第6話

 燈塔の光が徐々に村を照らし始めた。

 中心部には十分な明るさが戻り、村の境目にも淡い灯りがともりつつある。その変化は、静かだった村の生活を少しずつ変えていた。獣害は明らかに減り、夜道を歩くときに怯えるような緊張感は薄れ、夜空を仰ぐ余裕さえ生まれていた。子どもたちは久しぶりに外で遊び、畑仕事を終えた大人たちは薄暗い家に戻る代わりに、広場に集まりささやかな会話を交わすようになった。


「これでまた夜道を歩けるようになるな。」

「明るいってのは、こんなにも気持ちが楽になるもんだな……」


 当初、村人たちは口々にそう言い合い、皓の仕事ぶりを讃える言葉をかけた。家々の内部は相変わらず薄暗いが、灯塔の光が村人たちに希望をもたらし始めていた。村全体を照らすには光の力が足りないが、それでも、灯塔の光の広がりを見て、村人たちは次第に新たな希望を抱き始めていた。

 皓は燈塔の反射板を磨きながら、遠くに見える村の灯りを見渡していた。点々と広がる小さな光の輪。それは彼の努力が形になった証だった。


「……もっと、明るくなれば……きっと」


 自らを励ますように呟き、皓は作業を続ける。拭いきれない違和感が、皓の胸の奥に広がっている。それは村の人々の態度だった。光が増すほど、村人たちの態度には微妙な変化が見えた。それは期待とも不満ともつかない態度だ。この村自体が、そういう風土なのかもしれないと皓は思う。

 この村では、役割を全うすることが絶対視されている。畑を耕す者は朝から晩まで鍬を振り、炭を焼く者は雨の日でも山に入る。それが村のしきたりであり、仕事に妥協することは許されない。自分の役目を果たすことは、生きるための最低限の義務であり、それを手放す者は「怠け者」として冷たい目で見られる。

 他人から見ても「仕方ないこと」以外は、手を止める理由にならない。だからこそ、この村で一度その役割を担うと決められた者は、全力を尽くすのが当然とされる。そして、役目を果たした結果として感謝を求めることもない。故に感謝し合う文化がない。それが村の風土であり、暗黙のルールだった。


「外から来た俺も例外ではないのだろう……」


 手を止めるわけにはいかない。列車から降りると決めたのは自分自身だ。そしてこの村にしばらく滞在するとも。知識や技術を使ってこの村の光を取り戻すこと。それが自分に課した役目であり、今の自分にできる唯一のことだった。


 光が増すたびに募る違和感は、次第に否定できない確信へと変わっていった。

 灯りが戻りつつある状況に安心したのか、当初見せていた慎ましさや遠慮は次第に薄れていった。いつしか彼への頼みごとは日増しに増え、その言い方もどこか横柄さを帯びるようになっていった。


「どれくらいで全体が明るくなるんだ? 家の中も灯せるようにならないか」

「村の境だけじゃ足りないよ。もっと広げてくれなきゃ困る」

「畑も照らしてくれたら、作物が育つんじゃないか?」


 頼まれることがいつしか『当然のことだ』という態度に変わっていった。それが、皓の心にじわじわと重くのしかかる。彼が疲れを見せると、村人たちは舌打ちをしたり、不満げに眉をひそめたりして露骨に彼を責め立てた。


「おい、太刀花さん!」


 ある日、作業の合間に広場で一息ついていた皓に、源の声が飛んできた。いつもより深いところまでいって薪を作ってきたらしかった。


「そんなところでのんびりしてる暇があるなら、さっさと灯りを増やす作業をしてくれよ」


 皓は思わず顔を上げたが、源の視線には叱責の色が宿っていた。周囲にいた村人たちも、同じように不満げな視線を皓に向けている。


「……分かりました」


 皓は短く答えると、立ち上がって作業に戻った。胸に刺さる棘のような痛みが、次第に鈍く広がっていく。それを押し殺しながら、皓は疲れた身体を引きずって広場を後にした。

 村人たちの間で誰も彼に「ありがとう」と言う者はいない。そのことが、静かに、けれど確実に彼の心を締め付けていく。


「これが当たり前だと思っているのか……?」


 皓は喉の奥にわき上がる苦い感情を押し込んだ。村人たちの期待は膨らみ続け、彼に課せられる負担もまた増していく。だが、皓は拒みたくはなかった。手を止めれば、この村は再び闇に戻る。それだけは避けなければならない――どんな状況でも自分自身の可能性を探ることを優先しなければ、この旅の意味はないのだ。


