の隙間から差し込む。
それが彼の肩を照らしても、まるで気づいていないようだった。
ぼんやりと、何かを見つめている。
けれど、その目は焦点を結ばない。
――信じられない。
あのエレーヌが、もういないなんて。
たとえ誰かがそう口にしても、アベルには届かない。
まだ彼の中では、昨夜の幕が降りていなかった。
「……団長、また何も食べてないみたいです。」
そっと声をかけたのは、若い団員だった。
テントの外で、数人が集まり小声で話し合っている。
「昨夜からずっとあそこに……あのままじゃ、倒れちゃうよ。」
「でも、どう声をかければ……」
ざわつく心が、誰にも言葉にできない。
エレーヌの死。それは団の心臓が止まったような衝撃だった。
アベルはいつも、彼女と共にあった。
舞台も、団も、すべて彼女と作ってきた。
その“片方”を失った団長は、まるで歯車の外れた人形のようだった。
「……俺、話してみるよ。」
一人の中堅団員が、そう言ってテントへ向かう。
テントの中には、まだ“終演”を拒んだままの時間が流れていた。
「団長……」
テントの幕をそっとくぐると、そこにアベルが座り込んでいた。
朝の光はもう天井から差し込んでいるのに、ここだけはまるで夜のままだった。
アベルは上着を握りしめたまま、動かない。
目を閉じているのか、それともただどこか遠くを見つめているのか――わからなかった。
「団長、少し休みませんか」
声をかけると、アベルはゆっくりとこちらに視線を向けた。
目の奥には、色がなかった。
「……舞台の準備は?」
「あ、いえ……。今日は、さすがに……」
「そうですか。」
短い返事のあと、アベルはそっと視線を戻した。
何も起きなかったかのように。
まるで、昨夜の出来事がこの場所に存在しなかったかのように。
団員は何か言おうとしたが、喉に詰まった言葉はうまく声にならなかった。
代わりに、彼の手が硬く握りしめている布に目がいく。
それは、エレーヌの衣だった。
テントの床を踏む足音が、静かな空間に響く。
アベルは微動だにせず、団員が近づくのを待っているようだった。
「団長……。」
そっと名前を呼ぶ。返事はない。
団員は躊躇しながらも、静かに言葉を紡ぐ。
「皆、心配しています。昨日から何も食べていないし、休んでもいない……。」
アベルはゆっくりと瞬きをしただけだった。
それでも、ちゃんと聞いているのだと団員は察して、続けた。
「……俺たちも、まだ信じられません。でも、エレーヌさんは――。」
言葉を選びながら、慎重に、そっと告げる。
「……もう、戻らないんです。」
その瞬間、アベルの指がかすかに動いた。
テント内に、静寂が落ちる。
団員は続ける。
「団長……ちゃんと、受け止めてください。エレーヌさんは、もう――」
「――違う。」
掠れた声が割って入った。
まるで、息をするのも忘れていたかのような、低く乾いた声だった。
団員が息をのむ。アベルはゆっくりと立ち上がっていた。
「……エレーヌは、死んでなんかいない。」
声が震えている。けれど、それは悲しみの揺らぎではなく、確信を持った響きだった。
「彼女はここにいる。消えたりなんかしない。」
胸元に握りしめた上着を、ぎゅっと抱きしめる。
アベルの目が、まっすぐ団員を捉えた。
「……私は、見たんだ。蝶が舞っていた。エレーヌの傍で。」
あの夜、静寂の中で羽ばたいていた蝶。
まるでエレーヌがそこにいると告げるように、ひらひらと。
「だから、彼女は生きている。いなくなってなんか、いない……!」
声が熱を帯びる。震える指先が上着を強く掴む。
「そうですよね……? そうだよね、エレーヌ……?」
舞台がある方へ視線を向ける。
何もない。けれど、彼の瞳には“そこに彼女がいる”かのような光が宿っていた。
団員たちは言葉を失う。
やがて、誰かがぽつりと呟いた。
「……団長……」
静寂。誰も彼を否定できない。
なぜなら、アベルのその声は、あまりにも――狂気に近かった。
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