第5話
静寂のテントに、キャンドルの揺れる火が影絵のように揺れていた。
エレーヌは音を立てぬよう、そっと身体を起こす。白いレースの布地の衣が微かに揺れ、彼女の足の甲に触れた。
彼の寝息が静かに響く。
無防備な横顔。
もう何度も見てきた、大好きな顔。
エレーヌはそっと、彼の隣に膝をついた。
目を覚まさないように、優しく、優しく指先を伸ばす。
額にかかった髪をなぞり、そっと耳にかけると、ほんの少し眉が動いた。
「……愛してるわ。」
声が震えた。けど、それでも続ける。
「あなたを、サーカスを守るためなの。」
唇を寄せて、彼の額にそっとキスを落とす。
涙が、落ちるより先に頬を伝っていた。
もう戻れないかもしれない。
でも、行かなきゃ。
未練を一つ、彼に預けて。
エレーヌは立ち上がり、テントの布をそっと押し開けた。
外ではまだ風が眠っている。
誰もいないこの時間なら、きっと気づかれずに済む。
夜の冷気が肌を撫でる。星々の気配が、彼女を見下ろしていた。
「……ごめんなさい、アベル。」
たった一歩。けれど、それはとても長い一歩だった。
振り返れば、もう戻れない気がして。
だから、目を閉じて、彼女は足を踏み出した。
舞台の上には誰もいない。
それでも彼女は、まるで誰かと約束を交わしたかのように、ゆっくりと袖の中から古びた布片を取り出した。
かつての演目で使われていたもので、今では誰も触れようとしない小道具。
彼女はそれを舞台中央に広げると、花の小道具を一輪だけ、静かに置く。
香を焚きながら、ふと、エレーヌの手が止まる。
これはただの“縁起物”の儀式。
けれど、それでも。
もしも――この“何か”が、自分の存在を「敵」として認識したら。
それは、きっと――見逃してはくれない。
(最悪の場合、私は……)
喉がかすかに震えた。
逃げ出したいという思いが、喉元までこみ上げる。
でも。
(アベルに、愛すべきこの場所に何かが起こるくらいなら――私が、ここで終わる方がいい)
震える手を胸元に当て、彼女はそっと目を閉じた。
たとえ命を削ってでも、守りたいものがある。
手のひらを胸元に当て、目を閉じる。
声にはならない何かを唱えている。
けれど空気がわずかに震え、風のないはずの幕がそっと揺れた。
次第に舞台の空気が重たくなる。
何かが、そこに集まってきていた。
彼女の指先が小さな光を描き、それが花に重なった、
その瞬間――
ぱち、と灯りが弾けた。
瞬きをひとつすると、目の前に人影が立っていた。
「やあ、人間ちゃん、こんばんは。」
緊迫した舞台に似つかわしくない、軽やかな声。
「どうしてこんな粗末な儀式で、僕を封印しようなんて思ったの? ほんと、人間って不思議。」
微笑む“何か”。
「……貴方は、まだ“名前もない何か”なのね。でも……このサーカスに、アベルの傍にいるのだけは、やめて。」
エレーヌの声は震えていなかった。静かに、確信に満ちていた。
「……ふーん。“君は”気づけたんだ。僕が何をしようとしてるか。」
“何か”が面白がるように目を細める。
「でも辞めるわけないじゃん。こーんなに面白そうな“モノ”、見つけちゃったんだもん。」
両腕を広げ無邪気に笑うその姿は、悪意というより“興味”そのものだった。
「せっかくなんだからさ……邪魔しないでよね?」
「……っ…!!」
空気が止まる。さらに冷たくなる。
息ができない。
“何か”は少し考えるように首を傾げ、それから何かを思いついた子どものように表情を変えた。
だが、エレーヌはその意味を知ることはなかった。いや――知り得なかった。
なぜなら、もう彼女の心臓は、“何か”の手の中にあったから。
「僕に気づけたご褒美だよ。美しく散れるなんて、人間にとっては名誉なことでしょう?」
次の瞬間、彼女の身体は崩れ落ちた。
その胸にあったはずの心臓は、すでにそこにはない。
静まり返った舞台には、冷たくなったエレーヌと、どこからともなく現れた一羽の蝶だけが残されていた。
寒さで目が覚めた。テントが少し開いていたからか?いや、違う。隣にいたはずの温もりがなかったからか。
「エレーヌ?」
どこへ行ったのだろう。と少しの不安を持ちながら歩を進める。
ふと舞台の幕が、静かに揺れていた。
いつの間にか風が吹き込んでいる。こんな夜更けに、誰が……?