 その日以降も、頼みごとが続いた。


「明るくなったんだから、次はうちの家の前も頼むよ」

「村の境までついたんだって? じゃあついでに、村の外れまで灯せるようにしてくれ」


 頼みを断れば不満げな顔をされ、どれだけ作業を続けてもやはり感謝や労いの言葉は聞こえない。皓は次第に、自分がこの村で何をしているのか分からなくなり始めていた。

 そんな中、燈塔をさらに詳しく調べる必要があると感じた皓は、住人たちに助力を求めた。燈塔の内情を知ることは、村全体で状況を同時に把握できる。住人たちにとって利益になるという意図だった。しかし、それは村人たちには伝わらなかった。


「燈塔の調査? うちらに言われてもな……。それに、そんな暇があるなら、もっと灯りを増やしてくれたほうがいいよ。それかさ、まだ道が塞がってるから仕事にならないんだよね。どうにかしてくれない?」

「余計なことする暇があったら、山まで照らす方法を考えてくれよ」


 渦奈や源から次々と否定的な言葉が返ってくる中で、皓はいよいよ限界を覚える。それぞれ、自分の仕事の都合や利害についての言葉しか口にしない。


 そんなある日、皓は滞在している建屋の奥で、埃をかぶった古びた箱を見つけた。中にはいくつか古い道具がしまわれており、その中に一冊のノートが混ざっていた。


「これ……誰かの日記かな?」


 皓はノートを手に取り、表紙をそっとめくった。どうやら以前、ここに来ていた灯火守のもののようだ。書かれているのは崩れた文字で綴られた日記。最初の数ページは日常の記録だったが、次第に言葉が重苦しく、そして絶望的なものへと変わっていく。


 ――燈塔の光を取り戻せば、村人はきっと感謝してくれると思っていた。

 ――けれども、誰も感謝の言葉を口にしない。それどころか、期待はどんどん膨らみ、少しの失敗でも責められる。

 ――「灯火守なのだから当然だ」と言われるたび、胸が重くなる。

 ――事実、私は灯火守である以上、責任を果たすべきなのだろう。けれど、この村の人たちは私の努力を当たり前だと思っている。

 ――私は、ここに居続けるべきなのだろうか。

 ――もう限界だ。ここから離れなければ、私の灯を見失ってしまう……。


 皓の胸に重く鈍い痛みが広がっていく。この記録が何を意味しているのか、今の自分に何を語りかけているのかを理解せずにはいられなかった。


「今の俺と……同じことが……」


 皓はそっとノートを閉じた。その指先は、わずかに震えている。村の光を取り戻すために奔走している自分が、同じ道をたどるのではないか――そんな不安が心の奥にじわりと染み込んでいく。

 皓は埃だらけの箱の中をもう一度覗き込んだ。奥底に使い込まれた燈石の欠片があった。燈石の欠片の表面には微かな光が宿っていたが、それは今にも消え入りそうな、弱々しい輝きだった。


「この人も……最後まで、ここを照らそうとしてたんだな」


 皓は欠片をそっと手に取り、かつての灯火守の心情を想像した。その人が抱えていた希望、そして絶望。それは今の自分にも重なるものだった。

 外に出た皓の目に映ったのは、いつも通りになりつつある村の風景だった。広場では子どもたちが遊び、大人たちは働き、時折話し込んでいる。少し前まで寂れていた村が、確かに変わり始めている――そう思う一方で、皓の中には消えないわだかまりが強くなる一方だ。


「太刀花さん、こっちの畑の灯りなんだけど、弱い気がするんだ。なんとかならないかな?」


 近くに立っていた農夫が声をかけてきた。皓は反射的に笑顔を作りながら、相手の目を見る。


「分かりました。明日、調整してみます」


 農夫は「頼むよ」とだけ言い残して立ち去った。その背中を見送った後、皓は深く息をついた。

 日記の言葉が頭を離れない。

 ――感謝されることを期待したわけじゃない。

 皓は何度も、そう自分に言い聞かせる。しかし、胸のざわつきは折り重なるばかりだった。


 ◆ ◆ ◆

 

「太刀花さん、そろそろ燈塔をもっと本格的に直せるんじゃない?」


 治恵子が皓に向かって言ったのは、役場で満佐次と道具の点検を行い、広場で昼食休憩しているときだった。彼女の声は明るく、一見悪意は感じられないが、その言葉の中には当然のように皓への期待が織り込まれている。

