第29話 富雄、襲来!


 午後、街歩きを終えた3人は保養所への坂道を歩いていた。

途中で響司は黒田執事からの電話が入り、それが長引く内容だったため、

浄と暁は響司に促され、二人で先に保養所に帰ることになった。


「楽しかったね!鐵ちゃんへのお土産も買ったし!」

「そうだね。もう一回くらい休みがあるだろうし、次は釣りでもしようか」

「釣り?!やってみたい!…でも、もうちょっとで

熱海でのお仕事終わっちゃうんだね」

「今度は夏に遊びに来ようよ。海水浴シーズンに、みんなでさ」

「うん!」


 浄と暁が保養所に近づくと、

門前に銀色のポルシェが停まっているのが見えた。

「わぁ。かっこいい車…」

「…お客さんみたいだね」


 庭先で3人の男女が何やら言い争っているのが見えた。

すらりとしたビジネスマン風の男、

そして鐵也と銘だった。


「あれは…仙石社長?なんでここに」

「それに鐵ちゃんと香田さん?」


 回復トレーニングから帰ったのであろう鐵也は

その背中に銘を庇い、仙石となにやら言い争っている。

激しく睨み合う2人の男のただならぬ雰囲気を察し、

浄はさっさと割り込んだ。


「ただいま~!おや鐵ちゃん、珍しいお客さんだね?」

「…客なんかじゃねェ」

「ずいぶんなお言葉ですね。特務清掃員さん」


 仙石は侮蔑と憎しみのこもった目で鐵也を見下ろす。

そんな視線をものともせず、鐵也は琥珀色の眼で

外敵を前にした虎のように仙石を睨み返した。


「ちょっとちょっと…ここは天下の清掃庁のお膝元ですよ?

揉め事を起こしたらどれだけ面倒なことになるか、

切れ者社長さんなら分かりますよね?」


 浄がやんわりと仙石に釘を刺す。

仙石は憮然として言い返した。


「僕はただ、妻を返していただきに来ただけです」

「妻?!」


 浄と暁は銘と見た。銘は小さく頷いた。

そこで鐵也が口を開く。


「奥さんは、あんたのところに帰りたくないんだとさ」


鐵也の目がさらに鋭く富雄を射抜いた。


「…消えな」


 その声は低く、獣の呻り声にも似ていた。

街のチンピラ風情なら鐵也の迫力に一目散に逃げ出しただろう。


 成功者として胆力ある仙石富雄すら一瞬たじろぎぐほどだった。

しかし気を取り直して富雄は銘に訴える。


「め、銘さん、嘘ですよね?

貴女はこの男に…金城に騙されているんだ!」


それまで俯いていた銘が、弾かれたように顔を上げた。


「何て言われてそそのかされたんです?

かわいそうに…!そんな質素ななりで、

みすぼらしい保養所なんかで安い時給でこき使われて!

貴女はそんな扱いをされてよい女性ではないのに!!」


「みすぼらしいって…」浄はつい苦笑した。

「保養所の悪口言わないで!」暁は素直に怒っている。


「何度も言っているでしょう、銘さん。

貴女は下々の女達のように、

身を粉にして働く必要なんかないんです。

お金の心配はいりません。家事は家政婦に任せればいい。

好きなだけ買い物をして、美味しいものを食べて、

ご両親やお友達と旅行をして、趣味を楽しんで…

毎日自由に、のびのびと過ごしてくださればいいんです」


富雄は鐵也を強引に押しのけ銘の手首を掴んだ。


「さあ、帰りますよ、銘さん。茶番は終わりです」

「わ、私…」

「てめェ!!」


 鐵也の怒りの導火線に火が点いたその瞬間、

銘は富雄に捕まれた手首を力強く振りほどいた!


「私、そんな生活望んでいません!!」


富雄は銘の強い語気におもわずたじろいだ。


「銘さん…」

「あなたが実家を立て直してくださったことには感謝しています。

でも…でも、これ以上私に関わらないで!!」

「……」


 静かに…しかし火を噴くように烈しい銘の語気に、

富雄は完全に気圧されている。


「生活に必要なお金は自分で稼ぎます。あなたにご迷惑はかけません。

パーティーなどの社交に妻の同席が必要なら、その時だけご一緒しますわ!

それで文句ありませんでしょう?!」


 銘は決然と言い放った。

日頃のにこにこと柔和な彼女の印象とはまるで違い、

その態度も物腰も女武将のように毅然としていた。

富雄だけではなく、浄も暁も彼女の迫力に気圧されていた。


「……帰ってください」

銘は富雄に背を向け、その顔を見ようともしなかった。


「…分かりました。今日のところは、帰ります…」


 富雄は力ない声で返すと銀色のポルシェに乗り込み

悄然しょうぜんと去って行った。

鐵也は銘に近寄り、静かに声をかけた。


「…その、銘ちゃん…大丈夫か?」

「大丈夫よ、鐵ちゃん」


 銘は疲れた笑顔を鐵也に向けた。

その細い肩や握りしめた指先が、かすかに震えている。


「私が何をしたって何を言ったって、離婚なんかされない」

「だからって」

「あの人は…私という女に興味なんかひとつもないけど、

鋼坂の人脈や影響力は必要だから…」

「銘ちゃん…」


銘の哀し気な様子に、鐵也は奥歯を噛み締めた。


認められる訳がない。


 幼い頃、狭い世界に閉じこもっていた鐵也を

遠い浄土ヶ浜への冒険に連れ出してくれた

勇敢で愛らしい女の子の未来が、

こんなにも悲しく寄る辺ないものだなどと。


「ただいま。……何かあったのかな?」


 黒田執事との電話を終えて響司が帰って来た。

保養所の庭先にたちこめる重い空気に、

響司は綺麗に整った眉を寄せた。




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