アベルは無意識のうちに、足を運ばせていた。
心に引っかかる微かな違和感。
眠りの中で名を呼びそうになったその声が、彼をここまで導いた。
重く軋む舞台の扉を押し開けた瞬間
――息を呑んだ。
舞台の中央。照明は灯っていないのに、キャンドルの残り香が漂っていた。
そこには、白い衣をまとった誰かが、静かに倒れていた。
「……エレー…ヌ?」
呼びかけながら近づく。けれど、返事はない。
息が詰まる。嘘だ。そんなはずがない。
足元に敷かれていた布。その上に散らばる小道具。
これは……昔の演目で使われていたもの?
なぜ今ここに?
それよりも、彼女の手元に残された、黒く煤けた焦げ跡のような印。
妙に焦げ臭い空気。
舞台上だけ、明らかに“何か”が終わった痕がある。
震える手が、そっと彼女の頬に触れる。
冷たい。
それは“ただ眠っている”温度ではなかった。
思わず息を呑む。
「……嘘……だろ。」
呟きが零れる。声が震える。
――わからない。何が起きた?夢なら覚めてくれ。
冷たくなった彼女の頬に触れた手が、震えている。
現実感がない。これが夢なら、早く醒めてほしい。
けれど、どこまで待っても、彼女は目を開けてはくれなかった。
「……だれか……っ」
誰かを求めエレーヌを抱え走り出す。声が掠れた。息が苦しい。喉の奥から、かすれた声が漏れる。彼女の身体を抱きしめたまま、顔を上げる。
「……誰かっ! 誰か、起きてくれ!!」
静寂のテントに、アベルの叫び声が響き渡る。
深夜の静けさが、ただ残酷に音を吸い込んでいく。
何度も、何度も叫ぶ。
ようやく、誰かが起きる音が聞こえた気がした。
「頼む、誰か……誰か……!」
崩れ落ちるように、彼は再び彼女を抱き寄せた。
温もりを失ったその身体を、離したくなくて。
まるで、こうしていれば、彼女がふと目を覚まして、あの優しい声で笑いかけてくれるような――そんな、叶わぬ幻想を抱いてしまいそうで。
やがて、テントに明かりが灯り団員たちの影が現れる。
最初に駆け寄ったのは若い団員だった。彼は目を見開き、咄嗟に後ずさる。
「え……エレーヌさん……? な、何が……」
アベルは言葉を返せなかった。
ただ、目の前の現実を、まだ自分自身が信じられていないまま、彼は呆然と座り込んでいた。
彼女の目は閉じている。穏やかな顔だった。
まるで、すべてを終えて、満足したような。
「エレーヌ……起きてくれ……頼む…」
どれだけ揺さぶっても、どれだけ呼んでも、彼女は二度と目を開けない。
「まだ…まだ、私たちの舞台は、終わってないよ?」
エレーヌの青白い肌に水が滴る。止まらない。
そのとき、どこからか蝶がひらりと舞い降りる。
小さな羽音が、あまりに静かに耳に触れる。
周りで団員が騒がしい。しかし何も聞こえない。
アベルはただ、そこに座り込み、彼女の名を呼び続けるしかなかった。
――このとき彼はまだ、何も知らなかった。
彼女が、命を懸けて“何か”を舞台に封じようとしたことも。
その“何か”が、まだどこかで息を潜めていることも。
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