 皓は一瞬手を止めて、治恵子を見つめた。


「……燈塔は、ある程度の調整や手入れならできます。でも、構造全体の修復となると、それは灯火守にしかできない作業です。僕では……」


 途中で言葉を飲み込むと、皓は視線を下げた。


「もうずいぶん、燈塔の光を戻してくれてるじゃない。灯火守でなくても、なんとかなるんじゃない?」


 治恵子は首を傾げた。まるで、皓の断りが信じられないようだった。


「……いえ、燈塔の仕組みや燈石そのものを変えるような大規模なことは、灯火守でなければ扱えない領域なのです。僕にはそこまでの燈力が……」


 皓が答えようとすると、今度は近くで話を聞いていた満佐次が割り込んできた。


「いやいや、結局やる気がないだけなんじゃないのか? 修理が必要なら手をつけるべきだろう。燈石への燈力の注入なら、別の素材を探して使えばいいんじゃないのか。……それとも、外から来たあんたは村の問題を深く考えてくれてないってことか?」


 満佐次の言葉には棘が含まれていた。柘榴石の首飾りを皓が大事にしているのを知り、それを使わせようとする意図が透けて見える。



「違います。ただ……」


 皓は反論しようとしたが、言葉が続かない。


「結局、あんたも中途半端なんだろう? こっちは毎日必死に生きてるんだ。役目を果たすのが当然じゃないのか?」


 別の村人の言葉に、他の村人たちも同調するかのように口々に意見を出し始めた。


「だったら、少しでもできることを増やしてくれよ。調整だって、一回やれば終わりじゃないんだろ?」

「山のほうが暗いままじゃ、結局獣害が減らないんだから。ちょっと考えれば分かるだろう。そっちも早くやってくれ!」

「畑の灯りもまだ弱いよね。前にやるっていってたんだから、次はそこをもっと明るくしてほしいんだけど!」


 皓は耳に飛び込んでくる声を聞きながら、ただ黙って立ち尽くしていた。遠巻きに子供たちが皓たちを眺める中、その後ろに、村に来てすぐに「関わらない方がいい」と声をかけてきた男性の姿があった。彼は憐憫を含んだ目で、理不尽に責められている皓を見つめている。


 ――あの人は、こうなると分かっていたから止めたのだろうか。


 要求は具体的であり、暮らしと都合を考えれば決しておかしなことではない。しかし、感謝どころか助力や手助けすらなく、皓の働きに対して尊敬も尊重も見られない。そのことが、胸に重い鉛のような感覚を広げていく。

 しばらく言葉を失っていた皓だったが、ようやく顔を上げ、村人たちを見回した。彼の声は疲れていたが、それでも誠実さを保とうとしていた。


「分かりました。調査はしてみます。ただ……」


 周囲の視線が再び皓に集中する。彼は短く息を吸い、続けた。


「燈塔そのものの問題をきちんと理解しなければ、これ以上の改善は難しいかもしれません。ただ光を広げるだけでは根本的な解決になりません。それには、時間が必要です」


 その言葉に、一瞬だけ静寂が降りた。しかし、それを破ったのは渦奈だった。


「それでいつ結果が出るの? 前にも言ったけど、灯りを強くしてくれたほうが役に立つって話をしたじゃない。結局、先延ばしするだけじゃないの?」


 渦奈の眉が不満げにひそめられる。調査など無駄に見える――すぐさま目に見える結果が出ないことに価値を見出せない、それがこの村の風土だった。


「……出し惜しみして、時間を稼いでいるだけじゃないのか。山の実りを良くする案は考えてるのか?」


 源が険しい声で問いかける。その目は、皓の首飾りに一瞬だけ向けられた。

 皓は歯を食いしばった。言い返したい気持ちはあったが、村人たちの冷たい視線の中で、その言葉を飲み込むしかなかった。


「……それでも、今やるべきことだと思います」


 視線を落としつつも、静かに言葉を続けた。


「それぞれの状態が分からなければ対処もできません。細かく調査することで、もっと効果的に光を広げられる方法が見つかるかもしれません。少しだけ……時間をください」

「本当にそう思うなら、勝手にやればいいよ。でも、俺たちにはそれぞれ仕事があるんだからな。滞ってることを忘れるなよ」


 満佐次が投げやりに言い放つ。その言葉に、他の村人たちもそれぞれ不満げな表情を浮かべながら散り散りに作業へ戻っていった。


 ◆ ◆ ◆


 皓は燈塔の扉を押し開け、中へ足を踏み入れた。空気は冷たく、湿り気を帯びている。外の明るさとは対照的に、塔内は薄暗く、窓から差し込む光がかすかに床に線を描いていた。彼は小さな懐中燈を取り出し、内部を照らしながら歩き始めた。

 螺旋階段の周囲には、古びた燈石が固定されている。そのいくつかはひび割れており、かつては強い光を放っていたであろう痕跡が残っていたが、今ではほとんど機能していない。皓はその一つに手を触れ、表面のざらつきを指先で確かめた。


「……燈石自体が限界を迎えているのはわかっている。欠片をかき集めても一つにするのは灯火守でなければできない……ひびを消すのも同じ……基本部分から作り変えるしか……」


 呟きながら、彼は顔を上げ、周囲を見渡した。塔内には修理用と思われる古い道具や、かつての作業記録が無造作に置かれている棚がある。皓は慎重に棚へ近づき、そこに積まれた書類の束を手に取った。

 埃を払って最初の一枚を広げる。そこには運用作業で必要になる記述が並んでいた。たとえば、燈石の交換手順や光の調整方法、使用する道具の一覧などが詳細に書かれている。しかし、読むうちに皓は眉をひそめた。


「……技術自体は、古典的な装置だ。けど……」


 書類には具体的な仕様が書かれていない。燈石のどの部分をどの程度、摩耗するものなのか。大きさや重さの基準値がいくつなのか、最大燈力量がどれほどで、適合する注入装置の形式など――設計の根幹に関わる情報が抜け落ちているのだ。

 さらに次の紙束を広げる。そこにはかつての灯火守が残したような手書きのメモがあったが、それもまた要点を欠いていた。例えば、あるページにはこう記されていた。

 ――燈塔の光が弱まる兆候が見られた場合、反射板の角度を微調整し、燈石表面を研磨すること。燈力が十分に供給されていれば光は戻るはずだ――


「……『戻るはず』って……これも具体的な基準が何も書かれていないじゃないか……」


 皓はページをめくる手を止め、深い溜め息をついた。重要な仕様や設計図がなければ、ただ技術の手順を知っているだけではどうにもならない。燈石そのものがどう作られ、どのような特性を持つのか。その核心部分の情報が見当たらないのだ。

 別の記録には、さらに専門的な技術について記載があった。燈塔の螺旋部に設置された『副燈石』と中心部に設置された『主燈石』の詳細だ。しかし、その「主燈石」についても、知りたい部分が省かれている。実際にどうやって調整すればよいのか、どの程度の燈力を注入すれば安全なのか、具体的な方法は一切書かれていない。

 皓は最後に、埃をかぶった厚い冊子を手に取った。これが設計図ではないかと期待してページをめくる。しかし、中に書かれていたのは燈塔の歴史や、過去の灯火守たちの体験談だった。これらの記述は興味深いが、現在の状況を改善する手助けにはならない。


「……核心に届かない。肝心な部分だけが、意図的に隠されているみたいだ……」


 皓は手に持った冊子を静かに閉じ、棚に戻した。燈塔の中をこれだけ調べても得られるものは限られている。今の状況を抜本的に改善するには、どうしても灯火守による巡律が必要だと痛感せざるを得なかった。

 階段を降りるたびに、燈塔の冷たい空気が彼の足元にまとわりつくようだった。その冷たさが、村人たちの期待を背負う自分の心情とも重なって感じられる。「もっと灯りを強くしてくれ」「山まで光を届けてくれ」――耳元にこびりつく村人たちの声が頭から離れない。


 皓は燈塔の扉を静かに閉めた。夕暮れの赤い光が、村を柔らかく包んでいる。だが、その穏やかな風景に、皓の心はさらに沈んでいった。調査で得られたものは、ほとんど何もなかった。


「技術的な範囲は理解できた。運用手順も理解している。だが、設計そのものが分からなければ……」


 自分の限界が、これほどまでに明確に突きつけられたのは初めてだった。皓は背中を壁に預け、深く息を吐いた。言われそうな言葉が、村人たちの声をして耳元で反響する。


『なんであんなに時間をかけて調べたんだ?』

『結局、あの外から来た奴は何もしてくれないんじゃないのか?』


 浴びせられた陰口。その言葉たちが胸を刺し、心をさらに重くする。


「……煇さんや火鹿さんなら、どうしただろう……?」


 その二人が、今の状況で何をしていたか想像してみる。しかし、答えは出てこない。彼らには確かな力があり、実績がある。そして、今の自分には何もない。ただ、「できない」と言い訳を重ねているのではないか。そう考えてしまう自分がここにいる。

 燈塔を見上げた。村人たちにとって絶対的に必要なもの――それを支えられない自分がいる現実。その事実が、心に鉛のような重さをもたらしていた。


「このままでは……」


 皓は言葉を飲み込んだ。村に応えられない自分。この村でやるべきことが本当にあるのか。その問いが、胸の奥で静かに広がっていく。

 不意に、身の危険を感じる寒気が襲いかかる。それは責任を追及される不安ではなく、もっと生命の危機に直面するような、根源的な恐怖だった。

 燈塔の足元に立っていた皓は、突然の鈍い地響きを感じた。足元がわずかに揺れ始め、直感的に何かが起こると悟った。


「……え?」


 次の瞬間、地面が大きく波打ち、皓はバランスを崩して塔の外壁に手をついた。揺れが急激に激しくなり、塔の内部からも軋むような音が響いてきた。

 村全体が揺れる――いや、大地そのものがうねっているようだった。


「地震だ――!」


 遠くから誰かの叫び声が聞こえ、皓は燈塔を見上げた。塔の上部に巨大なひび割れが走り、瓦礫が次々と落ちている。


「まずい……!」


 皓は頭上を覆うように腕を上げ、落下する瓦礫を避けながら塔の外周を移動した。揺れが激しさを増し、地面に立っているのも難しい状況だった。塔のすぐそばには、倒れた木々や散乱する瓦礫が積み重なり始めていた。

 そのとき視界の端で小さな人影が動くのが見えた。塔の影の近く――まだ幼い少年が立ち尽くしている。


「どうしてそんなところに……!」


 皓は即座に駆け寄った。足元に瓦礫が転がり、靴の裏に当たるたび滑りそうになりながら、それでも皓は前へ進んだ。それでも、目の前で揺れる燈塔がいつ崩れ落ちるか分からない緊迫感が、彼の身体を突き動かした。


「危ない!」


 少年は恐怖に固まって動けなくなっている。皓の叫び声にも反応せず、塔の上を見上げていた。


「動くんだ! ここにいちゃ駄目だ!」


 少年は泣きそうな顔をして皓を見上げたが、言葉が出ないようだ。ただ震える手を伸ばしてきた。皓は迷わずその小さな体を抱え上げ、背中に乗せた。


「怖いかもしれないけど、俺に任せて! 絶対助けるから!」


 少年の手を自分の首に回させると、皓は瓦礫を避けながら走り出した。燈塔の揺れがさらに激しさを増し、頭上から降り注ぐ破片が周囲に散乱している。


「……耐えろ……足を止めるな……!」


 瓦礫が彼の足元に転がり、足を取られそうになる。それでも皓は子供を守るために走り続けた。燈塔から広場までは数十メートル。だが、それが永遠にも思えるほどの距離だった。

 背中の少年が震えながら皓の肩にしがみついているのが分かる。


「大丈夫だ、もう少しで広場だ!」


 皓は自分にも言い聞かせるように叫びながら進んだ。瓦礫が降り注ぎ、地面の揺れが足元を奪おうとする中、それでも彼の足は止まらなかった。

 ようやく広場が視界に入ったとき、揺れも落ち着いてきた。皓は瓦礫の少ない場所を見つけると、その場で膝をつき、子供をそっと地面に下ろした。


「無事か? 怪我はないか?」


 皓が問いかけると、少年は泣き出しながらも小さく頷いた。その小さな手が皓の腕にしがみつき、離れようとしない。


「よく頑張ったな……もう安全だ」


 皓が子供の頭をそっと撫でると、その目に緊張から解き放たれた涙が浮かんだ。

 しかし安堵する間もなく、村人たちの怒声が響いてきた。


「おい、燈塔が……!」

「なんでこんなことに……!」


 皓は振り返ると、燈塔がさらに傾き、瓦礫が次々と地面に落ちていく様子が見えた。村人たちが混乱と恐怖に包まれる中、その視線が次第に皓へと向けられる。


「お前が……燈塔をいじったんだろう……」


 低い声が群衆の中から聞こえた。その一言が引き金となり、他の村人たちの怒りが一気に爆発した。


「調査とか言って、変なことをしたんじゃないのか!」

「外から来た奴が、なんてことを……!」

「俺たちの生活を壊すつもりだったのか!」


 怒号が次々と皓に向けられる。最初は個々の不満だったが、やがてひとつの怒りの波となり、押し寄せてくる。そのひとつひとつが、鋭い刃物のように彼の心に突き刺さった。


「お前が変に触って、燈塔を壊したんだろう!」

「余計なことしやがって!」

「全部あんたのせいだ!」


 群衆の声は次第に大きくなり、彼を囲むように押し寄せてくる。皓の胸に冷たいものが走った。それはただの恐怖ではない――孤立感と無力感が混ざり合った、根底から体を凍らせる感覚だった。

 自分はただ、この村を助けたいと思って行動していただけだ――そう言いたかった。けれど、喉が塞がれたように、言葉が出てこない。どんなに声を出そうとしても、その言葉が空気を震わせることはなかった。


「違う……違うんだ……」


 小さく呟いたその声は、誰の耳にも届かない。怒りに染まった村人たちの視線が彼を射抜くように突き刺さる。彼らにとって皓は外から来た異物であり、いまや憎悪の矛先となる存在だった。


「村を壊すつもりだったのか?」

「生活が滅茶苦茶だ! あんたのせいで!」


 さらに声が重なる。皓は肩を震わせながら、視線を地面に落とした。だが、ふいに顔を上げ、震える声で叫ぶように言葉を放った。


「この地震は自然に発生したもので、塔の調査とは関連しません! 列車の線路をふさいだ山崩れと同様で……」


 皓は胸の奥に溜まった言葉を振り絞った。必死さが滲むその声は、震えながら広場に響き渡る。しかし――その場にいた誰一人として耳を傾ける様子はなかった。


「嘘をつくな!」

「そんな話が通じると思うのか!」


 村人たちの怒りが再び噴き上がる。


「本当です! 塔を調査しただけで、装置そのものには触れていないんです、だから――」


 皓は再び叫んだ。その声は喉を裂くように響く。


「何を言い訳してんだ!」

「自分が触ったからこうなったんだろう!」

「余計なことをしておいて、今さら誤魔化すのか!」


 怒声が収まる気配はなく、かえって大きな波となって押し寄せてくる。

 皓は目の前が白く霞むような感覚に陥った。目に映るのは怒りに満ちた村人たちの顔。刺すような視線が、体の奥深くに突き刺さるようだった。


「違う……違うんだ……」


 小さな声が口をついた。しかし、その言葉を拾う者はいない。村人たちはさらに言葉を重ねる。


「外から来た奴なんか信じられるか!」


 皓の体が震えた。それは寒さからではなく、心を締め付ける絶望感からくるものだった。彼の視界はもはや村人たちの怒りしか映らず、周囲の光景はぼやけて見える。

 逃げ場はなかった。喉の奥にまで押し寄せてくる怒りの声が、心を追い詰めていく。


「……!」


 はじかれるように、皓は一歩を踏み出した。全身を震えてうまく動かなかったが、力の限りに走り出す。


「逃げるな!」

「どこに行く気だ!」


 背後から追いすがる怒声。しかし、振り返る余裕はない。皓は足元に散らばる瓦礫で躓きそうになりながらも、ただ前へ――その場を離れるように走った。

 何も考えられない。ただ、この場から遠ざかることだけが頭を支配していた。どこへ行くべきかも分からない。けれど、気がつくと彼の足は自然と燈塔の方へ向かっていた。


「……俺は……」


 言葉にならない声が喉をついた。足元に広がる瓦礫と、ぐらつく地面の感覚。心臓の鼓動が耳を打つ音と混じり、周囲の音が遠くなる。

 目の前に燈塔が迫る。傾きながら、それでも崩れずに立ち続ける塔。その姿がまるで、今にも壊れてしまいそうな自分自身を映しているように見えた。


「俺にできることは……」


 小さく呟く声は、誰にも届かず、瓦礫と揺れる大地の音に飲み込まれる。皓は力なくその場に膝をつきかけた。

 煇からもらった柘榴石の首飾りが肌に触れている感覚が微かに意識をよぎる。だが、手を伸ばすことすら、今の彼にはできなかった。希望の象徴であるはずのそれすら、いまの皓には遠すぎる。

 ――煇さん……俺は……、俺は、何をしてるんだ……。

 心の奥底で声がかき消される感覚のまま、皓は視線を燈塔へと向けた。揺れながらも立ち続けるその姿が、自分に問いを投げかけているように見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る